海外探訪の記(三)

 前回(二)で、海外を探訪して書いた最初の文章である「フィリピンかけある記」を紹介したが、それに続いて書いたのが「韓国かけある記」である。これも、かながわ総合科学研究所の『所報』No.63(1993年8月)に掲載された。こちらも前回同様で、いまさら紹介することにどれほどの意味があるのかよくわからないような気もするが、これもやはりこれも懐かしい文章なので、若干ではあるが字句の修正を行って投稿することにした。
              
 ●近くて遠い国へ
                                
 今年(1993年)の3月14日から19日にかけて、韓国に出掛ける機会があった。昨年出掛けたフィリピンの訪問記を『所報』のNo.60号に書いたので、今度もまた何か書いてほしいとの担当者からの要望である。とりたててきちんとしたものなど書けそうにないので、今回もまた気楽な読み物ふうに旅の印象をしたためることにしたい。

 私が参加したのは、勤務先の専修大学の社会科学研究所と経営研究所が合同で企画した「韓国企業調査団」のツアーである。研究所では毎年度夏と春に合宿研究会を企画しているが、今年は韓国に出掛けてみようという話が持ち上がった。韓国の全経連(日本の経団連にあたるような経営者団体らしい)に知り合いがいるという同僚の話によれば、そこを通じて韓国企業の工場見学が可能なのではないかということであった。進出日系企業の場合とは違って、韓国企業ということになると見学もそう簡単ではないので、これはいい機会ではないかというわけである。さらに、専修大学は韓国の檀国大学と提携関係にあるので、この機会に檀国大学を表敬訪問し、向こうの教員から韓国経済の現状や問題点についてもレクチャーを受けてはどうかという話もでて、ツアーの中身がだんだんはっきりしていった。

 こうして、まず檀国大学を訪問して交流し、そのあと韓国の代表的な巨大企業である三星(サムスン)電子の水原(スウォン)工場(ソウルの近郊にある)、浦項(ポハン)製鉄所(観光地で有名な慶州の近郊にある)、現代(ヒュンダイ)自動車の蔚山(ウルサン)工場(釜山の近郊にある)を見学することになった。社会科学研究所としては初めての海外視察だったので、参加人数は総勢30名の陣容となった。現地集合、現地解散ということになったので、私は友人6名と一緒に出掛けることにした。

 なかに海外旅行に慣れた人がいて、安いチケットが手に入るという。ソウル-釜山だとJALのビジネスクラスで8万円、エコノミークラスで5万円、それがソウル往復でUA(ユナイテッド・エアライン)に乗れば3万円を切るのだという。これでは価格があってないようなものである。少し時間は余分にかかるが安いにこしたことはないので、一番安いので行くことにした。飛行機に乗っている時間は1時間半ほどだから、本当にあっという間に金浦(キンポ)空港に到着である。アンニョンハシムニカ(こんにちは)やカムサハムニダ(ありがとう)などの挨拶も覚え切らないうちに到着してしまって、いささか拍子抜けの感がある。

 空港からバスに乗ってソウル駅近くのホテルに向かったが、ハングル文字の看板や広告を除けば、街の雰囲気に何の違和感もない。そのことが逆に不思議なくらいである。日本と韓国は本当に近い。ホテルでは日本語で用が足せるし、町なかではカタコトの英語で何とかなるので、私のように国際化していない田舎者でも緊張感はまるでない。夜にみんなで食事にでかけたが、オンドルのついた板敷のレストランで、ビールを飲みながら食べた焼肉のうまかったこと。肉をはさみで切りながら焼くので、なかなか豪快である。日本で朝鮮焼肉の店でカルビだのロースだのを腹一杯食べたらかなり取られそうな気がするが、物価が安いのでついつい豪遊してしまった。キムチもニンニクもうまいので一生懸命食べていたら、「そんなに精をつけてどうするの」などと冷やかされてしまった(笑)。

 ●檀国大学にて
                        
 翌日は、先着組だけで予定の少し前に檀国大学を表敬訪問した。大学の雰囲気はなんとなく雑然として活気に溢れていた。ビラがベタベタと張られ、立看があり、ギター片手に歌うグループがおりという具合である。レクチャーを受けていたときには、集会でもやっているのかマイクの音が聞こえてきた。もっともそれらの多くが「政治」と関わっているというわけでもないようだ。大学の構内を案内してくれたひとに「スチューデント・パワーは強いのか」と尋ねたら、「ノー」との返事だった。その後大学の4名の教員から、韓国経済の発展と現況や韓日貿易の現況と問題点、韓国労働問題の現況と動向、韓国の大学の商経教育の現況について、日本語で簡単なレクチャーを受けた。われわれからするととても助かるが、外国に来て日本語の話を聞いているのが不思議で面映い感じがする。学長は冒頭の挨拶で「両国の間に不幸な歴史があったが」と述べたが、被害者側からの発言にはやはり重みと痛みを感じる。

 報告のひとつひとつは短いものだったので、詳しく紹介することはやめるが、朝鮮戦争による人命の損失(戦死者数は南150万、北200万)と国土の徹底した破壊、1953年の休戦協定、1960年4月の学生革命による李承晩政権の打倒、1965年の日韓条約、ベトナム特需、1975年からの低賃金を利用した中東進出や10大財閥の育成、1979年の朴大統領暗殺、1987年6月の民主化宣言、1988年のソウル・オリンピック景気と聞いていると、何やら自分史を振り返っているようで、やたらに懐かしい思いがした。

 韓国は教育熱が高いことで知られるが、1960~70年代には低賃金の高学歴労働者が成長の原動力となったという。また民主化宣言後の新たな事態として、労働紛争が無秩序に爆発し、賃金が大幅に上昇して「3高(賃金、物価、為替)時代」を迎えたために、外国企業の韓国からの撤退や中小企業の倒産が大きな問題となり、労働者の勤労意欲の低下や3K労働忌避現象も表面化してきているようであった。報告者も、4匹の龍(韓国、台湾、香港、シンガポール)のうち、韓国のみが成長速度を失速させていることに懸念を表明していた。

 しばらく前の新聞報道によると、韓国では「高度成長が個人消費を押し上げ、それが成長の原動力となった。一人当たりの国民所得も7,000ドル弱と日本の4分の1にまで伸びた。だが、成長のひずみも現われ、消費ブームがインフレを招いた。消費者物価の上昇率は1990,91の両年は約9%になった。消費財や部品の輸入が増え、90年からは貿易赤字に。(中略)焦点は、消費の行方を左右する春闘だ。4月から5月にかけて交渉が続く。…金大統領は工場を回り、労働者に賃上げ自粛を訴えた。労働側も軟化、賃上げ目標を下げた」という(『朝日新聞』1993年4月13日)。韓国経済が1980年代後半までの勢いを取り戻せるかどうか、まだはっきりした自信は持てないでいるようだった。

 ●韓国企業を訪ねて
                               
 ところで今の子供たちは、隣国の韓国をどんな国として学んでいるのだろう。ちなみに長女の中学校の地理の教科書を拝借して眺めてみたら、次のように記述されていた。「(朝鮮)半島南岸と九州とをへだてている海峡の幅は、わずか200kmしかありません。こんなに近い国なのに、日本人の多くは、人々のことばを理解できず、文字(ハングル)を読むこともできません」。「最近、私たちの身のまわりに、大韓民国の工業製品をよく見かけるようになり、NIESを代表するこの国の工業の発展ぶりが、強く感じられます。大韓民国は、日本やアメリカ合衆国の資金や技術を積極的に取り入れて、工業をさかんにする政策をおしすすめてきました。資源の少ないこの国は、日本と同じように、加工貿易にたよるほかなく、輸出を目的にして工業化をすすめてきました。」

 「最初は、繊維・雑貨・食品などの軽工業が各地におこり、ついで、ソウル周辺やプサン(釜山)・ウルサン(蔚山)などの南東部海岸に、鉄鋼・機械・自動車・造船・石油化学などの大規模な工場が建設され、重化学工業地域が生れました。とくに、船の生産は、いちじるしく伸びています。マサン(馬山)には、外国の企業にとって有利な輸出自由地域が設けられ、多くの日本の企業が進出しています。最近は、とくに電子機器や自動車の部品が急速に発達しています。しかし、高度な技術を必要とする素材や部品の多くを、まだ日本から輸入しています。日本とアメリカ合衆国は重要な貿易相手国ですが、大韓民国は、日本にとって有力な競争相手に成長しており、アメリカ合衆国との間には、工業製品の輸出の大幅な増加で貿易摩擦がおきています。」

 私たち一行は、娘の教科書に記載されている場所のうち、「ソウル周辺やプサン(釜山)・ウルサン(蔚山)などの南東部海岸」に出掛けたことになる。まず最初に訪問したのは、三星電子の水原工場である。三星電子は「現代」(HYUNDAI)とならぶ韓国二大財閥の一つである「三星」(SAMSUNG)の中核企業であり、現在は情報通信、半導体、コンピュータ、家電の4事業を有し、従業員46,000名を擁する総合電子企業である。

 われわれはまずショールームに案内されたが、そこには最先端の家電・音響製品がずらりと並べられていた。その後テレビの組み立て・検査ラインを見学したが、ガイド嬢が具体的な工程や作業についてはほとんど何も知らなかったため、詳しい話を聞くことはできなかった。プリント基盤への電子部品の搭載工程ではインサートマシンが導入されており、また最終の梱包工程も完全に自動化され、自動化の程度はかなりの水準にあるようだった。またQC活動も導入されているようで、手書きの絵やグラフが散見された。工場内にさまざまなスローガンが張り出されているところも日本と似ていた。

 もらったパンフレットによると、「企業は家族共同体である」いう労務管理イデオロギーの下に、従業員は「三星家族」として位置付けられ、「平生職場具現(終身雇用の実現)」と「幅広い福利厚生制度」とともに「スムーズな上下間のコミュニケーション」を図る諸制度によって、「労働組合を必要としない成功的な企業経営方式を生み出している」とのことである。日本でもなじみの深い「経営家族主義」イデオロギーが、「三星」グループにも生きているのである。企業を創業者の家族が引き継ぐことも当然のことと受け止められており、また従業員についても韓国企業の場合は縁故採用がかなりの割合を占めているのだという(ただし、三星では1957年に韓国では初めて公開採用に踏み切っている)。韓国社会では、家族や姻戚関係の繋がりがきわめて大きな意味を持っているのである。

 次にわれわれが見学したのは浦項製鉄(POSCO)の浦項製鉄所である。この製鉄所は1970年に着工して3年かけて完成をみた世界第三位の巨大な製鉄所で、資金の半分を日本の資本に頼り、また新日鉄の技術援助を受けて操業を開始している。製鉄所というのはどの国でも国策と深く関わっているようであり(パンフレットにも national will for industrialization and modernizationと書いてあった)、同僚の話によると浦項製鉄所の歴史と旧八幡製鉄所の歴史はきわめて似ているという。われわれが案内されたロビーには「鉄は国家なり 朴正熈」と書かれた額がかけられていた。日本でも長らく「鉄は国家なり」というスローガンが叫ばれ続けたが、冷戦体制の最前線に位置してそのなかで急速な重化学工業化を進めなければならなかった韓国の場合は、日本以上に重みのあるスローガンだったのではなかろうか。製鉄所を中心に企業城下町が広がっているという点でもよく似ているようだ。

 私はこれまで製鉄所を見たことがなかったので、圧延工程そのものがとても興味深かった。工場というのはどこを見ても面白い。われわれの質問に応じてくれた若い社員はきわめて有能で、私たちのかなり立ち入った質問にも流暢な日本語でてきぱきと答えてくれた。エリート社員なのだろう。彼によると、特殊鋼は別として普通鋼については日本の製鉄所と肩を並べるところまで来ているという。彼の話からは自信の程が窺えた。彼はまた、浦項製鉄所には韓国の一流大学の出身者が大勢働いていることを誇らしげに話していた。もらったパンフレットには、従業員対策として「快適で満足した生活」を保障していると記されており、周辺地域に建設された社宅群や寮の綺麗な写真が掲載されていた。ここでは労働者の待遇については十分に配慮しているので、労働問題で頭を悩ますようなことはないとのことであったが、質問が多すぎたこともあって、どのような労使関係となっているのかきちんと聞くことができなかった。

 最後に見学したのは現代自動車の蔚山工場である。韓国の自動車産業はこの10年間にめざましい高成長をとげたことはよく知られている。その結果、韓国の自動車生産は1983年から92年の間に8倍にも増加したという。急速な躍進ぶりが窺われる。同僚の話によると、韓国最大のメーカーでありわれわれが今回訪問した現代自動車は、1980年代後半にカナダとアメリカに「ポニー・エクセル」という小型車を輸出し、センセーショナルな成功を収めたということである。しかしながら、最近は輸入価格の上昇や品質問題で売り上げは急低下しており、新たな困難に直面しているとのことだった。蔚山には5つの工場があったが、われわれはそのなかで、エラントラというクルマをつくっている最新鋭工場を見学させてもらった。

 現場をみての第一印象はと問われれば、やはり工場全体がゆっくりと動いているということになるだろう。日本の工場のような忙しない感じが余りない。作業のテンポがゆっくりなので、自分のポジションから離れて同僚を呼びに行ったり、紙飛行機を飛ばしていた労働者もいたという。こうした事態は、日本だったら「ムダ」でありライン・バランスが取れていないということで直ちに「改善」の対象となるのだろうが、そうした改善が労働者のためになるのかどうか、私にはよくわからない。われわれに説明してくれた管理者の話だと、「今の労働者は自分のことばかりで、会社や仕事のことを考えない。5時になると仕事が残っていてもさっさと帰ってしまう。これが一番困る」とのことだった。見学後の説明でも、「労使が会社の主人公であるという共同体意識を植え付けようとしているが、実際はなかなか難しい」との話があった。労働組合からも話を聞けたならば、もっと興味深い訪問になったことだろう。
                             
 ●あれこれのこと

 ある国にでかけることになると、なんとなくその国に関する「情報」が目に留まるようになるようだ。出掛ける前に読んだ共産党のブックレット『ソウルからの報告』(1992年)も、民主化宣言後の韓国の変化に注目していて面白かった。1993年5月15日の『赤旗』の記事によると、金大統領は「光州の流血はわが国の民主主義の礎石になった」と述べて、光州事件の歴史的意義を称えたという。これまでの反共国家韓国のイメージが徐々に変わりつつあるということなのだろう。街全体の雰囲気もかなり伸び伸びしており、エネルギッシュである。とくに大衆市場などに出掛けると、オニイサンやオバチャンたちの熱気でムンムンするぐらいである。工場見学もいいが、市場をぶらついているのも実に楽しい。豚の首がまるごと置いてあったり、蛹や虫みたいなものが屋台に並んでいたりもする。

 では日本との関係についてはどうか。われわれは慶州(キョンジュ)に行った折に佛国寺という由緒ある寺院を拝観したが、そこの案内板には、豊臣秀吉の朝鮮侵略の際にこの寺院が焼かれたことが記されていたし、また釜山にある竜頭山公園には、秀吉軍を亀甲船で悩ませた李舜臣(イ・スンシン)提督の大きな銅像が立っていた。またガイドの女性は、日本海が韓国では東海と呼ばれていると教えてくれたが、考えてみれば日本海といった呼び方自体にこれまでの日韓関係が反映しているようにも思われる。4月5日付の『朝日新聞』には、大月書店から『教科書を日韓協力で考える』(1993年)という本が出版されたことが報じられているが、その記事によると、日本の「韓国併合」は韓国では「国権強奪」と書かれていることがわかる。また「15年戦争」という呼び方については、韓国側は朝鮮半島を舞台にした日清戦争からの「50年戦争」と呼ぶべきだと指摘したという。

 「加害」についての謝罪と反省は、天皇や国家だけの問題ではなく、われわれ一人ひとりの問題でもあるはずである。われわれのこれからが問われているといえるだろう。今回の旅の唯一の心残りは、「独立記念館」を訪ねることができなかったことだ。いつかぶらりと出掛けてみたいと思っている。日本に帰ってきたら、韓国人だったゼミの卒業生の金城君(三星ジャパンに就職した彼は、卒業前にそのことを私に話してくれた)から結婚式の招待状が届いていたので、少しばかり長い手紙を書いた。

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