東日本大震災私記(五)

 第4章 被災地へ-岩手、宮城、福島-

 岩手県の南西部に位置する北上市には、専修大学の付属高校である専修大学北上高等学校があり、2011年8月にそこで修学支援相談会が開かれた。大学による被災者支援の試みの一つであった。そこに出掛けた私は、仕事を終えて一泊した翌日の朝に、駅前でクルマを借りて太平洋岸をめざした。被災地を北から南に縦断しようと思っていたからである。ボランティアに出掛けたわけでもないし、避難所に励ましに行ったわけでもない。ただただ被災の現場を見に行っただけである。いやもしかしたら、見ると言うよりもただ眺めたに過ぎないのかもしれない。その時の気持をうまく説明することはどうにも面倒なのだが、たとえ眺めるだけではあったとしても、東北に育った人間にはそのぐらいの義務はあるはずだ、そんな心持ちが強くしたのである。

 お盆を過ぎれば東北の秋は足早にやってくる。8月も下旬に入ると一気に涼しさが増していく。コスモスが揺れる季節のなか、北上市から遠野に出て、そこから北上してまずは宮古に向かった。手元に置いたのは各自治体の被災状況を地図入りで示した新聞であるが、それによると、犠牲者が急増するのは北は宮古市からである。海端に出てふらっと裏手に廻ってみたら、土台だけ残して多くの家々が消滅していた。唖然とするしかない。だがそれはまったくの序の口に過ぎなかった。山田町では、たまたま丘の上で催されていた地元のささやかな集まりに顔を出してみた。みんなを励まそうと歌っている人がいる。その丘からは壊滅し尽くした町が一望され、そんななかで聴く歌声はあまりにも悲し過ぎた。涙で目頭が曇りそうになる。

 道路脇にあった立て看板を見た時もそうだった。そこには大意次のようなことが書かれていた。「全国の皆様からのあたたかいご支援を決して忘れません。いつか必ずこのご恩はお返しいたします。どうもありがとうございました」。恩返しとは何と心優しい人々なのであろうか。あの日から五ヶ月も経っているので、瓦礫は片付けられ海岸沿いの道路も支障なく通れるようになっているのだが、大津波の傷跡は道路の両側のそこかしこに生々しいまま残されていた。

 大槌町に入った頃から霧のような秋雨が静かに落ち始めた。文字通り山と積まれた瓦礫の前に立って、あるいはまた壊れ果てた数えきれぬほどのクルマを前にして、大津波の直後はいったいどんなだったのだろうかと想像してみる。家々にもクルマにも、平凡ではあったろうが多くの人々の人生がぎっしりと詰まっていたはずなのである。家族を喪い家を流された人々は、きっと泣き尽くすだけ泣いたに違いない。

 すべてが奪われてしまったかのような被災地の雨降る午後。ところどころに残った鉄骨むき出しの建物の残骸以外は何もない。そんな場所に人影は見当たらず、あらゆる音さえも消えていた。不気味なまでの静寂に取り囲まれた私は、犠牲となった人々の呻きのなかに一人取り残されたかのような錯覚に陥った。鬼哭啾々などといった何とも古めかしい言葉が蘇った。そんな肌寒さを覚えるような静寂は、釜石や大船渡にもあった。

 泊まるところも考えずに出かけてきた私は、宿が見付からなければ、コンビニの駐車場にでもクルマを止めてそこで寝ればいいかと考えていたが、夜に立ち寄った大船渡のラーメン屋で聞いた話によると、近くに旅館があるとのことだった。運よく空き部屋を見付けることができた私は、この旅館に一泊し、翌朝海沿いの繁華街だったところに出掛けてみた。滅茶苦茶に破壊されたビルの内部を眺めていたら、頭の上あたりのところにチリ地震の際の津波(1960年5月に発生した津波で、犠牲者は死者行方不明者142名にのぼった)の到達位置を示すプレートが張ってあり、「災害は忘れたころにやってくる」との標語も見えた。

 だが、ビルが津波に襲われた痕跡は、私の頭上10メートルほどのところにまで達していた。忘れたころにやってきたのはとんでもない大津波であったことが今更ながら実感され、恐怖を覚えた。先のプレートは、津波に対する警告を発するためのものであったはずだが、もしかすると、大津波が来てもこの程度であるとの認識を住民に植え付けてしまっていたのかもしれない。「経験の逆機能」と呼ばれるものである。

 悲しみに満ちた光景の数々は、翌日も陸前高田、気仙沼、南三陸町、石巻、東松島、仙台と、まさに延々とどこまでも続いていった。呆れ果てるとしか言いようのないほどの凄まじいまでの破壊の爪痕である。正直に言ってしまえば、できたらこんなところは早く駆け抜けてしまいたいような気持にもなったのだが、何かがどうしてもそれを許さないのである。午後遅くにたどり着いた東松島にも人影はなく、もう息苦しささえ感じられるほどだった。そんな場所だというのに、ところどころには名も知らぬ花がひっそりと咲いていた。この日は仙台から福島に抜けて、姉の家に一泊させてもらった。

 終わりの3日目は故郷福島である。福島市内から小学校の頃に遠足で出かけた霊山を抜け、曲がりくねった山道を辿りながら相馬の海に出た。何度か海水浴に来たこともある松川浦も酷い状態だった。今ではここには松川浦大橋という立派な橋が架かっているが、見上げるほどの高さがある橋の欄干の直ぐ下までの高さがある大津波は押し寄せたのだという。そこを南に下って南相馬に出る。ここまで来ると原発はもうすぐである。道路沿いの食堂で昼食をとったあとふらりと外に出てみたら、田圃の畔には赤いカンナの花が咲いていた。まるで何事もなかったかのようにである。私はじっとその花を見続けた。夕方人影も消えた飯舘村を抜けて福島に戻り、私の被災地巡りは終わった。3日間の走行距離は700キロを優に超えていた。

年が明けて2012年1月7日の『朝日新聞』には、横浜の住民たちが被災地の瓦礫の受け入れ問題で県知事と横浜市長に要望書を提出し、撤回を求めたとの記事が載った。その要望書によれば、現状では放射性物質の測定方法や、瓦礫の分別・焼却方法などの安全性が保証されていないからだという。知事は宮古と南三陸町の瓦礫の状況を視察するというのであるが、今のままでは訴えた住民たちが納得できる「絶対」の測定方法とはならず、彼らが満足するような「絶対」の安全性が保証されることもなかろうから、そうなると、瓦礫はそれぞれの被災地で処理してもらうというようなことことにもなりかねない。「他者に対する想像力」を失っていくと、被災地にさらなる犠牲を強いる何とも愚劣な主張を産み落としかねないようにも思われる。うんざりするような年明けである。

昔から読書家であった高校時代の友人は、昨夏福島の温泉に遊んだ際、ジョージ・ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』(岩波文庫)を私に紹介してくれた。これを寝る前に数頁読むのが最近の数少ない楽しみのひとつであるが、そこには次のような述懐が登場する。「愚かしくも生意気であった私は、とかく人の価値をその知的な力量と業績から判断しがちであった。私にとっては、論理のないところにはなんらの善きものはなく、学問のないところになんらの魅力もなかったのだ。今は二つの形式の聡明さ、つまり頭脳の聡明さと心情の聡明さを区別しなければならないと思うようになったのだ。そして後者の方をはるかに重要なものとみなすようになったのだ」と。何と滋味に溢れた指摘であろうか。

 社会科学のそしてまた社会運動の徒であろうとしている人間が、「心情の聡明さ」などを持ち上げたりすると周りから一笑に付されかねないが、そんなことは一向にかまわない。「頭脳の聡明さ」とともに「心情の聡明さ」を忘れないこと、私にとっての震災後とは、そしてまた2012年とは、そんなささやかな決意を持続する時間のありように他ならない。