晩夏の日本海紀行(二)-秋田編-

 第一部 秋田・土崎湊にて

 出発の日となった9月3日は、東京はあいにくの小雨そぼ降る天気だった。まずは秋田市に向かったのであるが、私は秋田新幹線が、盛岡を経由し奥羽山脈を横断し、大仙市で大きくカーブして秋田市に至ることさえよく知らなかった。山形から秋田に向かっているのだろうと勝手に思い込んでいたからである(笑)。同じ東北の福島の出身者にしては、うかつと言えば余りにうかつである。途中仙台を過ぎたあたりから、少しずつ晴れ間も見え始め、盛岡から秋田に向かう頃には、秋めいた景色が車窓から眺められるようになった。黄色に色付いた一面の稲穂が美しく、もう暫くすれば稲刈りが始まるのだろうと思われた。何とも爽やかな秋の気配があたりに漂っており、田舎育ちの私は、調査に来たことなどすっかり忘れてしばし郷愁に耽った(笑)。私が秋田県内に足を踏み入れるのは、今回が二度目である。最初に来たのは、盛岡にある岩手大学で社会政策学会が開かれた時である。折角盛岡まで来たのだからと角館にまで足を延ばし、武家屋敷跡などを一人でぶらりと散策した。今から10年程前の懐かしい思い出である。

 秋田市に到着後、すぐに市役所を訪問して市の関係者からの聴き取りが行われた。その後の質疑応答では、さまざまなことが話題となったが、私がとりわけ注目したのはその際の平尾さんの発言であった。市の職員の方が、「県内には名の知られたところが結構あるが、秋田市には竿燈祭りを除くと見るべきものがないので、売り出し方に悩んでいる」といった趣旨の発言をされたのに対して、平尾さんは「芸術の分野で秋田を売り込んではどうか」と述べられたのである。思わぬ提案だったので気になったのである。そのうえで、平尾さんは木村伊兵衛、藤田嗣治、足立源一郎(あるいは猪熊弦一郎だったか)の名前を挙げられた。三人目の画家については、どちらにしても名前だけしか知らないので、何も書くことはないのだが、木村伊兵衛と藤田嗣治については、この機会に少しばかり触れてみたくなった。

 木村伊兵衛と「秋田民俗」のこと

 まずは木村伊兵衛である。彼は、「和製ブレッソン」とも評され、彼の名を冠した木村伊兵衛賞は、写真家の登竜門とも言われている。彼は土門拳と並んで、日本の写真家を代表する双璧とも言うべき存在である。私の手元にはたまたま全4巻からなる『木村伊兵衛写真全集昭和時代』があるが、その4巻目は「秋田民俗」と題されている。そこに付された、農村問題に関する評論活動や「たいまつ」でも知られる秋田生まれのむのたけじや、写真家の薗部澄(そのべ・きよし)の解説を読むと、東京生まれの木村と秋田を結び付けるような接点は何もなかったようだから、その繋がりはまったくの偶然の産物だったことになる。

 1952年に写真コンテストの審査員としてたまたま秋田に出向いた木村は、この最初の秋田行で、報道写真家としての自分を取り戻さなければならないと強く感じたらしい。その思いがどれほど強かったかは、その後1971年までの20年間に、秋田での撮影行が21回にも及んだことからも窺われよう。相当な入れ込みようである。秋田で撮影された木村の一枚と言うことになれば、かなりの人が知っているであろう田植え姿のおばこ(秋田弁で若い娘のこと)の写真なのではあるまいか。この写真は1953年(この年には、木村は三度も秋田に出掛けている)に大曲で撮られている。秋田美人とはこういう人のことを言うのであろうか。

 モデルとなったのは、当時19歳の柴田洋子という女性だそうだが、彼女はもう既に亡くなっている。木村は他にも彼女の写真を撮ったようだが、美女にありがちなモデル臭さを嫌って、田植え姿にして田圃に立たせたらしい。たんに美しい女性を撮っただけの写真であったならば、しばらくすれば忘れ去られたような気もしないではないが、田植え姿すなわち農で働く姿であったが故に、彼女の美しさは匂い立つほどに際立ったのではなかろうか。素人が偉そうに言うわけではないのだが、さすが木村である(十分に偉そうな物言いではある-笑)。

 この写真を印刷した大きな垂れ幕が、我々一行を出迎えるかのように(たんなる気のせいである-笑)、市内のデパートや道の駅などに掛けられていた。現在の秋田を売り出すのに、優に60年以上も昔の木村の写真が今でも使われているのである。代表作の代表作たる所以であろう。私自身も少々驚くとともに何だか懐かしさも感じた。ところでこの垂れ幕だが、写真の左隣には「あきたびじん」と大きな字で書かれていた。しかしながらよく見ると、「じ」と「ん」の間にきわめて小さな字で「よ」が入っているではないか。秋田の人も結構笑えるなあと、一人にやついてしまった(笑)。妙なところで秋田に親近感を抱いたというわけである。

 話が脇道にそれたが、平尾さんは、秋田に入れ込んだ木村を顕彰するような記念館などがあってもいいのではないか、と言いたかったのであろう。ネットで検索する限り、木村の記念館は全国どこにも見当たらない。隣の山形には、酒田市生まれではあるが、山形を撮った写真などまったくなかった土門拳を顕彰して、じつに立派な記念館が建てられている。余りにも対照的な二人である(笑)。今まったくなかったと書いたが、これも私の手元にある『土門拳全集』全13巻を見る限りではと言うことなのだが…。余談のついでだが、私が木村の写真で気に入っているのは、浅草あたりで若い修行僧がストリップ小屋の看板にチラリと眼をやりながら通り過ぎていくその姿を、後から撮ったものである。「聖」と「俗」が入り交じった一瞬を切り取ったその表現が、何ともユニークである(笑)。対象を徹底して凝視する土門も好きなのだが、木村の一瞬の鋭い感性も捨てがたい。

 藤田嗣治と平野政吉のこと

 では、平尾さんが挙げたもう一人の人物、藤田嗣治についてはどうだろうか。藤田の画業についてはよく知られているので、ここでいちいち触れる必要はあるまい。藤田と秋田との繋がりですぐに思い出すのは、大作「秋田の行事」であろう。縦3.7メートル、横20.5メートルにも及ぶ大壁画(制作は1937年)であり、それが秋田県立美術館に展示されていることはよく知られている。美術館のシンボルともいうべき作品である。この大壁画が出来上がったのは、藤田のパトロンでもあり藤田作品のコレクターでもあった平野政吉の依頼があったからである。当時平野は藤田美術館建設の構想を抱いており、その壁面を飾る作品の制作を藤田に要請したのである。

 では、その平野とはいったいどんな人物だったのだろう。彼は、秋田市の商人町で江戸時代から続く米問屋を営んでいた平野家の三代目であり、その平野家は県内有数の資産家でもあったという。平野は、若い頃から浮世絵や骨董、江戸期の絵画などに興味を持ち、生涯を通じて美術品を蒐集し続けた人物である。秋田には、江戸時代に秋田蘭画と呼ばれる一派が存在したが、その影響などもあったのかもしれない。お金については、文字通り糸目を付けない注ぎ込み方だったようである。「秋田の行事」の制作に際しては、その報酬として藤田に当時の金額で50万円(家100軒分にもあたるような金額である)を支払ったというし、美術品の収集のために月に米俵200俵分も注ぎ込んだと言われている。

 平野政吉が初めて藤田嗣治の作品に出会ったのは、1929年に藤田がフランスから一時帰国した際に開かれた個展においてである。その後、1934年に二科展の会場で初めて藤田本人に会い、藤田の人柄と作品に魅了されて藤田作品のコレクターとなり、更には藤田美術館の建設まで構想するようになる。しかしながら、戦時下であったために美術館の建設は挫折を余儀なくされたと言う。

 当初の構想から30年も経った1967年に至って、平野は長年収集した美術品を公開するために、ついに平野政吉美術館を設立することになる。さらに、同年には平野コレクションを展観できる秋田県立美術館が開館し、現在に至っている。こんなふうに見てくると、平野が蒐集した藤田嗣治の作品を始めとしたさまざまな美術品は、秋田の宝だと言っても言い過ぎではなかろう。これも余談になるが、私が好きな藤田の作品は、個人的な因縁もあって、周りに猫を配した乳白色の裸婦像である。よく知られた作品である。いささか妖艶な感じが漂っているが、それだからこそ清楚さをも備えた裸婦の美しさが眩しく見えるのかもしれない。

 では平野が美術品の蒐集に費消した膨大な資産は、いったいどこから生まれてきたのであろうか。米問屋が米を一手に扱うことによってである。雄物川流域やその支流域に広がる穀倉地帯で収穫された秋田各地の米が、雄物川の河口に位置する土崎湊に集められ、そこから北前船によって大阪にまで運ばれていたのである。前田貞仁の『北前船寄港地ガイド』(無明舎出版、2018年)によると、河村瑞賢によって西廻り航路が開拓されて以降、秋田藩が大阪に運んだ米は毎年10万石にも及んだと書かれている。藩はこのため、米倉庫である「御蔵」を建てたのであるが、その場所には、今も「土崎港御蔵町」という地名が残っている。米問屋であった平野の家も、こうした時代背景のもとで繁栄を続けたのだろうと思われる。

 西廻り航路による日本海海運の発展にともなって、領内と領外の結節点に位置した土崎からは、大量の米が運び出されただけではなく、そこには、諸国の産物を積んだ廻船も数多く入港した。こうした産物は、土崎だけではなく、雄物川流域の人々にも捌かれていった。19世紀の初頭には、入港する廻船が年間600艘を超えたというし、藩が廻船から得ることのできた税も年に15,000両もあったというから、秋田藩にとって、藩港であった土崎はまさに「金をうむ港」だったことになる。北前船と取引する廻船問屋や船乗りたちが泊まる船宿、倉庫などが建ち並び、更には長旅の船乗りたちが遊ぶ遊郭もできて、土崎湊はまさに藩領第一の湊として大繁盛したのである。

 因みに、ここまで土崎湊と書いてきたが、港と湊はどう区別されるのであろうか。筆者は、湊は港の古風な表現のように思っていただけだったが、調べてみると、「港」は船舶が停泊するのに適したところであり、「湊」は水辺の地で人が多く集まるところを言うとある。「みなと」の水側の部分が「港」であり、「みなと」の陸(おか)の部分が「湊」だというのである。「みなと」が繁栄したことを言いたいのであれば、「湊」を使用する方がより適切だということになろう。そんなわけで、土崎を土崎湊(さらには酒田を酒田湊、新潟を新潟湊)と表記することにしたのである。

 ところで、それだけの繁栄を遂げた地であれば、歴史的な遺産があちこちに数多く残されていてもおかしくはない。しかしながら、この土崎近辺は、アジア・太平洋戦争最末期の8月14日から15日にかけて、米軍による最後の空襲を受けて焼け野原となり(近くにあった製油所の破壊を目的とした大規模な空襲で、死者は250名を超えた)、それによって、土崎の繁栄を偲ぶことのできる多くの歴史的な遺産は焼失した。われわれが訪ねた「土崎みなと歴史伝承館」(ここには、土崎空襲で罹災した旧日本石油秋田製油所の柱と梁が移築され、焼け爛れた建物の内部が再現されている)の展示が予想していたよりもいささか貧弱に思えたのは、きっとその所為なのであろう。われわれは、港の側に建つセリオンタワーにも登ったが、そこからは歴史の面影が失われた港と市街地が一望されただけだった。

 まったくの余談ではあるが、食べ物の話に関しても一言触れておきたい。秋田では「かまくら」作りの居酒屋で結団式があり、きりたんぽなどを食べた。ただでさえ話が弾んでいるところに、突然「なまはげ」が闖入してきたこともあって、座は大いに盛り上がった。そのためなのか、きりたんぽ以外に何を食したのかがどうにも思い出せない(笑)。食べ物に淡泊な所為もあるのかもしれない。私などは、「なまはげ」と聞いて自分のことかと思ったりもしたが、「なまはげ」は「生剥げ」と書くのであって、「生禿げ」ではない。もじゃもじゃの毛を付けて「禿げ」はなかろう(笑)。

 雑誌『種蒔く人』のこと

 ところで、この土崎という地では、1921年に文化・文芸誌である『種蒔く人』が創刊されている。『種蒔く人』は高校の教科書にも登場しているぐらいだから、多くの人がその名を知っていることだろうが、秋田の土崎と関係があることについては、余り知られてはいないかもしれない。土崎で生まれ、若くしてフランスに留学した小牧近江が、彼の地で「クラルテ運動」と呼ばれた反戦運動に共鳴し、その種を日本に蒔こうと、同じ土崎生まれであった友人の金子洋文(かねこ・ようぶん)や今野賢三(いまの・けんぞう)らとともに、『種蒔く人』を発刊したのである。小牧が若干27歳の時である。創刊号から第3号までは土崎で印刷されており(これは土崎版と呼ばれている)、一時休刊した後、土崎出身者以外のメンバーも加わって1922年に東京で再刊されている。

 当時近江らは東京におり、土崎では雑誌の印刷が行われただけであったが、この雑誌で初めて、「第三インターナショナル」(1919年にレーニンらの指導の下にモスクワで創設された国際共産主義運動の指導組織)の存在が紹介され、世に知られることになった。彼らが、プロレタリア文学運動にとって先駆的な役割を果たし得たのも、出身地である土崎の経済的な繁栄や、そこで育まれたであろうと想像される幅の広い視野や進取の気性、現実社会への鋭敏な関心などと無関係ではなかろう。余談ではあるが、小牧はフランス留学中に藤田嗣治と交流があったとのことである。北条常久の『種蒔く人 小牧近江の青春』(筑摩書房、1995年)には、当時の藤田のいささか(いやかなりか-笑)破天荒な生活ぶりが紹介されており、なかなか興味深いものがあった。土崎がもたらした歴史の奇縁なのであろう。

 『プロレタリア文学全集』全40巻(新日本出版社、1988年)の別巻には、「プロレタリア文学資料集・年表」が整理されており、そこには、東京で再刊された『種蒔く人』の宣言文も掲載されている。格調高い文章なのでそのまま紹介しておこう。「嘗て人間は神を造った。今や人間は神を殺した。造られたものの運命は知るべきである。/現代に神はいない。しかも(しかしの誤りか?)神の変形はいたるところに充満する。殺すものは僕たちである。是認するのは敵である。二つの陣営が相対するこの状態の続く限り人間は人間の敵である。この間に妥協の道はない。然りか否かである。真理か否かである。/真理は絶対的である。故に僕たちは他人のいわない真理をいう。人間は人間に対して狼である。国土と人種とはその問うところではない。真理の光の下に、結合と分離とが生ずる。/見よ。僕たちは現代の真理のために戦う。僕たちは生活の主である。生活を否定するものは遂に現代の人間でない。僕たちは生活のために革命の真理を擁護する。種蒔く人はここに於いて起つ-世界の同志と共に!」

 秋田での調査を終えた我々は、本庄市やにかほ市を抜けて山形に入り、次の目的地である酒田に向かった。県境には鳥海山が聳えており、秋田でもあちこちからこの山が遠望できた。山頂は山形に位置しており、県の最高峰であるとのことだが、鳥海山は秋田の人々にとってもなじみの深い山であろう。この鳥海山を長年にわたって撮り続けてきたのが写真家の青野恭典であり、作品は『四季鳥海山』として纏められている。山も写真もやらないくせに(あるいはやらないからなのか)、山の写真集を眺めるのは好きなのである(笑)。初めて見る鳥海山だったが、秋田富士とも呼ばれているとのことで、何やら懐かしい感じがした。故郷福島の吾妻小富士を思い出したからなのかもしれない。