晩夏の日本海紀行(五)-おわりに-

 おわりに

 取り留めもなく長々と書き散らしてきた拙稿も、そろそろ終わりにしなければなるまい。纏まりのない文章に纏まりを付けるのは至難の業である(笑)。しばらく前にネットで検索していて知ったのだが、新潟県議会での質疑において、ある議員が「裏日本という言葉を初めて使用したのは佐野喜平太氏である」と発言していた。まったく初耳だったので、何を根拠にそう言っているのであろうかと気に掛かり、出典を探してみた。あれこれ漁っていたら、古厩忠夫(ふるまや・ただお)著『裏日本-近代日本を問いなおす-』(岩波新書、1997年)に、次のような記述があることがわかった。

 そこには、明治28年(1895)の新潟県議会において裏日本論議が交わされたことが紹介されており、「裏日本という言葉を用いたのは佐野議員であった」と書かれていた。佐野議員すなわち佐野喜平太は、こんなふうに語っている。「私は日本海に臨んで良好の港湾の無いのを常に遺憾に思っております。……裏日本に於いて良港の無いと云う事を遺憾に思って居る、裏日本が表日本よりも遅れて居ると云うことを遺憾ながら承認して居る一人であります」。ここからもわかるように、既に明治の中葉には、表日本や裏日本といった表現が使われていたのである。

 『「裏日本」はいかにつくられたか』(日本経済評論社、1997年)の著者である阿部恒久は次のように述べている。「『裏日本』という言葉が『明治30年代』に一般的に使われるようになった点については同意(千葉説に-筆者注)するが、日露戦争前までは経済的・社会的格差を意味しなかったという点については同意できない。私は『裏日本』の形成期は日露戦争後よりも早く、かつ経済的・社会的格差の観念がすでに内包されていたと考える」とのことであるが、佐野喜平太の県議会での発言は、その正しさを傍証しているようにも思われる。

 ところで、裏日本の実相に迫った写真家と言えば、濱谷浩(はまや・ひろし)の名を忘れるわけにはいかないだろう。東京に生まれた濱谷は、1930年代に都会や下町における市井の風俗を撮影し、新進気鋭の写真家として活躍し始める。しかしながら、仕事で訪れた新潟県の高田市で民俗学者の市川信次と出会ったり、また和辻哲郎の『風土』に感銘を受けたことなどによって、それまで都会的なものに向けられていた視線を、人間とその形成に基底的な作用を及ぼす風土に転じ、そうしたものを記録することの重要性を認識するようになる。

 彼は、1940年に新潟県の桑取谷における小正月の民俗行事を撮影するなかで、雪深い越後の庶民の生活と向き合い、人々の自然に対する畏怖と調和の精神を目の当たりにする。その後10年の長きにわたってこの山間の村に通い、写真集『雪国』(1956年)を発表する。さらには、より広範囲に日本列島の気候風土や歴史的な地域社会の成立過程とその現況を確かめるべく、日本海沿岸の厳しい自然のなかで暮らす人々を取材し、その成果は写真集『裏日本』(1957年)として結実する。

 『雪国』には、越後に出向いた弱冠25歳の濱谷が、「かつて経験したことのない緊張と刺激」を受け、先の桑取谷において「常民の生活の古典」をみて、「人間が土着し、生産し、生きるということを考えさせられた」と記されている。彼は、「人間の土地、人間の条件」を見きわめようとしたのであろう。また『裏日本』の冒頭には、「人間が人間を理解するために、日本人が日本人を理解するために」という彼の生涯のテーマとなる言葉が記されている。濱谷は、戦時中の1944年には新潟県の高田に移り住んで終戦を迎えている。なお、戦後には、安保闘争の現場を克明に取材し、その記録が『怒りと悲しみの記録』として出版されたことも付け加えておこう。

 『雪国』にも『裏日本』にも今では高額な値段が付けられており、そう簡単には入手できない。ただ、2015年に生誕100年を迎えたこともあって、『写真家・濱谷浩』(クレヴィス、2015年)が刊行されており、そこに彼の業績のエッセンスが紹介されている(先の文章は、ここから引用させてもらっている)。『裏日本』に収録された写真でこれぞ濱谷の一枚と言えば、富山の白萩で撮影された「田植女」なのではなかろうか。全身泥にまみれ膝まで泥田に浸かりながら働く女の姿である。見るものの居住まいを正させるほどの迫力である。

 この女性の顔はすべてカットされている。濱谷があえて顔をカットしたのは、この写真に象徴されるような過酷な労働が、個別の特殊な事例なのではなく、「裏日本」に普遍的に存在することを訴えたかったからなのではあるまいか。「裏日本」の原型とも言うべき労働のありようこそが、「表日本」の「表」(そして「裏日本」の「表」も)を支えていたのであり、今もきっとそうなのであろう。 

 最後になったが、今回の調査旅行では、最初から最後まで宮嵜所長、樋口事務局長を始め社会科学研究所の皆様にはたいへんお世話になった。一言記してお礼を述べておきたい。