晩夏の両毛紀行(四)-渋沢栄一の銅像を仰ぎ見て-

 前回触れたように、富岡製糸場の初代場長であった尾高惇忠は4年で更迭されることになる。辞めた翌年に、彼は渋沢栄一の推薦で国立第一銀行盛岡支店の支店長に就任するのであるが、もしかしたらそこでの惇忠は余生を過ごしていたようなものだったかもしれない。これは私の勝手な推測である。先に紹介した植松三十里の『繭と絆』によると、渋沢栄一と3代目の場長となる速水堅曹とは「犬猿の仲」だったようで、栄一の推薦で初代場長となった惇忠は、栄一と縁戚関係(惇忠の妹が栄一の妻である)にあったから、同類とみなされていたのであろう。

 内務省に入った堅曹は、製糸技術に関するスペシャリストとしての強い自負心もあって、富岡製糸場の経営診断に乗り出すことになる。その結果、秋繭の取り扱いや民間払い下げをめぐって惇忠と対立するのである。先の小説では、惇忠と堅曹と栄一の三者に勇も加わって、話は次のように描かれている。小説なので、当然ながら脚色されているわけではあるが、それにしても、富岡製糸場を舞台にした3人の男たちの確執がなかなかに興味深い。本文では改行が続くが、煩瑣になるので改行なしで紹介しておく。

 速水は縁側から立ち上がり、勇の間近まで来て言った。「私は何も尾高場長が憎くて、こんなことを言っているのではない。ただ秋繭のような粗悪品を、政府の許可も得ずに使うという不正が、許せないのだ」勇は食ってかかった。「不正などではありません。粗悪品でもありません。だいいち、どんな繭を使うかは、ムッシュ・ブリュナと場長に任せられていたはずです」「いや、繭は選別して、良好なものを使うという決まりがある。普通の繭に、秋繭の大きさのものが混じっていたら、誰でも撥ねるだろう。それを家族ぐるみで隠して使っていたのだから、どう考えても不正だッ」「違うんです。父は隠したりしていませんッ」

 「それにな」速水は少々もったいをつけてから言った。「そもそも秋繭を持ち込んだのは、尾高場長の従兄弟だそうだな。家族ぐるみどころか、親戚ぐるみで儲けようという魂胆だろう」「違います。成一郎叔父さんは、フランスまで留学した人で、新しい知識で秋繭を」速水は最後まで聞かずに言う。「その留学も、渋沢栄一の手配だったそうではないか。この製糸場も、もとはといえば渋沢栄一の発案だと聞いている。場長の人選からして、奴が身内を利したわけだ」速水は以前から栄一とは犬猿の仲だ。どちらも自信家だけに、いったん意見がぶつかると引き下がらない。

 勇は懸命に食い下がった。「それも違うんです。 栄一叔父さんは、誠実な人物を場長に据えたいと考えて、いちばん信頼できる人を選んだだけです」「それほど誠実な者が、秋繭を使って儲けたりするのか」「それは製糸場を黒字にするためです。だいいち成一郎叔父さんが秋繭を持ち込んだのだって、自分が儲けるためじゃなくて、養蚕農家のために」私利私欲は、惇忠のもっとも嫌うところだ。

 上記のような事情を背景にして、惇忠は場長の職を辞することになるわけだが、その後の処遇については、次のような話も書き込まれている。「今さら晴耕雨読で暮らすってわけにも、いかんだろう。次郎だって東京の学校に進みたいだろうし。それに娘が五人もいるんじゃ、嫁入り支度もかかるぞ」だから銀行に入れと勧める。勇は少し心配になって聞いた。「でも身内ばかり贔屓にして、ほかから、やっかまれませんか」以前、秋繭の件で、親戚ぐるみで儲けようとしたと、速水から勘ぐられたのが気になっていた。だが栄一は豪快に笑い飛ばした。「身内を使って、何が悪い? 銀行は何より信用が大事だし、身内ほど信頼できる者はいない。だから勇の亭主でも誰でも、信頼できる者には働いてもらう。それだけだ」ただ惇忠はかたくななところがあり、栄一の誘いには即答しなかった。

 われわれは、実態調査の3日目に「日本絹のさと」という施設を見学した。養蚕や製糸、絹織物をテーマにした県立の産業博物館である。この施設の外観は養蚕農家をイメージして作られており、養蚕農家の四季を描いたビデオなども興味深く眺めてきた。周りには桑畑もあった。この施設の売店に『文学の中のシルク』と題された冊子が置いてあったので、興味を持った私は購入しておいた。

 そこに、大衆文学の世界で著名な土師清二(はじ・せいじ)という作家が書いた『生糸』が取り上げられていた。1944年の作品である。冊子での紹介を読んでいたら、気になるところがあったので、せっかくだから現物を読んでみようと思ってネットで探して購入した。戦前の本だからかなり破損した文字通りの古本だった。それによると、惇忠の辞職の事情は大要次のように描かれている。

 惇忠らは、水口村の風穴を開き、農民に秋蚕の指導を始めるが、 有力養蚕家の中には秋蚕飼育に反対する者がおり、秋蚕の掃立(はきたてと読み、孵化した蚕を蚕座に移して飼育を開催する作業のこと)を行うものは、蚕種条例に違反」しているとして熊谷裁判所前橋支庁に告発する。条例違反の有罪判決が出た直後、監督官庁から、 「官に在るものが、 このような発明事業に身を入れるのはけしからんことであり、叱り置く」と戒告してきたという。「ばかばかしくて話にならん」と惇忠は富岡製糸場を去ったというのである。

 初日にわれわれが訪ねたところは、田島弥平の旧宅と尾高惇忠の生家の他にもう一つあった。渋沢栄一記念館である。日本の近代化を論ずるうえで欠かすことのできないこの人物について、私が改めて紹介すべきことなど何もない。「近代日本経済の父」であり、「民間経済の巨人」であり、はたまた「日本を創った男」とまで評されたりもしている。いささか青天を衝き過ぎて、脳天気な評価になっているような気もしないではないのだが…(笑)。これほど偉大な彼が、深谷の三偉人(栄一、惇忠そして韮塚直次郎)はもちろんのこと埼玉の三偉人(栄一、塙保己一、荻野吟子)に選ばれているのは、当然のことであろう。

 地元の偉人の業績を称えるだけの記念館に、私はそれほど興味が沸かなかったので、ガイドの方の説明を聞きながらぼんやりと見て回ったに過ぎない。彼の唱えた道徳経済合一の思想とは、今風に言えば信頼という土台なしに市場経済は成立しないということなのかとか、彼がもっとも信頼していたのは身内であったようだが、これも今風に言い直せばネポティズム(縁故主義)ということなのかとか、そんなことが頭に浮かんだ程度である。考えてみれば、明治政府などは薩長閥を核にしたネポティズムの塊のようなものだったのだから、身内を大事にした栄一の行動などは、当時はごくごく普通のことだったのであろう。

 それよりも、私が驚いたのは、記念館の裏側に建っていた彼の巨大な銅像である。高さは5メートルはあり、仰ぎ見るような大きさである。この銅像は「男爵渋沢青淵先生寿像」として1913(大正2)年に制作されたものがもとになっており、現在のような大きさとなって深谷駅前に建立されたのは、1988年のことだという。その後1995年の記念館の開設を機に、ここに移設されたということだった。

 私などは、あんなに高いところから栄一が天下国家を睥睨しているのかと思うと、いささか鼻白む思いがした。地元の人々が偉人を顕彰することにとやかく言う気はないが、その度が過ぎると贔屓の引き倒しとなりかねない。『論語』を学び、社会福祉事業や教育や医療の分野にも関心を払った彼の事績を眺めるならば、その視線はもっとずっと低いところにあったことぐらい分かりそうなものではないか。

 昔高松市内の中央公園で、立派な台座に立つ菊池寛の巨大な銅像を目にしたことがあったが、銅像などというものは大きくなればなるほど空疎で馬鹿げたものになる。菅義偉や森喜朗の銅像も建てられるとのことだが、何とも愚かな所業だと言う他はない。私のような人間は、新しい1万円札を手にするたびに、この巨大な銅像を思い出して苦笑することになるのだろう。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2022/11/25)

深まりゆく秋三景(1)(近くの緑道にて)

 

深まりゆく秋三景(2)(近くの緑道にて)

 

深まりゆく秋三景(3)(近くの緑道にて)