新緑の季節を歩く(四)-自由民権の地から-

 薬師池公園散策の話の続きである。本来であれば、読みやすさを考えて続けて投稿しなければならない文章であったが、この間さまざまな大事な用事が立て込んでしまい、それができなかった。やむをえず、既に書いておいた深谷の話を途中に入れさせてもらったというわけである。ブログを読む側からすれば、何だかあっちこっちに話が飛んでいるので、読みにくいなあと思われたことだろう。どうかご容赦願いたい。

 ぼたん園の東屋で一人のんびりと食事をとった後、辺りをふらりと散策してみた。そうしたら、大小二つの長方形の御影石が組み合わされて立つ記念碑に出会った。手を握り合っているようにも、そしてまた抱き合っているようにも見えた。よく見たら、大きい石の方には、「自由民権の碑 透谷美那子出会いの地」と刻まれていた。揮毫したのは、自由民権運動の研究者として著名な色川大吉である。

 小さい石には次のような碑文が刻まれていた。「自由民権運動に参加した文学者、北村透谷は、 一八八五年(明治一八)の夏、三多摩民権運動の最高指導者である石阪昌孝の長女、美那子とはじめてここ石阪邸で出会った。民権壮士とは異った思索型の青年に、美那子は強い印象を抱いた。二人は二年後に東京で再会し、 “全生命を賭けた恋愛” から結婚へと突き進んだ。 透谷文学に大きな影響 を与えたキリスト教への入信も、この出会いがあったからである。 自由民権と透谷文学に深くかかわるゆかりの地を顕彰するため、この碑を建立する。 昭和六十年十一月三日」。

 この碑が立てられた1985年には、 自由民権百年を顕彰する運動が各地で取り組まれていたようで、そうしたことも背景にあって、「自由民権の碑」が建立されたのであろう。最初私はこの二つの石を、自由民権運動を支えた結社をシンボライズしたものかと思ったが、そうではなくて透谷と美那子の二人をイメージしたものであった。碑文にもあるように、二人は1885年に野津田の石阪邸で出会ったことを切っ掛けとして、1888年に結婚する。出会ったのは透谷18歳の時であり、結婚は21歳の時(美那子は23歳)である。

 今から見ると、随分と若い二人の結婚である。しかしながら、美那子は父である石坂昌孝が24歳、母であるヤマが14歳の時の子どもである。江戸時代は今よりも初婚年齢が若かったが、富裕層はさらに若かったようだ。以下の文章も含めて、二人に関する話は、江刺昭子という方が書かれた「明治の町田の女、石阪美那子」(町田市教育委員会『増補 町田の歴史をたどる』、2004年、所収)に依っている。大変興味深い読み物である。

 しかしながら、恋が実ったはずのその結婚生活は長くは続かなかった。1894年に透谷が自宅で縊死したからである。先の江刺さんによると、透谷は「恋愛は人生の秘鑰(ひやく、秘密を解く鍵のこと)なり、恋愛ありて後人生あり」と恋愛を賛美しており、開明的な女性であった美那子は美那子で、「名誉もなく財産もなき壮快の男子こそ我が夫」と思っていたようであったが、二人の間は大した時間も経ぬうちにもつれ始めていく。

 江刺さんは、「透谷は、恋愛時代には『個』として自立した女に惹かれながら、いざ一緒に生活してみると、やはり明治の男らしく、自分に全身で仕えてくれる妻を欲した」ようだと書いている。江刺さんの指摘に刺激されて、透谷の「厭世詩家と女性」(1892年)という作品を今回初めて読んでみたが(勿論ながら、私が読んだのはこれだけである)、そこには、先に触れたような恋愛賛美の文章と同時に、結婚に対する幻滅についても触れられている。この作品の背景には、自分自身の熱烈な恋愛体験があったのだろうし、それと同時に、束縛の多い美那子との結婚生活の現実が、色濃く影を落としていたのであろう。

 芸術上の悩みに加えて美那子との間に不和が広がったことが、あまりにも繊細な神経の持主であった透谷には耐えられなかったのかもしれない。こんなことを知ってみると、「透谷美那子出会いの地」との副題をもった自由民権の碑が、かなりの陰翳を帯びて浮かび上がってくる。自由民権運動も近年ではその複雑な様相に光が当てられているようだが、そうした運動の渦中に出会った二人も、幸福だったとは言い難い人生を送ったことになる。透谷が描いた恋愛と結婚の相克は、明治の話に限定されたものではなかろう。かなりの普遍性を持っているが故に、今でも我々を悩ませ続けているものなのではあるまいか。それが人生であろう。

 そんなことを考え始めると、話はますます横道にそれそうなので、二人の話はこのぐらいにしておく。帰りの待ち合わせの時間が近付いたので、この民権の森を後にし、野津田神社を眺めて再び薬師池公園に戻った。今度は正門から入ることになったので、緑鮮やかな蓮の葉に蔽われた蓮池も見ることができたし、気に入った写真も撮ることができた。池の周りをゆっくりと歩いていたら、自由民権の像と題された巨大なモニュメントに出会った。

 この像は、町田市の市政40周年を記念して建てられたとのこと。民衆の自由への憧れを象徴するかのような、何とも力感溢れる作品である。見ていると、そこから発せられるエネルギーにこちらの方が圧倒されるほどだ。作者は、町田市在住(最近亡くなられた)の造形作家である三橋國民(みつはし・くにたみ)という方である。名誉市民でもあり名誉都民でもある三橋さんは、ニューギニア戦線から九死に一生を得て生還し、それ以来土くれと化した僚友たちへの鎮魂と平和への祈りをライフワークとして、創作活動を続けてこられた方である。この像に刻まれた市長名の碑文は次のようなものであった。

 自由や権利という言葉が、人びとに新鮮な感動を与え、人間の精神の内に秘めた活力を呼び起こす、という時代がありました。近代に入ってもまだ憲法もなければ国会もなく、自治も市民的自由もなかった。1870-1880年代がそういう時代でした。当時の町田市域は、神奈川県の行政区にあって、南多摩郡に属しており、自由や権利への実現への願いが、もっとも強く満ち満ちていました。この地域は、武蔵国の辺境でありながら、相模国と接し、武相自由民権運動の中心的な地域となる可能性と、エネルギーを内包していたのです。ちなみに三多摩が東京府に移管されたのは1893年のことでした。

 神奈川県内の自由民権運動を指導した石阪昌孝(野津田)をはじめとして、村野常右衛門(野津田)、青木正太郎(相原)、細野喜代四郎(小川)、若林高之亮(下小山田)など魅力あふれる民権家を生み全国でも有数の豪農民権運動を展開しました。後発の若林美之助(下小山田)や
石阪公歴(野津田)ら青年たちも、民権の理想に燃えて活動をくりひろげました。この活気に満ちた時代の創造力と、情熱にあふれた青年たちの奮闘と努力をあらためて現代に呼びさまし、そして未来に伝えるために、ここに自由民権の像を建立します。

 この碑文の最後には町田市長と彫られているが、市長自身の個人名はない。こうした場合、個人名まで入っていることが多いものだが、それがないのが何とも清々しい。立派である。やたらに自分の名前を刻みたがるのは、愚かな人間の所業なのではあるまいか。あれこれ書いているうちに、今回もまた長いブログになってしまった。まったく何も知らないまま薬師池を訪れた私だったが、自由民権運動の残影に触れて、俄然興味・関心が広がってきた。菖蒲や紫陽花どころの話ではない(笑)。池の周りに立てられた「しょうぶ・あじさいまつり」の幟が、何だか急に安っぽく見えてきた。何時も思うことだが、こうしたものはまったくなくていいのではなかろうか。

 バスに乗って帰路に就き、出発地点のバス停に戻った。そこで同行の方々と別れ、私は出発時に見付けた「絹乃道」と彫られた石柱を見に向かった。それは繁華街のど真ん中にあったが直ぐに見付かった。勿論ながら、今時こんなものは誰も見向きもしない。ぽつんと所在なげに建っているだけである。賑やかな場所なので、かえって淋しさもひとしおである。正面から見ると、石柱の右側には「此方 はちおゝじ」、左側には「此方 よこはま」と彫られていた。

 明治の初め頃は、八王子から町田(当時は原町田)一体は一面桑畑だったようで、生糸の生産が盛んだった。そしてまた、1883年に高崎線が敷設されるまでは、群馬、長野、山梨で生産された生糸が、八王子から町田を経由して横浜に運ばれたということである。生糸の主要な輸送ルートとなったこの道は、まさに絹の道すなわちシルクロードであり、その賑わいは大したものだったらしい。そしてまた、絹の道は近隣の農民を豊かにして民権の道ともなったのであろう。

 三橋國民さんの一句  群れホタル 斃れし兵士の 影を描けり