新緑の季節を歩く(二)-小机の寺社巡りへ-

 続いて5月の下旬には、横浜線の小机駅周辺の散策に出掛けた。年金者組合のウオーキングは、このところ好天のことが多い印象なのだが、この日は違った。昼近くには小雨がぱらつくとの天気予報であった。最近の天気予報は大分精度が上がっているようで、ほぼ予報通りとなる。スマホでは現在地の天気の移り変わりを1時間ごとに知ることができるので、そのあたりは便利である。しかしそれほど外には出ない人間なので、たまに活用するぐらいではあるのだが…。

 今回の案内人のYさんは、実施するかどうか迷ったとのことだったが、毎月のウオーキングを愉しみにしているファンも多いようで、この日は13人が集まった。もらったチラシには、「鎌倉殿ゆかりの名将 佐々木高綱(鳥山町)を訪ねて」と書かれていた。現在NHKの大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放映されているようだが、そのドラマに因んだウオーキングを企画したとのことだった。集まった同好の士がたまたま13人だったので、何となく笑えた。

 私はこのところテレビから離れているので、この大河ドラマも未見である。べつに肩肘張ってテレビ嫌いだなどと主張する気もないのだが、あまり面白いとも思えないので見ないだけである。昨年の2月に亡くなった畏友のKが、この13人にも含まれている中原親能(なかはら・ちかよし)のことを書きたいと言っていた。途中まで書いた彼の原稿を読ませてもらったが、完成することなく亡くなったので、あの原稿が彼の絶筆ということになるのだろう。

 今回初めて知ることになった佐々木高綱だが、13人には含まれてはいないがドラマには登場しているとのこと。みんな大河ドラマをよく見ている。チラシには、彼のことがおおよそ次のように紹介されていた。佐々木高綱は、安時代末期から鎌倉時代初期の武将である。 近江国の佐々木庄を地盤とした頭領佐々木秀義の4男。母親を通じて源頼朝、義経、義仲らとは従兄弟にあたる。 宇治川の戦いにお ける梶原景季 (かじわら・かげすえ) との先陣争いで知られる。 歌舞伎の「鎌倉三代記」にも登場し、なかなか人気のある武将だとのこと。

 1180(治承4)年に源頼朝が伊豆で平氏打倒の兵を挙げると、兄弟の定綱、 常高、盛綱とともにそれに加わって、 山木兼隆を打つ。 石橋山の戦いでは椙山に逃れた頼朝を守るため、奮戦して危急を救った。1184(元歴元)年の木曽義仲追討では源義経の陣に従い、先の宇治川での先陣争いでは、頼朝に与えら れた名馬「池月」 にまたがって闘ったという。 高綱の館は今の港北 区鳥山町にある鳥山八幡宮付近にあったとされ、「池月」は近くの馬頭観音堂に祀られている。そんな人物のようなのだが、今の私には取り立てて興味が沸くわけでもない(笑)。

 集合場所となった小机駅は、昔は畑の中にある田舎の駅のようだったらしいが、今は日産スタジアムが近くにできたので、サッカーファンには最寄りの駅として知られるようになったとのこと。駅舎は改装されて立派になっていた。この私はサッカーにも(そしてまた野球にも)無縁である。いったい何が楽しみで生きているのやら(笑)。駅は小机町にあるが、小机町の直ぐ隣が鳥山町である。

 駅の側には横浜上麻生道路が走っており、道路の両側には旧い商店街が軒を並べている。早く着いて待ち合わせの時間にはまだ間があったので、商店街を少し歩いてみた。古ぼけた店や今時あまり見ない店が並んでいるので、何だか昔にタイムスリップしたかのようである。シャッター通りにもならずにそうした店が今でも続いているところを見ると、地元の人々には馴染みの店だということなのだろう。年寄りの私が懐かしさを感じたのは、言うまでもない。

 われわれが最初に出向いたのは、鳥山町にある真言宗の寺である三会寺である。駅から10分ほどのところにある。三会寺と書いて「さんねじ」と読ませる。会者定離(えしゃじょうり)という言葉があるから、「え」と読ませるのであれば分かるが、「ね」とは読めない。ネットで調べてみたら、三会は「さんえ」と読ませており(「さんね」とも言うと書かれてはいたが)、仏が成道(じょうどうと読み、悟りを開くこと)後に衆生済度のために行う3回の説法のことを言うらしい。一説によると、この寺は源頼朝が佐々木高綱に命じて建立させたのだという。真偽の程は知らない(笑)。

 なかなか立派なお寺で、本堂の屋根の柔らかな曲線や山号の瑞雲山の扁額の文字も素晴らしい。寺内に余計なものがないのも気に入った。ここのお寺は禅寺ではないが、山門の入口には「不許葷酒入山門」(葷酒山門に入るを許さず)と書かれた石柱があった。「葷(くん)」とは何ですかと同行の人に尋ねられたので、「ニラかニンニクだったかな」などと答えたのだが、正しくはネギやニラなどの臭いの強い野菜のことを言うらしい。「葷」や「酒」は仏門に入って修行する際に、その妨げとなるからである。知ったかぶりはみっともない(笑)。

 次に向かったのは、三会寺のすぐ側にある鳥山八幡宮である。こちらも佐々木高綱によって創建されたと言われている。もちろん真偽の程は知らない(笑)。階段の途中に慰霊碑があり、そこには「日清日露戦役陣亡軍人碑」と刻まれていた。日清・日露戦争などと聞くと随分昔の話のように思ってしまうが、よく考えてみるとまだ120年程しか経ってはいない。「陣亡」という言葉が珍しかったので、帰宅してから調べてみたら、戦死と同じ意味だった。

 鳥山八幡宮で一休みしていたら、小雨が降り出したのでここでしばらく雨宿りすることになった。雨に濡れて、神社の境内にある新緑の木々が、その緑をさらに増していた。じつに目に鮮やかである。予定のコースをすべて廻るのはちょっと難しくなったので、急遽行き先を変えて駅の側にある雲松院に寄ることになった。このお寺は、小机の城代であった笠原信為が、1521(大永5)年に神奈川区にある神大寺に創建したものだそうだが、江戸時代に大火で焼失したため、現在地に移転したという。ここもすっきりとしたお寺で、手入れが行き届いたところだった。山号の臥躘山(がりゅうさん)の文字も立派であった。

 ここから駅に戻って散会となったが、私はもう少し歩けそうだったので、気になっていた場所を一人で訪ねてみることにした。三会寺の先にある乞食松地蔵尊である。旧い商店街を歩くと鳥山川に架かる又口橋にぶつかるが、橋の手前を左に折れると小振りの松が現れる。江戸時代後期の天保の大飢饉の際、この地域でも多くの人々が餓死したようで、亡くなった人々を弔うために、死者を埋めた場所に墓標として松の木を植えたのだと伝えられている。

 はじめは「死人松」と呼ばれていたようだが、その後ほどなくして一人の乞食僧がこの松のあった鳥山川沿いに住み着き、村内で功徳を説いたこともあって、この僧が亡くなった後村人は死人松のところに亡骸を埋め、地蔵尊を安置して手厚く葬ったらしい。乞食松の名称はそこからきたのだろう。こうした地蔵尊が今でも残されているところを見ると、きっと地域の人々によって大事にされているに違いない。小さな地蔵尊なのに、何とも心安らぐ場所だった。

 乞食松地蔵尊に向かう途中で、ラーメン屋に入り昼食をとった。期待もしないで入ったがなかなか美味だった。さらに地蔵尊からの帰りに今度は土産に大判焼きを買った。家人は昔小机駅の近くにある城郷中学校に勤務していたことがあるので、もしかしたら懐かしがるかもしれないなどと思ったからである。大きな赤い屋根の派手な店で、看板には「OsutoAandel」(押すと餡出る)などと妙な文字が書かれていた(笑)。こちらもまた期待しないで買って帰ったが、なかなか美味だった。そんなこともあったので、今度は小机城址市民の森にまで足を延ばしてみようと思ったりもした。