店主の日乗から

 「今年の桜を追って」というタイトルで二度投稿したが、そうしたら、何故かその後の話にも触れてみたくなった。何という話でもない、ただの身辺雑記である。日々コロナ騒動の話題に身を晒し続けていると、いい加減うんざりしてくるので、しばらく前から意識的にそうした話題から身を遠ざけている。夜7時のニュースを30分ほど見聞きすれば、それで十分である。無関心になれるほど人間は出来ていないので、勿論関心は払っているが、必要以上に関心を払ってみても仕方がない。「下手な考え休むに似たり」ということか(笑)。家で寛いで過ごすに越したことはない。

 では日々何をして過ごしているのか。そんなことを知りたい人など滅多にいないであろうから、書いてみてもしかたがないのだが、まあ一服の清涼剤だと思って読んでいただければ幸いである。永井荷風の日記に『断腸亭日乗』がある。よく知られており、岩波文庫にも上下2冊で収録されている。ネットで検索すると、荷風は1916年に慶應義塾大学の教授を辞め、かつて両親や弟らと暮らした東京市牛込区大久保に戻り、邸内の一隅を『断腸亭』と名付け自らを断腸亭主人と称したという。断腸亭としたのは腸に持病があったかららしい。「日乗」とは日記のことである。また彼は、秋海棠(しゅうかいどう)を庭に植えたようだが、その別名も「断腸花」だという。
 
 『断腸亭日乗』をもじって言えば、「徘徊亭日乗」とか「艶笑亭日乗」とか「酒食亭日乗」とか、まあいろいろな日記が考えられるが(笑)、私に書けそうなのはせいぜいが「閑遊亭日乗」ぐらいのものだろう。何だか落語家の名前にでもなりそうだが…。先日夜のニュースを見ていたら、今年のゴールデンウイークは「ステイホーム週間」だと言うべきところを、アナウンサーが間違えて「ホームステイ週間」と言ったものだから、もう一人のアナウンサーが慌てて訂正していた。別にこんなところに書かなくてもいいような可愛い間違いである(笑)。

 外出を自粛するのであるから、ステイ・アット・ホームが正しいのではあろうが、働かされ過ぎて夜遅くにしか帰宅できなかった人々が、在宅勤務で我が家にホームステイするというのも何だかリアルな気がして笑えた。ホームステイついでに思いだしたことがある。夜は寝しなにスマホで落語を聞いたりお笑いを聞いたりして、笑いながら寝る日々であるが(笑)、そんななか、ある落語家が紹介していた話も面白かった。どこかの年寄りが、アメリカにホームステイに行く孫のことを自慢したかったらしい。しかし、ホームステイとホームレスを間違えて、「アメリカにホームレスに行く」と連呼していたという話である(笑)。創作ではあろうが何とも可笑しい。

 ステイ・アット・ホームというのは、ホームがある人に対して言えることであろうから、ホームレスの人々には無意味である。そうした人々への対応を真剣に考えるということであれば、「ホームレス週間」と間違えるのもありだったかもしれない。まあそんな話はともかく、ホームでは午前中は今ここに投稿しているようなブログの原稿を綴ったりして過ごしており、午後は毎日のように映画を見ている。また小僧たちが我が家に顔を出した時には、余り人気の無い近くの公園に行って、キャッチボールをしたり、ラグビーボールを蹴ったりして遊んでいる。こちらが遊んでやっているのか、彼らに遊んでもらっているのかは判然としない(笑)。

 先日は、近くの「寺家(じけ)ふるさと村」に出掛けた。3月に「早春の野を行く」と題して投稿し、そこで戒翁寺というお寺に触れたところ、知り合いから自分の家はそのお寺の檀家だとのメールをもらった。さらにそこには、墓の掃除に出掛けたついでにカミサンと二人で近くの寺家ふるさと村に行き、弁当を広げていると書かれてあった。何とも微笑ましい光景のようにも思われた。そんなこともあって、私もついつい出掛けてみたくなったのかもしれない(笑)。一、二度出向いたことはあるのだが、このところすっかり足が遠退いていた。
 
 連休中にシリーズ「裸木」の第4号の校正に熱中していたので、パソコンから離れたいと思っていたこともあるのかもしれない。当日は五月晴れのいい天気で、少しあった風も私には薫風のように感じられた。風薫る五月とはよく言ったものである(そう言えば、春の季語に「山笑う」という言い方もあるが、これも面白い)。ここには、郷愁を感じさせる田舎の景観が残されている。変わらない景観を残すために、関係者がいろいろと努力されているのであろう。人間の場合も同じで、変わらないでいるためには相応の努力が求められることになる。変わることばかりが称揚されている昨今だが、変わらないことが大事な場合も、当然ながらある。

 寺家ふるさと村に残されている田舎の景観は、日本の原風景とでも言えばいいのであろうか。そういえば、昔父もこうした場所に家族を連れ出してくれた。懐かしい思い出である。私もまた父と同じようなことをしてきたし、そしてまた今もしている。野鳥がさえずり、蛙が鳴き、シオカラトンボが飛び、毛虫やトカゲも這い回っていた。パソコンやテレビやスマホからすっかり離れたので、もう一人の自分が別の世界を逍遙しているかのようであった。

 森の中を散策していたら杉木立の深い窪みに出くわした。上を見上げると、木漏れ日の中を枯れ葉のようなものが舞っており、何とも言えぬ美しい眺めだった。林を抜けてから畑の土手に出て、しばらくぶらぶらした。空を見上げれば抜けるような青空であり、森の緑も色鮮やかに映えて、季節は晩春から初夏へと移りゆく気配であった。もう立夏である。帰りに見た雲にも夏が近いことが感じられた。ステイ・アット・ホームを続けているためなのか、自然を見る眼が優しく、そしてまた鋭くなっているようである。




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