定年退職後二年目を迎えて(後編)

 何ともストレスにまみれた後半の半年であったが、それでも、過度の飲酒に溺れたり、寝付きが悪くなったり、食欲が落ちたりすることがなかったことだけが幸いであった。身体が頑丈だというのではなく、きっとストレスに対する感度が鈍いからなのであろう(笑)。俗に言う「鈍感力」である。

 私が難しそうな顔をしている時、カミサンが何度か大丈夫かと心配して声を掛けてくれた。やはり夫のことが気掛かりだったのであろう。そんな時私はいつも、「余計な心配などしなくていいから、旨い夕飯をつくってくれ」と頼んだ。しかしながら、心配している割には毎度いつもと代わり映えのしない夕飯だったのが、何とも不思議であった(笑)。

 理事長の任期の間には忘れ難い出会いもあった。まずは小山さん(そして、妹の大浦さん)。『ペット通信』にかなりユニークな記事を書かれていた方である。ペット被害を解消するために、忙しいなか「無償」(あえて強調させていただきたい-笑)で随分と大きな力添えをいただいた。記事にも、ペット問題を通して現代社会に対する批評精神が垣間見えたので、いつも興味深く読ませてもらった。「風俗のチラシ」にも読むべきものはあるということか(笑)。

 次が、マンション管理士のプレゼンテーションに顔を出してくれた親泊さん。二度お会いして、メールを何度かやりとりしただけなのに、何とも忘れ難い印象を残した。経歴を見ると偉い方のようなのだが、そんなことを微塵も感じさせないところが何とも立派だった。「プロ」だの「専門家」だの「ベテラン」だのと自称する(他称であれば、まったく構わないのだが)ことがなかったが、私は、自分を大きく見せようなどとは思わない、あるいは思わせない人が好きなのである。

 そして、先月の半ばまで管理事務所の窓口のスタッフとして仕事をしてもらった菅井さん。私にとってのマンション管理士は、菅井さんだったのかもしれない。さまざまな要望にたいして、実にてきぱきと対応してくれただけではなく、私の理解の誤りを指摘してくれたり、注意すべきことを教えてくれた。それどころか、最後には、私が理事長の任期を何とかまっとうできるように、励ましてもくれた。私の予想する展開が毎度毎度外れたので、かわいそうに思ってくれたのであろう(笑)。彼女がいなければ、私などとうの昔に潰されていたに違いない。

 最後になったが、理事の皆さんについても一言触れておきたい。理事の皆さんとは何とも奇妙なつながりが生じた。ペット問題という面倒な課題を抱えた、そしてまた、自由にものを言うことが憚られるような複雑な人間関係に覆われた理事会だったので、理事の皆さんはさぞかし困惑されたことであろう(勿論この私も多いに困惑した-笑)。声高な「正論」がもたらすのは、自由ではなく抑圧であり、そこに生まれるのは信頼ではなく面従腹背だからである。

 「神々は細部に宿る」というある芸術家の箴言がある。神々すなわちあるものやあることの本質は、「細部」にこそ現れると言っている訳である。人間の場合も同じであろう。すなわち、ある人間の本質は、その人物が発する「大言壮語」や「美辞麗句」、「巧言令色」などに現れるのではなく、具体的な日常の所作や立ち居振る舞い、物腰などにこそその姿を現わすものなのではなかろうか。

 そんな思いがあるためなのか、私は人間の「細部」を観察することが殊の外好きである。人間を理解するためには、そうした視線を欠かすことが出来ないと信じているからである。かく言う私も、当然のことながら、他人から「細部」を観察されていることであろう(笑)。自分のみが「細部」の観察者なのではない。今更言うまでも無いことである。

 理事の方々のなかには、「細部」にキラリと光るものを持った方が何人かいて、私自身そうした方々からあれこれと学ぶことも多かった。これからは、もう滅多なことでは会うこともないのであろうが、そうした方々と一緒に仕事が出来たことに素直に感謝している。副理事長の西さんには、単細胞の私の足りないところをさまざまな機会に補っていただき、感謝の言葉もない。苦しいときの西頼みということか。もしかしたら、私を理事長に推薦した責任を感じておられたのかもしれない(笑)。

 管理組合の理事になるのは20年に一度だから、次はもうない。私などはとうに死んでいる(笑)。また、管理組合がらみのことに関してこのブログに何か書くことも、恐らくないはずである。ものを書く時には、いつも型にはまらないように心掛けてきたたためか(遠慮やタブーなどなしに自由に書きたいのである)、ごくたまに住民の方から「面白かった」と言われたこともあった。嬉しかったことは言うまでもない。私のような年寄りは子供みたいなものなので、そう言われたくて書いてきた節もないわけではない(笑)。子供じみた振る舞いだと言われれば、まさにその通りである。

 この駄文を終えるにあたって最後に一言。もしかしたら、管理組合の理事会は勿論のことだが、この団地にもっとも不足しているのは、自由な言論と大らかな笑いなのではあるまいか。それなしには、住民どうしの伸び伸びした人間関係など生まれようはずもない。新しい理事会が、そんな柔らかな雰囲気に包まれることを心から願っている。

(追 記)

 ここまで長々と管理組合がらみの話を書いてきたのは、この投稿を最後に、そんな話から完全に足を洗おうと思っているからである。人生の些事に何時までも拘っているのは、愚の骨頂すなわち愚か者の所業の極みなのではあるまいか。そのうえで、「人生の難問中の難問」に素直に、大らかに、そして自然体で向き合ってみるつもりである。それが果たして、「吉」と出るのか「凶」と出るのかはわからないが(笑)、「吉」と出そうだから向き合おうとしている訳ではないので、分からなかったとしても一向に構わないと思っている。

 かの『方丈記』にも、「知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る」とある。勿論ながら私も知らない。知らなければどうすればいいのか。「おほかた、世を逃れ、身を捨てしより、うらみもなく、恐れもなし。命は天運にまかせて、惜しまず、いとはず。身は浮雲になずらへて、頼まず、まだしとせず。一期のたのしみは、うたゝねの枕のうへにきはまり、生涯の望みは、折々の美景にのこれり」ということのようなのだが、一期の愉しみである「うたたね」を味わうことぐらいはできるとしても(すでに時々味わっている)、私のような凡人が、こんな悟りの境地に果たしていったい何時なれることやら(笑)。