仲春の加賀・越前・若狭紀行(七)-北前船主の館右近家を訪ねて-

 「北前船の里資料館」を後にして、次に向かったのは南越前町の河野にある「河野北前船主通り」である。かつて、廻船業を生業とした船乗りたちが住んでいた河野には、北前船の船主を代表する右近家や中村家といった船主の屋敷を始め、船頭や水主の家並など、往時の繁栄を物語る独特の景観が残されている。

 現在は、海岸線が埋め立てられてそこに国道305号線が通っているが、かつての道はそこから一本裏の路地を通っていたのだという。その旧道の両側には邸宅や蔵が立ち並んでいたので、趣あふれる旧道を「河野北前船主通り」と名付けて、歴史を感じつつ散策を楽しめるエリアとして、地元興しのために町が整備したのである。

 歩いてみると、旧道は思いの外狭い。その狭さが時代を感じさせる。同じようなことは、佐渡の宿根木でも感じた。何故狭くなるのかと言えば、山の崖が海に迫っているので、崖下には狭小な平地しか残されていないからである。そこに、家屋が海岸に沿って帯状に連なっているのである。

 海からの風を遮るために、海側に土蔵を建て山側に主屋を配置する屋敷構えとなっている。こうした河野独特の景観が、往時を偲ばせていた。それに対して、北前船の船主の広い屋敷の方はどうだろうか。右近家の場合もそうだが、どこでも遠方の銘木や銘石が建築資材として用いられて、堅牢かつ豪勢なつくりとなっており、趣向を凝らした繊細な意匠なども目には留まる。

 しかしながら、それらの特徴は何処でもほぼ共通に見ることができるものなので、特段に強い興味をそそられることはなかった。ガイドの方の丁寧な説明振りには好感を抱いたものの、右近家の場合も同じである。もしかしたら、こちらがあちこち見て廻っているうちに、「耳年増」ならぬ「目年増」となり、妙に悪慣れしてしまったからなのかもしれない(笑)。

 今回が北前船の航跡を辿る調査旅行の最後だということだが、それでいいのであろう。各地の北前船の寄港地の様子を知りたければ、加藤貞仁(文)・鐙啓記(写真)の『北前船 寄港地と交易の物語』(無明舎出版、2002年)を広げればいい。沢山の写真入りで丁寧に紹介されている。この本の取材日記である鐙啓記の『北前船おっかけ旅日記』も、同じ出版社から同じ年に出版されている。

 その他には、加来宣幸の『北前船の寄港路』(西日本新聞社、2002年)もある。これらを読んでみてもいい。最近では、藤井満の『北陸の海辺 自転車紀行ー北前船の記憶を求めてー』(あっぷる出版、2016年)もある。この本は、過去ではなく今に生きる人々がたくさん登場し、食べ物の話などにもやけに詳しく、愉しい読み物である。年寄りのこちらには、各地を廻るほどの元気はもうない。読むのがせいぜいである(笑)。

 ところで、右近家のほんとうの贅は、本宅以上に、本宅の背後にある高台に立てられた、「西洋館」と呼ばれる別荘にこそあるのかもしれない。何故かと言えば、北前船がもたらした繁栄がすっかり消滅した昭和に入ってから、この別荘が建てられているからである。右近家が新たな分野に進出して成功したことを、象徴的に示しているようにも思われた。

 11代目がこの別荘を建築した目的は、「お助け普請」だったと言われている。地域の人々に仕事を与え、暮らしを支えるために行われる大きな土木工事のことを、「お助け普請」という。本来は公共事業のかたちで実施されるものだが、11代目は、昭和初期の経済不況に直面した地元村民の雇用を作り出すために、あえて造成が難しい高台の土地に大きな建物を建築したようだ。

 外観は洋風で屋根には茶色のスペイン瓦が葺かれ、2階部分の外壁は北欧の校倉造り風の桧丸太積みになっているのだという。ガイドの方に、この「西洋館」は一見の価値があると見学を勧められたが、勝手に高台まで上って遅れたりすると皆に迷惑をかけかねないと思って、やむなく断念した。

 大きなな港があるわけでもなかったここ河野に、何故に北前船の船主たちの集落が出来上がったのであろうか。そこが気になる。同じような疑問は、橋立でも抱いたのではあったが…。誰かが北前船の成功者となると、それに付随した仕事も生まれ、さらにはそうした活気に刺激されて、周りもまた一旗揚げようという気になるからなのであろうか。

 南越前町の河野は、越前海岸の南端にある敦賀湾のほぼ入口に位置し、古くから現在の越前市と敦賀を結ぶ海と陸の中継地として栄えていたという。17世紀の後半には、近江商人が敦賀湊で荷所船(にどこぶね)を共同で雇い、北海道の松前との交易によって産物を廻漕していたので、河野の船乗りたちは近江商人の荷所船の船主や船頭として働いていたらしい。

 江戸時代の半ば過ぎになると、商品流通の発展にともなって日本海の海運は飛躍的な発展期を迎えることになる。荷所船として運賃積を行っていた廻船も、買積み商いの比率を徐々に高めるようになっていくのである。肥料となる鰊の需要の拡大によって、北前船の買積み商いは活況を呈したようだ。この辺りの話は既に紹介済みである。

 商才と勇気に恵まれた船主たちは、このチャンスを生かして活躍したので、幕末から明治時代にかけて、河野には日本海沿岸でも有数の北前船主が輩出されることになったのだという。右近家もその一つであった。この右近家の邸宅を資料館として活用して出来上がったのが、「北前船主の館 右近家」である。