久しぶりの同窓会に顔を出して(下)

 当日の出席者は、前回と同じようにクラスごとにテーブルを囲んだ。何時も顔を出すメンバーだけではなく、Wさんが参加していたのでいたく驚いた。葛飾から駆けつけたとのことであった。彼女との思い出話を書いているとまたまた長くなりそうなので、ここでは割愛する(Wさんにその話をしたのだが、彼女はまったく覚えていなかった-笑)。会は、式次第に則って淡々と進んだ。全員での写真撮影、黙祷、開会の言葉、幹事挨拶、乾杯ときて、その後近況報告となった。

 遠来の客には一言話をしてもらいたいということで、私もその一人として指名された。福島に帰ってくる際に車窓から吾妻小富士が見えると、いつもいつも胸が締め付けられること、YさんやKが亡くなったのでその追悼を兼ねて参加したこと、昔Yさんにラブレターまがいのものを出したことなどをとりとめもなく語った。きっとYさんは天国で苦笑したことだろう。私も恥ずかしかったのだが、こんな話を披露することがもしかしたら追悼することになるかもしれないなどと勝手に思って、敢えて話してみた。

 なかなか立派な食事をしながらの雑談となり、アルコールが入って口が軽くなったこともあって、私は、クラス担任の小林金次郎先生は「何だか俗物だったよねえ」などと生意気なことを言った。そうしたら、級友の多くが私の意見に賛意を示した。というのは、われわれを前にして先生はよく自慢話をしたからである。今から思うと、世の中には自慢話の好きな人などごろごろしているので、何も先生だけが特別だったわけではなかろう。自分だってそうなりかねない(いやもう既になっているのかも-笑)。だが多感な中学生には、その自慢話はどことなく嫌みに聞こえたのである。

 テーブル席での雑談に移ってから、近況報告で言い忘れた(敢えて言わなかった)ことにも触れてみることにした。毎週毎週ブログに雑文を書き、それを元にして毎年冊子を作っているという話である。ここまでなら別にどうということはない。問題はその先である。この際だからと思って、「もしもよろしかったら贈りますよ」と言ってみた。人はこう言われた時に、「いらない」とはなかなか言いにくいものである。この私も勿論言えない(笑)。その結果、贈られてきた冊子を前にして、「何だかあまり読む気もしない面倒なものが贈られてきたなあ」などと感じて、ちょっとした心の負担となりかねないのである。

 ためらいがちに上記のようなことを語ったところ、Yさんが「私は本を読むのが好きなので、送ってくれますか」と言ってくれた。何とも心優しい人である。そんなこんなで、Yさんと2人のS君に冊子を贈ることになった。ものを書けば読んでもらいたいのは山々なのだが、自己顕示と取られたり、心の負担を押しつけることになるのはできれば避けたいのである。帰宅してから早速『いつもの場所で』と題した冊子を3人に郵送した。今となっては、余分な気遣いをかけてはいないことを願うばかりである。

 帰宅してからやったことはもう一つある。小林金次郎先生の経歴を調べてみたことである。何故我々のような中学生相手に先生は自慢話などをしていたのか、そこが今ひとつ合点がいかなかったからである。先生は福島では著名人であり、夥しい数の著作もあるし、県内の小・中学校の校歌や社歌、流行歌、民謡などの作詞を100曲以上も手掛けておられる。だが経歴はよく分からなかった。私の手元には先生の著作である『ふるさと探訪 信夫路』(歴史春秋社、1984年)があるが、そこの著者略歴欄には「1910年福島市置賜町に生まる 1933年福島師範学校卒業 学生時代から郷土文化の研究を続け、現在『ふくしま郷土文化研究会』主幹」とあるだけである。そこでネットで検索してみたら、県立図書館のアーカイブに次のようなことが記されていることがわかった。

 教育者、詩人、郷土史家。福島市置賜町、建築家小林鉄蔵の十人兄弟の八番目として生まれた金次郎は、すでに幼い頃から詩や作文が得意でいろいろな文集などに掲載されていたという。昭和4年、福島師範学校(現福島大学)に入学したころから、児童雑誌『赤い鳥』や『金の星』へ本格的に作品を投稿、なかでも北原白秋が創刊号から童謡の選者となっていた『赤い鳥』での入選を機に、白秋に師事。昭和8年、北原白秋の企画した『日本伝承童謡集成』の「福島県のわらべうた」の編集にたずさわる。

 福島師範学校卒業後は、福島市第二小学校、信夫郡大森小学校、福島大学附属中学校で教鞭を執るかたわら、詩や童謡の創作活動を続け、子ども向け絵雑誌『コドモノクニ』や童謡同人誌『チチノキ』などの同人としても活躍した。(中略)相馬郡臼石小学校、福島市大波小学校の校長を務めたのち退職、現役教員生活を退いた後は、県立保育専門学院講師などを務めるなかで、『福島県伝承童謡集成・ふくしまのわらべ歌』(西沢書店、1972年)、『安寿姫と厨子王』(教育センター、1976年)などを出版、郷土の昔話・わらべ歌・民謡などの編纂に尽力した

 ここからは私の勝手な推測となるが、先生はもしかしたら中央に出て詩人として身を立てたかったのかもしれない。しかしながらそれは叶わぬ夢となった。だが、若くして北原白秋に認められたとの自負心は残っていたはずである。私はこんな所にくすぶっている人間ではない、と思っていたとしてもおかしくはない。その思いが所々で自慢話となって現れたのではなかろうか。このアーカイブには、先生の言葉として、「所詮、福島っ子は福島に住み着いて、中央文壇に出るなどの野望を抱いても仕方がないことだが」と述べていたことも紹介されているが、そのことも私の推測を裏付けているように思われる。先の著作の著者略歴欄に教育者としての履歴がなかったのも、先生の抱いていた自負心と無関係ではなかったのかもしれない。

 同窓会で皆と歌った「集いの歌」は、素直なメロディーの曲なので直ぐに思い出した。この歌の作詞も先生が手掛けたものであったことを、今回の同窓会で初めて知った。迂闊と言えば迂闊である。その3番には「月の桂を折るまでは」との歌詞が登場する。こんな難しい歌詞があったことも今回初めて知った。辞書で調べてみると、官吏採用試験に合格するといった意味であった。先生は、青雲の志を持てとでも言いたかったのであろうか。当時少年や少女になりかけていた同窓生のわれわれも、ここまで生きてきて皆が皆夢の途中で人生を終えることになるのだろう。思い返せば叶わぬ夢もあったはずだが、それが人生というものなのではあるまいか。もう「月の桂を折る」必要もなくなったので、あとは日々の暮らしを慈しみながら、そしてまた、知り合いと酒を酌み交わしたり雑談に興じたりしながら、のんびりと人生の下り坂を降りるだけである。急ぐ必要もない。

 先に紹介した先生の著書『ふるさと探訪 信夫路』には、母なる川阿武隈川、父なる山吾妻山が信夫野に生きる人間の原点だと書かれていた。確かにその通りではないかと思う。近況報告にも書き、また挨拶でも紹介させてもらった「古き山河にちちははの匂い」(私の好きな田宮虎彦の色紙にある一文である)といった言葉に、ぴったりと重なり合っている。車窓から眺めた吾妻小富士にも、降り立った福島駅前や閉店した中合デパートにも、会場までの道すがら立ち寄った西沢書店や稲荷神社にも、そしてまたこの日に泊まった弟の家や翌日顔を出した姉の家にも、忘れようにも忘れられない「ちちははの匂い」が漂っていた。こんなことは、故郷を離れて暮らしてきた年寄りだけが感ずる、書かずもがなの感傷にすぎないのだろうが…。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/12/22

光る海を見つめて(1)

 

光る海を見つめて(2)

 

光る海を見つめて(3)