カメラを片手に(下)-アルバムを整理しながら-

 ブログに写真を載せるようになってから大分時間が経ったように思う。だが、これまでは写真はあくまでも文章の添え物に過ぎず、刺身のつまのような存在だった。しかしこのところ写真への興味や関心が深まってきたこともあって、生意気に書けば作品として紹介したくなってきた。当初はホームページにフォト・ギャラリー欄を設けることなども考えたのだが、しかしそれほどの腕前でもないのにいくら何でもやり過ぎではないかと思い直し、その試みはもう少し先に延ばすことにした。作ったはいいが、誰も見に来ないギャラリーでは何とも寂しかろうし恥ずかしかろう(笑)。

 そこで、ギャラリーの代わりと言ってはなんだが、毎回のブログの文章の後に、PHOTO ALBUM「裸木」と銘打って写真を3枚載せることにしたというわけである。私にとっては大事な写真なので、3枚ではなく3葉ということになるのではあるが…。写真のタイトルを考えるのも結構面白い。あれこれと気の利いた表現を考えるのが、自分の性分に合っているからであろう。そのうち気が向いたらキャプションも付けてみようかと思っている。写真に添えられた短い説明文である。

 前回の写真を例にとってみよう。「川の流れのように」であれば、「青葉区役所の裏手にあるユニークなモザイクの作品。水のない川が流れているように見える。」とか、「藪の中に屹つ」であれば、「青葉区役所脇の生い茂った雑草や雑木に埋もれそうな裸婦像。穏やかな表情だが、どこか凜とした佇まいである。」とか、「晩夏暮色」であれば、「近くにある川和富士からの眺望。去りゆく夏の夕暮れをしみじみ味わう。」といった具合である。

 写真にタイトルを付けるのも好きだが、キャプションを書くのはもっと好きである。私の作品などどれほどのものでもないのに、どういうわけかそんなことが気になるのである。隔月で発行されている『風景写真』という写真雑誌がある。特集が面白そうな時だけだが、たまに買うことがある。こうした雑誌が出版されているところを見ると、世の中には風景写真の愛好家がたくさんいるのだろう。

 私などから見ると、掲載されている写真はどれもこれも素晴らしい作品ばかりである。その中でもとりわけいい写真に巡り会うと、タイトルやキャプションもじっくり見る。そうすると、写真がさらに味わい深さを増してくる。概して言うと、タイトルがいいなあと思う写真は作品のレベルも高いような気がする。もしかしたら話は逆か。相変わらずの生意気な口ぶりである。

 ところで、何故風景写真に惹かれるようになったのであろうか。理由はいくつか考えられる。私も人並みの親バカなので、結婚し子供が生まれてからはよく写真を撮った。それらの写真は、子供ごとに分けてアルバムに収納しておいたので、子供たちが家を離れた際にそれぞれ持って行ってもらった。ただ、親である私や家人の昔の写真や、親が子供たちと一緒に映っている写真、あるいはその後、家人と旅行に出掛けた際に撮った写真などは、我が家に残された。

 整理するのが大好きな私のことだから、すべての写真をL版に統一して同じ色のアルバムに納めておいた。写真は増えるばかりなので、アルバムは10冊ほどにもなってしまった。置いてはあるがほとんど開かれなないアルバムを見ていて、いつ頃からかこれを精選しようという気持ちを抱くようになった。そして今年に入りそれを断行した。断行というと大袈裟に聞こえるかもしれないが、アルバムから抜いた写真を捨てる時は、そんな気分であった。かなりの枚数の写真を処分し、別の新しいアルバム6冊に入れ替えた。

 そして、それと同時に、比較的よく撮れたと思った写真を、近くのカメラ屋に出掛けて2L版に拡大してもらい、台紙に張り日付を入れてファイルに納めてみた。その際、人物写真と風景写真に分けて整理したのだが、それぞれ4冊合計8冊のファイルとなった。スマホで撮った写真も、いいものはすべて現像したので、我が家にある写真はこれがすべてである。

 なぜわざわざ現像してアルバムやファイルに整理するのかと言えば、パソコンやスマホにある写真は誰も見ないからである。有っても見ないものは、無いのと同じである。先のようにして整理し直したら、写真をよく見るようになり、写真がこれまで以上に身近なものとなってきた。年をとってきて過去を振り返っている所為もあるかもしれない。

 私はこれまで写真は人物写真だけでいいと思ってきた(それが勘違いであったことについては、後で触れる)。人物写真は、言ってみれば記録としての写真である。いつ何処で誰がどんな姿で写っているのかが問題なのであって、写真の主役はあくまでも被写体である。誰が撮ったのかが話題となることなど、滅多にない。そのため作品にはなりにくいのである。では風景写真の方はどうだろうか。こちらは、いつ何処で何を撮ったのかが問題なのであり、その意味では主役は撮影者である。だから作品になりやすいのであろう。

 これまで風景写真を撮ることにそれほどの関心を払ってこなかったのは、美しい風景は写真集やDVDや絵はがきで見ればいいと思ってきたからである。写真集は昔から好きだったのでたくさん買ったが、自分で意識的に風景写真を撮ろうと考えたことはまったくなかった。アルバムには風景写真は一枚もないので、そう思い込んでいたのである。

 だが、今回写真を整理してみたら、意外にもたくさんの風景写真が出てきた。風景写真は現像していなかったから、それほど撮ってもいないだろうと思い込んでいただけであった。あれこれのところで撮ったことを、すっかり忘れていたのである。過去に撮った風景写真を眺めているうちに、これからは作品となるような写真をもっと撮ってみたいと思うようになった。写真を整理したことによる思いもかけない展開である。

 そんな気持ちをさらに強く後押ししてくれたのが、7月に知り合いからもらい受けた横幅のある大きなカラープリンターである。これだとA3ノビまでの大きさの写真が印刷できる。私は長らくモノクロのレーザープリンターを使用してきたので、家で写真を現像したことはまったくない。いつも近くのカメラ屋に出掛けて現像してもらっていた。よく店に顔を出していたから、お得意さんの一人であった。

 だが、カラープリンターが家にあると、あれこれと修正を加えながらいつでも自由にプリントすることができる。わざわざ店に顔を出す必要はなくなった。お気に入りの写真をA4で、それどころかA3にまで拡大してプリントしてみたところ、2L版などとは別物に見えてきた。素晴らしいの一言である(のぼせ過ぎであろうかー笑)。こんな気持ちにさせてくれた知り合いには、心から感謝している。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2022/10/15)

柿熟るる頃(自宅付近にて)

 

デザインされた秋(仲町台にて)

 

晩夏の緑陰(川和町にて)