「裸木」第3号から

 『カンナの咲く夏に』と題した「裸木」の第3号が、ようやくのこと8月の末に完成した。「裸木」と題したシリーズ物の冊子を毎年作成するのが、「敬徳書院」の店主を自称している私の老後の道楽である。2017年の8月に『記憶のかけらを抱いて』と題して作成したものが創刊号であり、翌年の2018年の8月には、第2号となる『「働くこと」の周縁から』を作成した。こうして3号まで来ると、何だかシリーズ物になってきたような気がする。

 創刊号と第2号はそれぞれ150部ほど印刷したが、第3号はもう少し増やして200部印刷することにした。前の2冊よりも面白く読んでもらえるものに仕上がったのではないかと考えたのが主な理由であるが、それとは別に、150部印刷しようが200部印刷しようが、費用はそれほど変わらないとの印刷屋さんからの指摘もあったからである。定年後付き合いの範囲が少しばかり広くなったこともあったので、その指摘に従うことにした。

 今回のものは、「敬徳書院」の刊行物であることを示すために、表紙、裏表紙、背表紙に「敬徳書院」の文字やマークを入れておいた。「敬徳書院」は自分の本のみを作る一人出版社なので、原稿を揃えて印刷屋さんに渡し、校正作業を3度程やり、出来上がれば出来上がったで、冊子を贈呈するために郵便局でレターパックを購入し、贈呈のための短い手紙を作成して冊子に挟み込み、宛名を書いてポストに入れるところまで、全部自分でやらなければならない。
 
 店主である私は社長でもあるが、雑用係でもあるので、当然と言えば当然である(笑)。道楽もなかなか大変なのである。この間9月2日から6日まで専修大学社会科学研究所の一行に加えていただいて、佐渡、富山、金沢を廻ってきたが(この調査旅行に関しては、そのうち投稿するつもりである)、4泊5日の調査旅行となると、私のような年寄りはそれなりに疲れる。しかも、帰ってきてから二つほど会合があり、健康診断があり、運転免許証の更新があったりしたので、郵送作業をすべて終えるには、私の72歳の誕生日である9月12日まで掛かった。

 冊子を毎年8月に作成しているのは、9月にゼミのOBやOGたちとの集まりがあり、その場で彼らや彼女らに配布しようと思っているからである。そうすれば、私の方は送料も節約できるし、ゼミ生の方もその場で私に直接お礼を言えるので、わざわざ礼状を書く必要もない。一挙両得である(笑)。集まりへの参加者が多ければ、まとめて会場に郵送することになるが、今年はそれほどの数ではなかったので、私が自宅から持参した。

 冊子には、贈呈のための短い手紙を挟み込んでいるが、今年は次のような文面にした。「盛夏の季節もようやく過ぎて、徐々に秋の気配が感じられるようになってまいりました。移りゆく季節のなか、皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。老後の道楽で、同封のようなものを作りましたので、贈呈させていただきます。文字通りの「笑納」ですので(笑)、どうぞ遠慮無くお受け取り下さい。勿論ですが礼状など不要に存じます。当方も、時々ブログなどを綴りながら、あまり変わり映えのしない「憂き世」の日々を、自分なりの流儀でやり過ごしております。皆様におかれましては、、お身体ご自愛の上引き続きお元気にご活躍下さいますように。」

 自分自身の体験からも言えることだが、著作などを贈呈されるとやはり礼状の一つも書かなければならない気分になる。当たり前であろう(笑)。しかし、そのためには、贈呈された著作を広げ、少なくとも前書きや後書きを読み、目次には目を通さなければならない。贈られたものが、自分の読みたいものであれば何の問題もないが、そうしたものとは限らない場合もある。恐らくはそちらの方が多い。困るのはそんな場合である。私の贈るものなどはその典型であろう(笑)。だから、そうした気遣いはいらないと敢えて言いたいのである。

 冊子が出来上がってくると、真っ先に読むのは店主の私である。校正の時以上の熱心さで、適当に開いたところを読むので、校正漏れがあちこちに見付かる。単純なミスとも言えぬミスであれば我慢できるが、誤字や脱字に加えて文章表現にも気に入らないところが見付かったりすると、何とも残念な気持ちになる。今回の冊子は定年後2年目に作成したということもあって、私としてはかなり落ち着いて校正したつもりであったが、それでも何カ所か見付かった。

 もっとも残念だったのは、友人の名前を間違えたことである。高校時代の友人の一人は平田無着と言い、「ひらたなつき」と読ませる。その「無着」が「無著」となっていた。あまりにもよく知った間柄なので、間違えるはずがないと思い込んでいたし、似たような字でもあったので、校正から漏れてしまったのであろう。しかしながら、どうして「着」が「著」になっていたのかが分からなかった。「著」という字が、「ちょ」だけではなく「ちゃく」とも読むことを知らなかったから、釈然としなかったのである。

 しばらくしてその訳が分かった。「なつき」と打ち込んで変換させたのでは、「無着」も「無著」も出てこない。ところが、「むちゃく」と打ち込むと、まず「無著」が出てきて次に「無着」が出てくる。それで勘違いしたのである。ではこの「無著」の意味は何なのだろうということになるが、辞書によると「無著」は人名で、古代インドの大乗仏教の哲学者で、唯識論や菩薩信仰を確立して、中国や日本の仏教に大きな影響を与えた人物だとある。

 名前の間違いに関しては、今でも苦笑いを禁じ得ない「事件」があった。在職中はゼミで卒業論文や進級論文を学生たちに書かせ、それを毎年論文集として印刷していた。合宿でその論文集を読んでいて、引用文献欄の著者名が誤っている論文が何本もあったので、「人の名前だけは間違えないように」と苦言を呈したのである。そうしたら、あるゼミ生が、「先生の前書きにある私の名前が間違ってるんですが」と申し訳なさそうに言うではないか。その通りだったので、「面目ない」と謝って頭を下げておいた。笑うに笑えない話とはこのことだが、何とも笑える話ではなかろうか(笑)。それにしても、昔の思い出したくもない「事件」を思い出したものである。

(追 記)

 先に触れたような事情なので、第3号は十分に余部がある。「敬徳書院」のホームページの「書籍の頒布」欄から申し込んでいただいた方には、店主から贈呈させていただくつもりである。当然のことながら、いらない人に無理強いするつもりはない(笑)。お礼などは一切不用なので、その気になったら遠慮無く申し込んでいただきたい。