「敬徳書院」の扁額のこと(一)

 私は現在、「敬徳書院」という名のネット上の一人かつ自分出版社の店主を、勝手に名乗っている。名刺の肩書にも「敬徳書院」店主と記して、老後の道楽に耽っているのであるが、そんなふうになった経緯については、すでにホームページの「敬徳書院について」という欄で、あらかた紹介済みである。

 また「敬徳書院」と名付けられた母方の実家の蔵書(これは「佐野文庫」と命名されている)が、新潟大学の附属図書館に収蔵されていることについても、シリーズ「裸木」の第3号となる『カンナの咲く夏に』で簡単に触れている。一冊一冊が特注のケースに収納されて、図書館の宝として大事に保管されていることが分かっている。

 だから、もうそれ以上書き記すこともないのであるが、唯一残っていることがあるとすれば、「敬徳書院」と大書された大きな扁額を、私がどのようにして見付け、またどのようにして入手したのかということぐらいである。入手したのは2018年の初夏のことだから、その時からもうすぐ3年が経とうとしている。

 たまたま、友人Kの死を切っ掛けにこれまでの自分を振り返ることもあったし、ブログにまとめて投稿するようなゆとりもようやく生まれてきた。また、ブログの読者に少しは面白いと思って読んでもらえるものに仕上げられそうな気もしてきたので、この機会に先の経緯を柱にしてあれこれのことについて書き留めておくことにした。かなり長めの投稿になりそうなので、最初からお詫び方々お断りしておきたい。

 「思い立ったが吉日」という諺もある(笑)。少しは書こうとする気持が残っているうちに、何とかしたくなったということなのであろうか。この機会を逃せば、もはや書けなくなるような気もしなくはなかった。覚えているうちに、そしてまた気力のあるうちに纏めておかないと、年寄りの記憶や気力などはあっという間に薄れていくはずである。

 当初は、もっと早くに書くつもりでいたが、なかなかそうした気分になれないでいた。あれこれの用事で毎日落ち着き無く過ごしていたためでもあったが、それよりももっと大きな理由があった。そちらの方が結構気になっていたというのが本当のところだろう。老後の道楽でこんなことを始めたところ、姉や弟から「実家自慢や先祖自慢にならないように」などと、冗談半分(つまり本音半分でー笑)で釘を刺され、冷やかされたからである。

 さらには、知り合いからも「なかなか由緒ある家の出なんですね」とか、「実家の話に大分拘っているみたいですね」などと言われたこともある。放っておけば、やはりどうしてもそんなふうに見られがちなのであろう。年を取ってくると、家系を辿って自分のルーツを探すことに関心を示す人も出てくるようだが、私もまたそのような人間と同類のように見られていたのかもしれない。

 そうしたことも重なって、ブログに投稿する気持がすっかり薄らいでしまったのである。この際あえて断言しておきたいのだが、周りが推測したようなことには、今の私はまったくと言っていいほど興味も関心も無い(こうした物言い自体が何となく大仰な感じがしないでもないのだがー笑)。そんなことは、まあどうでもいいことであろう。

 自慢話などが大嫌いな人間であることぐらい、姉や弟ならとうに分かっていそうなものだと思っていたが、どうもそうではないらしい。日頃の私と接しているわけではないことも一因ではあろうが、もしかしたら、こちらの人間修行がまだまだ足りない所為もあるのかもしれない(笑)。

 すっかり没落した地主の話とはいえ、取り上げる話題が話題なので、こちらにその気がまるでなくとも自慢話に映りやすいのであろう。自慢話をしたいわけではないにもかかわらず、いつの間にやら自慢話になってしまうことなど、世間にはよくある話である。そうならないためには、自分の目の付けどころを定めておかなければならないのだが、それが意外にも難しい。

 纏まらないままに格好良く言ってしまえば、私が「過去」に興味や関心を持つのは、「時代」の波間に漂いながらいつのまにか没していく「人間」の「人生」や、「盛」やら「衰」やらが入り交じって紡がれていく「時間」の「質感」のようなものを、出来るだけリアルに知りたいのである。そんなものを何故知りたいのかと言えば、おそらくそうしたものに今の自分の姿を投影したいからであろう。

 母方の実家は、地元では少しばかり名が知られていたから、先のような私の興味や関心に触れるところがあった。あれこれと書くべき材料が残されているからである。それに対して、父方の実家は祖父の傳助(でんすけ)が東北電力の工員として働いていたことは聞いていたが、祖母のムツに関しては何も知らない。そんなこともあって、私は自分の家を高橋家として意識したことはまったくない。佐野家も同じようなものではあるが…(笑)。

 私が生まれた時には祖父は既に亡くなっており、そのこともあってか、私は父から祖父の話を聞くことがなかった。祖母については、かわいがってもらった記憶がぼんやりとあるだけである。祖父の話は、姉から少しばかり聞いたことがある。恐らく姉は、父ではなく母から聞いていたのではあるまいか。母方の実家と比べればかなり「見劣り」するので、父は両親のことについて語りたくなかった可能性もある。

 それはともかく、二人ともまったく無名の人であったようだから、過去を辿ることができない。学問などにも無縁であったはずである。しかしながら、長男の父も弟の春雄叔父も教職に就いているところを見ると、男は学業で身を立てることをよしとするような考えが、どこかにあったのかもしれない。二人には男2人女4人の6人の子供がいたが、父を始め全員が大分前に亡くなっているので、祖父と祖母は既に歴史の彼方に消え去ったようなものである。

 無名の両親の長男として生まれた父は、学業成績がよかったとみえて、東京商科大学(現在の一橋大学の前身)に進学した。実家は貧しくて進学させることなどできなかったが、親戚筋に学費を援助してくれるような奇特な方がいたので、何とか大学を卒業できたとのことであった。その人がどんな人物であったのか知りたくもなるが、今となってはもはやまったくわからない。

 苦労して学んだ父は、それ故か、親の脛をかじって大学にまで行かせてもらっているのに、学業を疎かにしている人間をどうしても許せなかったようだ。遊興は勿論のことだが、学生運動にうつつを抜かしていた私なども、同じような存在に映っていたのかもしれない。そのような出自の父が学ぶものは、どうしても処世に役立つ「実学」となる。私にはそのことが何とも物足りなかったのではあるが…。若い頃文芸に興味を持っていた母は、果たしてどう思っていたのであろうか。

 祖父の傳助は敗戦前の1944年に64歳で、祖母のムツは1959年に78歳で亡くなっている。私のアルバムには、父の結婚式の時の写真があり、そこには祖父と祖母が写っている。それを見ると祖父は如何にも頑固そうな面立ちであり、その面影は父や私にも何となく残っているようにも感じられる。血筋などを大して信用していない私だが、やはり何処か似てくるものなのであろうか。

 父も頑固だったが、私もまた大分頑固な人間である(笑)。それどころか、意固地だったり、偏屈であったり、狭量であったり、皮肉屋であったりもする。総じて言えば狷介なのである。長年側にいる人間がそう言うのだから、まあ間違いなかろう。ここまでそんなふうにして生きてきたのであれば、最期までそのままであるに違いない。話が脇道にそれたのでこの辺りでやめておくが、父方の祖父と祖母の話については、そのうち姉からもう少し詳しく聞いてみるつもりである。

 これに対して、母方の実家については、あれこれと紹介すべき材料が残されているので、過去を辿りやすい。曾祖父の佐野喜平太は家の正面玄関に「敬徳書院」の扁額を掲げていたが、何故そんなことをしていたのかというと、当時その家には夥しい書籍が存在しており、文字通り書院そのものだったからである。