「ものを書く」ということ(二)

 前回の投稿では、「貧すれば鈍する」などという諺にかこつけて、かなり真面目な文章を綴ってみた。他人の書いたものを使用させてもらっているので、いささか恥ずかしくも感じたのであるが、無いに等しい文才なのでやむを得ない。それはともかく、私としては「貧すれば鈍する」とならないように心掛けているつもりだし、できうれば「貧にして楽しむ」ような境地に達したいと願ってはいるのだが、これはそう簡単なことではない。

 年寄りの道楽で、こうして毎週のようにブログに文章を綴っていると、ごくたまに「ブロガーですね」などと冷やかされることがある。勿論のことだが、当の本人にはそんな気はまったくない。ブログを書いて収入でも得ているのであれば、ブロガーと呼んでいただいてもかまわないだろうが、まったくの無収入ではその名に値するわけがない(笑)。

 私の場合は、道楽、趣味、遊び、愉しみ、暇つぶし、惚け防止で雑文を綴っているに過ぎない。そんなことはよく分かっているつもりである。例えて言えば、自分が閑なときにちょっと俳句を詠めば俳人、ちょっと短歌を吟ずれば歌人、ちょっと小説を書けば作家、ちょっと詩を書けば詩人、ちょっと絵を描けば画家、などとは決して言わないのと同じである。本業までいかなくてもいいが、せめて副業ぐらいにはならないと、「人」とか「家」とは言いにくかろう。

 定年後肩書きなしの名刺を作ったが、しばらくして、そんな名刺は有名人にしか通用しないことがわかった。わかるのが遅すぎると冷やかされもしたのだが…(笑)。そこで現在は「敬徳書院」店主などと書いて周りを煙に巻いているが、こうした肩書にしたために、たまに本物の本屋の主人ででもあるかのように誤解されることがある。「私の本を出してもらえないか」と真面目に依頼されたことさえあった(笑)。自分出版社であり一人出版社なので、本屋の実態など何も無い。

 ことほど左様に、「ものを書く」人が自分をどう名乗るのかは意外に難しい。私としては「雑文家」もいいかなあなどと考えたこともあったが、「家」などと称するのがちょっといやらしいと思ってやめた。今風に言えば、「くさい」あるいは「痛い」ような気がしたのである。如何にも演じているようなわざとらしさや、気取った様子が漂っているからであろう。しかしながら、もしかしたら「敬徳書院」店主も似たようなものなのかもしれない(笑)。

 そんなことをぼんやりと考えているときに、面白い文章を見付けた。不思議と言えば不思議だが、見付かるときには意外に簡単に見付かるのである(笑)。『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』(タバブックス、2018年)といういささか気になるタイトルの著作を出された小川たまかさんが、『しんぶん赤旗』日曜版の2020年9月13日号に、「名乗れば即『ライター』」と題して書かれた記事である。前回同様今回もまた他人の文章を引用してブログに投稿することになるわけだが、これもまた「貧すれば鈍する」の類に違いなかろう(笑)。その記事は次のようなものである。

 取材をして文章を書く仕事をしているので「ライター」を名乗っていますが、同業者の中ではときどき肩書が話題になります。資格があるわけではない物書きの肩書については基本、自己申告。「フリーライターの名刺を作れば、誰でもその日からなれる」なんて自虐的にいわれることもあります。

 実は私も大学院を出てすぐに、フリーライターの名刺を作りました。就職活動にほぼほぼ失敗し、多少あった執筆経験だけを頼りにわらをも掴む気持ちで作ったのがその名刺でした。そんな名刺作ったところで仕事なんか来るわけないと思いきや、なんでもやりますの精神だと、使い勝手の良い若いライターにはそれなりに仕事はありました。取材や書くことより現場の雑用仕事の方が多かったりしましたが、それでも働けることはうれしかったです。(でも、フリーの若手をいいように使い捨てる人もいるので気をつけて!)

 とはいえ、こんなふうに誰でも名乗れてしまうライターという肩書。一定のキャリアを積んだあとは、「文筆家」「作家」「ルポライター」などに肩書を変える人もいます。一部ではライターのデフレ状態があったりするので、差別化を図りたいというその気持ちもわかる!

 でも私は案外、この肩書の素っ気なさを気に入っています。何者でもない私に仕事を与えてくれたことに恩を感じつつ、何者でもなかったのに名乗ってごめんなさいというお詫びの気持ちも込めつつ、今日も能天気なライターライフを送っています。

 以上が記事(こういうものをコラムというのか)の全文なのだが、こんなふうに書く人に私は何故かとても好感を抱くのである。もともと、自分を大きく見せようとするような自己顕示の人が好きではないし、さりげなくさらりとしている人が気に入っているからなのだろう。記事には文筆家、作家、ルポライターがあがっているが、探せばまだまだある。小説家、随筆家、文筆業、著述業、評論家、コラムニスト、エッセイスト、エディター等々。各人が勝手に自分の気に入った肩書を使えば、それでいいのだろう。

 小川さんが言うように、名乗る側がどう名乗ろうともまったく勝手ではあるのが、逆に言えば、受け取る側がどう受け取ろうともこれまた勝手ということになるだろう。昨今は映画に出演すれば「女優」、雑誌に出れば「モデル」と呼ばれるようだが、それらの肩書で自立して暮らしていけるようであればそう呼んでも構わないが、そうでなければ言い過ぎというものであろう。稼ぐことのないもの書きはただのもの書きに過ぎないのであって、道楽は肩書にはなり得ない。

 臍曲がりでいささか狷介な私は、ものを書く人を肩書で評価しようなどとはまったく思っていない。むしろ、麗々しい肩書に「貧」や「鈍」を感じ取るような人間だからである。だからこそ、小川さんのように、今時珍しくじつにシンプルに素っ気なく「ライター」と称している人の文章を、読んでみたくなる。

 もしかしたら、意外に読み応えのある文章なのではないかなどと勝手に夢想するからだろう(笑)。冒頭で触れた諺にかけて言えば、「貧にして楽しむ」ことを身に付けている人の気配を感じるのである。「ライター」という呼び方、いいですねえ爽やかでシンプルで素っ気なくて(笑)。店主の私も、心構えだけはそうありたいと願っている。