早春の南信州紀行(四)-大鹿村からの眺め-

 夕暮れ近くに馬籠宿を離れたわれわれは、ふたたび飯田のホテルに向かった。連泊すると旅の気分も落ち着いて感じられる。馬籠宿は飯田の西に位置していたが、翌日出掛けたのは飯田の東にある大鹿村である。最初の訪問先は大鹿村中央構造線博物館であった。わざわざ大鹿村と名付けられていることから分かるように、村営の博物館である。資料館や歴史館であれば村営でも数は多いと思われるが、博物館というのは珍しいのではないか。では何故鄙びた田舎の村にこうした博物館があるのか。名前の由来である中央構造線とはいったい何なのか。こうした分野にまるで疎い私には、この博物館に足を運ぶまでまったく何も知らなかった。

 中央構造線とは、関東から九州に伸びる長大な断層のことを言う。この中央構造線を初めて発見したのは、ナウマン象の名前の由来となったドイツ人の地質学者エドムント・ナウマンである。ナウマンは、明治時代に日本の地質調査をするなかで、西南日本を縦断する大断層を発見し、「大中央裂線」と名付けている。さらに、この大断層を境に日本海側を内帯(ないたい)、太平洋側を外帯(がいたい)と呼んで区別したとのこと。

 断層とは、地下の岩盤や地層に力が加わって割れ、その面に沿って両側がずれ動いた状態のことを言うが、そうした断層のうち、両側の異なる地質の境界線が長く伸びた断層を「構造線」と言うらしい。中央構造線は、おおよそ1億年ほど前日本列島がアジア大陸の一部だった時代に、海溝と平行に大陸の中にできた長大な断層だと言う。そしてこの中央構造線が村の間近を縦断しており、地質学的に貴重な露見が存在するために、博物館が出来上がったのだという。日本列島の成り立ちに関わるような余りにも昔の話なので、私にはなかなかピンとこない。

 この博物館のホームページを眺めていたら、「中央構造線と糸魚川-静岡構造線とフォッサマグナは同じものですか」という、よくある質問が取り上げられていた。しかしこれらはまったく別物だとのこと。中央構造線は、海溝と平行に関東から九州へと続き、西南日本の地質構造を大きく二分している。これに対して、ラテン語で「大きな溝」を意味するフォッサマグナ(この命名者も先のナウマンである)は、断層ではなく本州中央部の幅のある地帯を指す。日本がアジア大陸から離れ、現在の位置に移動してきた時期以降の地層で覆われていると言う。糸魚川-静岡構造線はフォッサマグナ地帯の西端縁の断層である。ここを境に、東北日本と南西日本に分けられることになる。上記のようなことを知ってみると、日本海側と太平洋側、西日本と東日本といった区分が地質学上の違いにまで遡ることが、ぼんやりと理解できた。

 この博物館の隣には、通称「ろくべん館」と呼ばれる大鹿村歴史民俗資料館があった。ここには、かつて山村の暮らしに欠かせなかった生活用具や民俗資料が収集・保存・展示されていた。年老いた私にはこちらの方が興味深く感ぜられたので、誰もいない館内をゆっくりと見て回った。大鹿村歌舞伎の舞台がそのまま再現されてあったし、実際の様子もわかるような写真や版画も展示されていた。

 ところで、「ろくべん館」のろくべんとはいったいどんな意味なのだろう。何だか気になる言葉である。パンフレットの写真を見ると、縦に段重ねとなった木製の手提げ弁当のようである。六段重ねの弁当のことかと思ったが、そうではないようだ。大鹿村周辺に伝わる、一人用の弁当やその弁当箱のことだと言う。かつて「一人用の弁当」を意味する「どくべん」と呼ばれていたものが、この地方でなまって定着したとのこと。

 おおよそ20品目ものおかず(塩イカやちくわ、煮豆、高野豆腐など)とご飯を、木製の仕切り付きの器に詰めて持ち運ぶのがろくべんである。重要なことは、大鹿歌舞伎の観劇などのお祭りや祝い事などの「ハレの日」に、持参されることであろう。芝居を見ながら酒とともにろくべんを愉しみ、隣同士で交換し合って親睦を深めるのだという。こんなことを書いているうちに、私もこの郷土食を一度食べてみたくなった。

 先ほど大鹿村中央構造線博物館のことについて触れたが、大鹿村と聞いてこの博物館を思い浮かべる人はまあいなかろう。いたとしても希有な存在である。だが、大鹿歌舞伎だったらどうだろうか。こちらは国の重要無形民俗文化財に指定されてもおり、『大鹿村騒動記』(監督・阪本順治、2011年)というタイトルで映画化されたりもしたので、覚えている方も多いのではなかろうか。この映画は、俳優原田芳雄の遺作となった。民俗芸能の宝庫と呼ばれる伊那谷には、多くの芸能が伝わっているが、大鹿村の歌舞伎はその代表的な存在である。隔絶されたかに見える山間地であるが、古道を通じて様々な芸能がこの村にも入ってきたのであろう。娯楽の少なかった当時のことだから、村人から大いに歓迎されたに違いない。そしてそのうち、自分たちでもやってみたくなったのかもしれない。

 その大鹿歌舞伎だが、300年ほど前から各集落の神社の舞台で演じられるようになり、今日まで絶えることなく続けられている。江戸から大正期には歌舞伎の上演は禁ぜられたようだが(女歌舞伎や若衆歌舞伎による風紀に乱れや奢侈が、その理由のようである)、大鹿村では奉納歌舞伎の名目で禁令をかいくぐりながら維持されてきたという。村の人々の心のよりどころであったからに違いなかろう。現在では、春と秋の年2回定期公演を行っているだけではなく、各地からの招聘に応えて年に何回かの出前公演を行ってきているのだという。

 大鹿村には、歌舞伎の保存会に加えて舞台上演に直接携わる信州農村歌舞伎愛好会がある。愛好会には役者をはじめ、 太夫・下座・着付け・大道具等の裏方がいて歌舞伎の上演を担っているとのこと。ここの歌舞伎の特徴は、上演に関する技術(役者・太夫・舞台・着付他)と、大道具や衣装・ かつら・小道具といった諸々の道具類を自前で持っているところにある。幕末から明治にかけて13ヶ所に芝居専用の舞台があったようだが、春と秋の定期公演で使用されているのは2つになった。いずれも間口六間・奥行き四間の 舞台で、回り舞台があり、上手に太夫座が設置されているのだという。そんなことが手にしたパンフレットには書かれていた。

 歌舞伎についても何も知らなかったし、それどころか、今でも世襲制度を維持し、女性を排除し、やたらに高い料金を取る都会の歌舞伎などは、着物で着飾った富裕層の女性たちの社交の場にすぎなかろうと言った偏見まで抱いていた。だから、これまでに一度も見たことがない。評判を呼んだた映画『国宝』(監督・李相日、2025年)も未見である。だが、大鹿村に残るような田舎の歌舞伎を知るなかで、その偏見も少しばかり和らいだ。村の人々が自作自演で歌舞伎を上演することは、やはり並大抵のことではないのだろう。先に紹介した映画でも、その辺りの苦労は感じられた。

 大自然のなかの開放された空間で、まさに古来の観劇スタイルそのままに、境内にゴザを敷きご馳走を食べ、酒を酌み交わしながら芝居を楽しむ。これぞまさしく芸能の原点ではないか。うららかな春の日、紅葉が色づく秋の日に、ろくべんを広げる、そしておひねりが飛び交う世界は、まさに村人の「心と心が、 触れ合う場」なのであろう。そんな世界を演出する大鹿歌舞伎の舞台には、豊かな地芝居のいのちが脈々と息づいているに違いない。地芝居とは、プロの劇団ではなく、地元の住民である素人が演ずる地域に根付いた伝統芸能のことを言う。 

 二つの施設の見学に飽きて、側を流れる鹿塩川(しかしおがわ)の河原を眺めるために一人で外に出た。川に架かった橋の先には、雪に覆われた赤石岳が見えた。あいにくの曇り空だったがなかなか雄大な眺めである。大鹿村の人々はこの景観を誇りに思っているようだが、さもありなんと思われた。大鹿村は、「日本で最も美しい村」連合にも加盟しているのだと言う。調べていたら、故郷福島の飯館村や昭和村も加盟していることが分かった。ともに懐かしい思い出の場所である。