早春の南信州紀行(六)-虚構の「満州国」と移民の波-
今回からいよいよ本題の満蒙開拓をめぐる話である。 調査旅行の二日目の午後に訪ねた「満蒙開拓平和祈念館」の概要については、既にブログで紹介済みなので、ここで改めて触れることはしない。正直に告白すれば、私はこれまで満蒙開拓団の遭遇した悲劇の実相について、何一つ知ることなく生きてきた。もっとも、知らなかったのはそれだけではない。ガダルカナルを初め、アッツ、ベリリュー、サイパン、インパール、レイテ、硫黄島についても似たようなものだった。さらに言えば、沖縄についも広島についても長崎についても、凄惨で無残な死のイメージばかりが先行していたためなのか、陰鬱な気分に陥るばかりで、戦争をめぐる問題を深く掘り下げて考えてみたことなどほとんどなかったような気がする。
戦後民主主義の下で育ってきたし、大学入学後は学生運動の影響を強く受けたこともあって、若い頃から反戦の意識は強かったのだが、今から振り返ってみれば、「戦」に対する認識が余りにも浅かったように思われるのである。そのためか、「反」もまた表層を撫でただけの観念的なものに終わっていたのかもしれない。昭和天皇は「大日本帝国」の総帥として最大の戦争責任を負っていたはずであるが、その彼が退位もせずに戦後を生き延びたことに対して、不信と嫌悪と侮蔑の念ばかりが募っていたからである。あまりにも無責任で無様なありようではなかったか。
今回「満蒙開拓平和祈念館」を訪ねたことをきっかけに、改めて戦争の実相に迫りたくなったのは、これまでの自らの不明を恥じる気持ちもあったのかもしれない。漫画家の水木しげるは『総員玉砕せよ』(講談社文庫、1995年)の最後で、敵の銃撃を受けて斃れ今まさに死なんとする一兵士に、「誰にみられることもなく」「誰に語ることもできず」「ただわすれ去られるだけ」と呟かせ、肉塊が腐り果てて白骨化し、最後は骨片と化していく様をリアルに描き出しているが、死者がただただ忘れ去られるだけでいいはずがない。
満蒙開拓に関する著作や資料は、探せばもう既に山のようにある。これほどまでに数多く存在していたとはついぞ知らなかった。ここ数年の間に限定しただけでも6冊ほどの書籍が出版されている。満蒙開拓の全体像を知るうえで役に立ったのは、手塚孝典『幻の村-哀史・満蒙開拓-』(早稲田大学出版部、2021年)や加藤聖文『満蒙開拓団 国策の虜囚』(岩波書店、2023年)である。近年はジェンダー視点からの研究も活発化しており、平井美帆『ソ連兵へ差し出された娘たち』(集英社、2022年)や平井和子『占領下の女性たち 日本と満州の性暴力・性売買・「親密な交際」』や松原文枝『刻印 満蒙開拓団、黒川村の女性たち』(角川書店、2025年)などが目に留まった。ごく最近では、「長野県海外移民の全体の推移のなかに満州移民を位置づけ」た研究として、森武麿の大著『満洲移民とブラジル移民』(不二出版、2025年)も刊行された。彼は、飯田市歴史研究所の顧問研究員でもある。
せっかくの機会だということもあって、すぐに入手可能な何冊かは手元に集めて斜め読みしてみた。だが、帯に短し襷に長しとはこのことで、コンパクトに満蒙開拓の全体像を見渡せるものがなか見つけられないのである。この間研究が深化してきているので、論点が細部にまで及びつつあることも影響しているのかもしれない。加えて、研究者を廃業した私なので、その姿勢がどうしても易きに流れがちなことも無関係ではあるまい。そもそも、3回に分けて書こうとしている文章はたんなるブログの一文に過ぎないので、あまりに微に入り細にわたった専門的な書籍は、どうにも使いにくいのである。
そんな時に、ふと思い立って、記念館が作成した立派なパンフレットと『証言 それぞれの記憶』を改めて読み直してみた。これらは、今回記念館に出掛ける前に入手しておいたから、既に目を通してはいた。また、内容はすべて記念館に展示されていたものだから、訪問した際に実物を眺めてもいた。しかしながら、さほどの問題関心もないままに読んだものや、限られた時間のなかで立ったまま読んだり眺めたりしたものは、なかなか頭に定着しない。だが、たとえ雑文の類ではあれものを書くとなれば、話は別である。落ち着いてしっかり読もうとするからである。そんな時に、飯田市歴史研究所編の『満州移民 飯田下伊奈からのメッセージ』(現代史料出版、2007年)とも出会った。
パンフレットには、「展示室のご案内」 と題した章があり、そこには8つのテーマが掲げられていた。私のように初めて満蒙開拓のことを知る者にも、理解しやすいように工夫が施されており、しかもとても丁寧に作られていた。満蒙開拓に関する唯一の記念館であると称するだけのことはある。こうしたものをぞんざいに扱ってはならないだろう。何故かと言えば、アメリカの哲学者であるサンタヤーナの言うように、「過去を忘れる者は、それを繰り返す運命にある」からであり、ドイツの大統領だったヴァイツゼッカーが言うように、「過去に目を閉ざすものは現在にも盲目となる」からである。まさに「前事不忘、後事之師」(ぜんじふぼう、こうじのし)である。
満蒙開拓のために満州(中国北東部、現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省を指す歴史的な地域呼称である)に移住した人々は27万人にも及ぶ。そして死者は8万人にも達した。これだけの移住者が生まれ、またこれだけ多数の死者が生まれたのはどうしてなのか。まずは、その背景となる歴史を簡単に整理しておく必要があろう。昭和の初めのことになるが、アメリカで始まっ た世界恐慌は日本経済にも大きな打撃を与えた。とりわけ農村地域は深刻な状況に陥った。よく知られているように、日本の近代化を支えていたのは養蚕業だった。大正の終わり頃まで、日本における輸出の主力製品は生糸であり、その最大の輸出国はアメリカであったのである。恐慌の影響で消費は縮小し、繭(まゆ)価は大暴落する。それに頼っていた農家の収入も激減した。養蚕が日本で最も盛んであった長野県は、とりわけ大きな打撃を受けることになったのである
当時の中国には、陸軍の駐留部隊である「関東軍」がいた。その「関東軍」は、1931(昭和6)年に柳条湖事件を引き起こし、満州事変が勃発する。満を持していた軍部は瞬く間に満州のほぼ全城をその手中に収め、翌32(昭和7)年には「満州国」が誕生するのである。この「満州国」は、「五族協和」(五族とは日、朝、満、蒙、漢の5民族のこと)と「王道楽土」を建国のスローガンに掲げて、体裁だけは独立した国家を装ってはいたが、政府の中枢は勿論のこと地方の諸機関においても実権はすべて日本人が掌握していた。その意味では、軍部の野望の下に作られた傀儡国家そのものであったと言えよう。当時、満州に渡れば「20町歩の地主になれる」といった宣伝文句がまことしやかに語られ(無人の沃野が存在するとでも思われていたのか)、夢の大陸への憧れが、新聞や雑誌や映画などの種々のメディアを通じて大々的に喧伝されていくのである。「満州ブーム」の到来である。
国際連盟は、満州事変における日本の行動を批判して「満州国」 の成立を否認するが、日本はこれを不服として連盟を脱退。そして、二・ 二六事件によって軍部の政治的発言力は飛躍的に増大していくことになる。暗殺された蔵相の高橋是清は、満蒙への進出によって際限のない軍事費の増大を求める軍部に対して、まずは「満州を返すことが先決」だと主張したようだ。こうした状況下で、関東軍と陸軍省によって「満洲農業移民百万戸移住計画」が立案されるのである。1936(昭和11)年に至って満州への移民は国策にまで高められ、その動きに拍車が掛かっていく。満州への移民は、自由な経済移民などではなくまさに国策移民であった。その背景には、「満州国」の治安の維持やソ満国境付近の防衛といった軍事目的があったことは言うまでもない。「人間の盾」が是が非でも欲しかったのであろう。
そのことを端的に示しているのが、試験段階における移民の名称である。1932(昭和7)年から1935(昭和10)年までの移民は、武装移民と呼ばれた。小銃や手榴弾などを携行していたからである。当時、満州には抗日武装集団(日本人は「匪賊」と呼んだ)が各地に存在していたこともあって、移民は主に農業経験のある在郷の予備役軍人から選ばれていたのである。その後、満州移民は疲弊した農村の経済更生計画に組み込まれ、補助金と引き換えに分村・分郷開拓団といった自治体単位の集団移民へと移行していく。各県ごとに募集された開拓団もあったが、数が多かったのは、町村が単独で送出した分村開拓団であり、近隣の複数の町村が送出母体となった分郷開拓団である。分村移民を全国で最初に実施して先鞭を付けたのが、長野県の大日向(おおひなた)村だった。ここからは村の人口の半数近い約800人が移住した。
人はそう簡単には生まれ育ち住み慣れた場所を離れることはない。ましてや海外であり冬は極寒の地となる満州である。国からの、県からの、村からの周りからのさまざまな働きかけがあって、初めて移住を決意するに至るのである。分村を決めた村では、目標戸数を達成するため各種団体のリーダーたちが推進役となり、勧誘活動に励んだようである。国策という大義名分がそうした行為をそそのかすのである。主に農家の次男や三男らが勧誘された。そこでは、郷土のためや国のためといった大義も振りかざされたはずである。新天地で生きていくことを決意した人々は、土地や家を処分して大陸に渡って行った。
勧誘の際に何が謳われていたのか、整理してみよう。先のパンフレットによれば、当時次のようなことが謳われていたようだ。第一に、土地は満州国政府によって斡旋され、また関東軍は責任をもって警備保護の任にあたることになっていること。第二に、満州においては20町歩の自作農となり、希望に満ちた生活が出来ること。第三に、満州移住者は、行き詰まった農村を救い日本の現状を打開し、更に大陸における生命線の護りにも大きな力となること。そして第四に、農村の人々、ことに農家の二男三男で、日本内地にいても前途に光明をみとめることの出来ない青少年は、直ちに志を満州に馳せわが国策遂行上の一員となるべきこと。このよう大言壮語と美辞麗句によって、人々は扇動され説得されて満州へと向かったのである。
しかしながら、1937(昭和12)には盧溝橋事件が勃発し、日本は中国との全面戦争に突入していく。その結果、戦争に兵士を大量に動員しなければならず、それに加えて戦時景気にともない労働力の需要が拡大したために、成人の移民を確保することが難しくなっていく。そこに登場したのが満蒙開拓青少年義勇軍であった。不足した成人の移民を補充する目的であったにもかかわらず、義勇軍と呼ばれたのは何故か。日中戦争の遂行のためには、徴兵年齢に達しない数え年16歳から19歳の若者をもいざとなれば戦争に動員する必要に迫られていたからである。
義勇軍が入植した場所の多くは、ソ連との国境近くであったことからもわかるように、彼らはいざという時には武器をとり戦う国境警備の任務に充てられたのである。言ってみれば、鍬を持った兵士であった。防人や屯田兵のような存在だったとでも言えようか。彼らは、移住前に茨城県の内原(うちはら、現在は水戸市)訓練所で約2ヶ月間に渡り農事訓練、軍事訓練と精神的教育を受け、規律の厳しい集団生活で心身共に鍛えられて満州に渡った。1938(昭和13)年から1945(昭和20)年までの8年間に送り出された数は8万6千人以上。開拓移民の実に3割以上が少年たちだったのである。ところで、記念館のある阿智村には、戦前のプロパガンダ・ポスターが多数残されており、それが書籍となって販売されていた。田島奈都子編著の『プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争』(勉誠出版、2016年)である。長野県が作成した満蒙開拓青少年義勇軍募集のポスターもあった。そこには「往け若人!北満の沃野へ!!」と書かれていた。
先のパンフレットには、内原訓練所で撮られた一枚の写真が掲載されている。他の書籍でも見掛けた写真だから、よく知られた歴史的な一枚なのであろう。笑顔で映るあまりにも幼き顔付きの少年たちを見ていると、哀惜の念ばかりが募る。彼らが義勇軍として満州に渡ったなどとはにわかには信じられない。この訓練所の所長を務めたのが加藤完治(かとう・かんじ)であり、彼は軍人だった東宮鉄男(とうみや・かねお)と並んで「満州移民の父」と呼ばれた。加藤は、義勇軍の青少年たちを洗脳し扇動し続けたにもかかわらず、戦後も何一つ反省することもなく生き延びた「悪魔」的な男である。
建前は自由な応募であったようだが、現実には学校に割当数が下ろされ、校長を先頭に教師たちが卒業生に応募するよう働きかけた。その背景には、長野県で1933年に発生した二・四事件の影響もあったと言う。これは治安維持法違反を名目とした大弾圧事件で、約600名もが検挙されたがそのうち230名が教員であったことから、教員赤化事件とも呼ばれている。この事件の「汚名」をそそぐべく、県の教育関係者が積極的に国策に迎合していったようだ。彼らの戦争責任もまた問われてしかるべきであろう。義勇軍の死者は2万人以上と言われているが、いまもって正確な数はわからない。彼らの死は、角田房子の描く『墓標なき八万の死者 満蒙開拓団の壊滅』(中公文庫、1976年)のなかに埋もれたままである。上述のような話を踏まえて、「貧しさからの脱却」とのタイトルが付された「証言」を読んでみると、当時の状況があまりにもリアルに浮かび上がってくるのではあるまいか。
俺の親父は大工だったんだけど、ちょうど昭和7、8年頃から景気が悪くなって仕事がなくなっちゃったの。8人も子どもがおって10人家族。とても親父一人の給料じゃ食べていけんとなって。親たちはお金を前借りして俺たちは働きに出されたの。6年生卒業して、 13歳でな。俺たちのクラスは50人くらいだったけども、そのうちの約1割はそういう人たちがいたね。高等科に行ったのは半分くらいおったかしらん。中学へは3人か4人くらいしか行けなかった。 うらやましくて・・・、あいつが中学に行けるんだから、俺なんかあいつには負けないんだがって。泣きの涙で学校やめて働きに出たわけだ。
村で満州移民の話が出て。村の偉い人たちが家に来てしきりに 「お前さんたちこそ満州へ行くべきだ」ってすすめてくれた。日本じや仕事がない、満州へ行ったら20町歩の田畑をくれるんだから、 20町歩の大地主になれるんだって。20町歩って、見当もつかなんだ(つかなかった)、いったいどれくらいなんだか、20ヘクタールだからな。ここらじゃ五反百姓(1反=1町の10分の1)って1町歩も必要なかったくらいだった。そんな大地主になれるんなら、こんなに苦しむことはない、それじゃあ満州行こうってことになった。母親はいやだったようだけどね。あの時はああするしかなかったんだな。日の丸へ寄せ書きしてくれて、兵隊さん送ってくれるみたいに盛大に送ってくれたんだ。10数世帯一緒に行ったんじゃないかな。新潟へ行って、たしかわね、「満州丸」っていう大きな船が来て。今でも目に浮かぶけど、赤い夕陽に向かってでかけました。日本が見えなくなるまで、ずっと甲板に立ち尽くして。

