早渕川の河口へ

 前回早渕川の源流を探し歩いた話を投稿したが、今回はその続きで下流をぶらついた話である。地図を広げると、市営地下鉄のセンター南駅とセンター北駅の間を流れる早渕川は、都筑区を抜けて港北区に入り、緑区を流れてきた鶴見川と合流し、ここで早渕川の名前は消えている。その合流地点まで歩いてみようというわけである。このところブログに頻繁に登場している例の小僧たちも、歩いて遠出するのが好きなようで、一緒に出掛けることになった。日程を合わせるのが難しければ、私一人で自転車に乗って出掛けるところではあったのだが…。

 ところで、川と川が合流するところは何と呼ばれているのであろうか。タイトルには河口と書いてみたが、辞書では河川が海や湖に注ぎ込むところだと書かれているので、正確には河口とは呼べないようである。どうも合流点としか言いようがないのだが、これでは何とも味気ない。ブログのタイトルとしては今一つ気に入らないのである。そこで勝手に、川の名前が消える合流点も河口と称することにした。鶴見川の方が大きな川なので本川あるいは本流となり、早渕川は支川あるいは支流ということになる。つまり、二つの川の合流点で、支川としての早渕川の名称はなくなることになる。

 思うに、合流点を見に行きたいなどと思ったのは、早渕川の消滅する地点を自分の眼で確認したいということだったのであろう。大袈裟に言えば、早淵川の源流から河口までを眺めることによって、自分の人生というものを見詰めてみたかったのかもしれない。川を人生になぞらえるのはよくある比喩なので、この辺りはいささか通俗的な感傷ではあろう。橋の上から川の流れを眺めていると、人生の来し方行く末が頭を去来することになる。その辺りをかなり直接的な形で表現しているのが、美空ひばりの遺作となった「川の流れのように」(秋元康作詞、身岳章作曲、1989年)であろう。人々に人気があるのも肯ける。

 ところで、出掛けることを予定していた日は生憎の天気で、どうも小雨模様となりそうであった。降雨量が0.5~1ミリという予報なので、どうしたものか迷ったが、揃って出掛ける機会などそうはないと思われたので、あえて出掛けることにした。夜遅くまで面倒を見て欲しいと娘から頼まれていたので、出掛ける時間を遅らせ、センター南駅の側で昼食をとってから歩き始めるつもりで家を出た。歩きながらの雑談のなかで、この近くにアンティーク・ショップがあると話したところ、上の小僧が興味を示し、是非連れて行ってくれと頼んできた。

 少し寄り道をするだけだったので、その店に連れていった。二人とも興味津々である。アメリカの旧い雑貨が所狭しと並べられている。私もこうした店が好きなので、あれこれと見て廻った。そう言えば、一時期アジアングッズに凝ったことがあって、その頃はあっちこっちの店をうろついた。当時はそうしたものが流行っていたからであろうが、顔を出した店は近隣で10箇所以上はあったような気がする。しかしながら、現在ではそのすべてがなくなっている。どの店も跡形もないというのには、我ながら驚く。私もあれこれのものを買い漁ったが、現在我が家に残っているのは数点のみである。

 若い店主が経営するこの店が、いつまで続くのか私には分からないが、世の中にこんな店を成り立たせるぐらいの余裕があってもいいのにと思いつつ、各人が選んだ好みのキーホルダーだけを買って店を出た。閉店してしまった店の店主だった人々は、今頃どんな暮らしをしているのであろうか。その後の身の振り方が妙に気に掛かる。コロナ禍の影響なのか、このところ閉店の張り紙が目に付くようになってきたが、こちらも同じである。そんなことを思いながら、早渕川の土手を歩いた。源流は崖から滴る湧き水に過ぎなかったのに、歩き始めた境田橋辺りまで来ると最早立派な川である。

 川にはサギや鴨がいたし、側の家には柿やミカンが実っていた。いろいろなものを発見できるので、雑談の話題には事欠かない。そのうち駄洒落が飛び出すようになり、何となく駄洒落合戦の様相を呈してきた(笑)。「サイが騒いでうるさい」とか「怒った象を見てぞーとした」とか「イルカはいるか」といった駄洒落にもならない下らないものも多かったが、なかなか面白いものもあった。しかし、もうほとんど忘れている。最近は学校で英語の授業も始まっているらしく、「クジラがほえーる」とか「石がすとーんと落ちた」と言ったものまで飛び出した。

 かなり歩いたはずなのに、なかなか合流地点に辿り着けない。道は間違えようがないので、ただただ遠いのである。歩くのに飽きて、途中に立ち寄った誰もいない公園で、久し振りに私も一緒にラグビーボールやサッカーボルを蹴ったりした。すれ違った人に尋ねながらようやくにして合流地点に辿り着いた。土手から眺めると、早渕川は鶴見川に飲み込まれるようにして姿を消していくことがよく分かる。静かな夕暮れが迫りつつあった。下の娘の家は鶴見川の側にあるが、その鶴見川もここまで流れてくると川幅は倍以上にも感じられた。藪を抜けて川縁まで歩を進めてみたが、近くに寄ると流れに吸い込まれそうで不安になる。時折小雨がぱらつくような夕暮れ時だから、尚更である。

 帰りは、市営地下鉄の高田(たかた)駅かに向かうことにしていた。同じ道をもう一度辿る元気はなくなっているだろうと予想していたからである。もう土手を歩く人もほとんど見あたらなかったので、スマホのマップで調べようとしたのだが、電池切れでそれもできなくなった。私は普段腕時計をしないので、勿論ながら正確な時間も分からない。夕飯はお好み焼き屋で食べることにしており、7時に予約してもらってある。かなりバテ気味だった下の小僧は、その時間に遅れるのではないかといささか不安そうな面持ちであった。怖がり屋で心配性なのである(笑)。よく言えば慎重で真面目だとも言えるのであろうが…。

 たまたま土手を通りかかった人に駅への道を尋ねたところ、それほど離れてはいないことが分かって、こちらもほっとした。高田駅は地下深くに作られており、エスカレーターを4段も降りて、ようやくホームに辿り着いた。予約していたお好み焼き屋には早めに着いたが、直ぐに入れてもらうことができた。思いの外庶民的な店だった。お腹もすいており喉も渇いていたので、あれこれと注文し、ビールを2杯も飲んで、河口への旅の疲れを癒やした。作りながら食べるので、小僧たちも嬉しそうである。「もんじゃ焼きは早く食べるもんじゃ」は、下の小僧の「傑作」らしい(笑)。

 店を出ると夜の帳はすっかり下りていた。娘が帰宅する時間にはまだ間があったので、あざみ野駅の側にある古本屋に連れて行った。昔はこうした店によく顔を出して、私なりの「掘り出し物」を見付けるのを楽しみにしていたが、このところとんとご無沙汰である。久方ぶりなので、画集や写真集の棚を眺めて3冊ほど購入した。2人は欲しいものが随分と安く買えるので、驚いていた。そう言えば、昔出掛けた古本屋も大分姿を消している。

 河口の探索を間に挟んで、アンティーク・ショップから始まり古本屋で終わった旅だったが、旧きもののなかにも良きものはある。早渕川の土手などを歩きたくなるのは、もしかしたら田舎への郷愁などもあるのだろうか。そんなところにも、旧き良きものを見ているのかもしれない。古本屋を出て帰路に就いたが、もう夜もすっかり更けていた。心配性の下の小僧は、「夜遅くに子供だけで歩いていたら、おまわりさんに捕まる」などと真顔で語っていたのだが…。