新春の五島・島原紀行(四)-五島のキリシタンとは-

 五島におけるのキリシタンの歴史は、1562年にイエズス会から派遣された日本人医師ディエゴが、時の領主の病を治療したことに端を発しているとのことである。 1566年からは宣教師による布教が始まるのだが、洗礼を受けた者は4,000人にも達し、上は領主から下は農民に至るまで島民の3割はキリシタンになったと言われている。短期間にそこまでの広がりを見せたのは、領主が受洗したことが大きく影響しているに違いない。しかしながら、秀吉や家康の禁教令と相次ぐ迫害によって信者の数は減少し、18世紀の中頃には信者はいなくなってしまったようだ。復刊された浦川和三郎の『五島キリシタン史』(国書刊行会、2019年)によると、「一人の潜伏キリシタンも、何らの遺跡、証拠書類をも留めざるまでに湮滅(いんめつ)」したとのことである。

 その後、五島列島における信仰が広がりを見せることになるのは、1797年になってからである。当時の大村藩では、人口を抑制するために長男以外の子供の間引きを奨励していたようなのだが、それとは対照的に、五島藩では干魃(かんばつ)や疫病で人口の減少に苦しんでいた。土地はあっても人がいなければ、山林の開拓もままならない。そこで、五島藩が大村藩に対して領民の移住を申し出るのである。移住者のほとんどは、大村藩で迫害を受けていたキリシタンたちであった。大村藩は以前藩主がキリシタンだったこともあって、隠れた信者が多かったのである。この移住をきっかけとして、再び五島においてキリシタンが増えていくことになる。

 彼らを受け入れた五島藩は、外海から来る農民たちが潜伏キリシタンであることは知っていたが、黙認したらしい。大村藩とは違って五島藩では、キリシタンに対して割合寛大だったようなのである。九州から大分離れた離島だったこともあるのだろう。迫害から逃れられることになるので、彼らは新天地への移住を喜んだようである。そんな噂が広まったこともあって、最終的には約3,000人ほどが外海から移住したらしい。移住し入植した人々が、今でもイツキ(居付)と呼ばれたりするのは、こうした歴史があったからである。

 しかしながら、五島にはすでにジゲ(地下)と呼ばれた地元住民が居住していたので、移住者が住める場所は、開拓されていない海沿いや崖の近くなどに限られた。辺鄙な場所や痩せた土地しか与えられなかったのである。移住者に対する差別もあった。当初は、「五島へ五島へと皆行きたがる。五島やさしや土地までも」と唄われた五島であったが、その後「五島極楽行ってみて地獄。二度と行くまいあの島へ」と唄われることにもなった。移住者は、厳しい暮らしを余儀なくされたものの、そこに信仰にもとづいた楽園を築こうとしたのであろうか。別な見方をすれば、厳しい暮らしに耐えることができたのは、信仰というものがあったからに違いなかろう。そのあたりのことを、先の『五島キリシタン史』は次のように描いている。

 大村藩では極端に産児制限を実行し、男子は長男だけを残して、その他は殺させてしまう。たとえ父母がそれを忍びかねて哺育したにしても、他家へ養子にでも遣わさないかぎり、これに家督の幾分でも譲って分家を立てさすことを許さない。無論キリシタンは児を殺すことの赦すべからざる罪悪たることを心得ている。しかし次男以下は藩内に留まっていてはいつまでも日陰者で、一個の公民権すら得ることあたわぬので、自然他領へ逃亡する者が多かった。彼らが五島藩の招きに応じて移住を決行したのは実にこれがためであるとか。

 五島藩は一万余石の小藩である上に、中央を距ること最も遠く、ややもすれば江戸参勤の費用さえ捻出しがたいほどであったから、もし藩内から異宗門の徒でも現われたとあっては、それこそ非常な難問題で、とうてい貧弱な藩財政の堪え得るところではない。ために当局側からつとめてこれを隠匿し、かえって告訴して出た者を処罰するというあんばいであったとかで、移住のキリシタンたちも、貧困はしても平穏裡にその信仰をつづけることができた。五島および外海地方の古老はみなそのように語るのであるが、果たして事実それに相違ないのであったかは、保証のかぎりではない。

 信者側の口伝によると、五島から1,000人の百姓を貰い受けたいと申し込んだのに対して、3,000人もが移住したのだということである。 もとより3,000人が一度に出かけたわけではなく、先住者をたよって次から次へと引っ越したものらしく、前の幸作などの例をもっても明らかである。かくて大小の五島群島には、上は野崎島から、下は嵯峨島に至るまでいやしくも山の拓くべく、船の繋ぐべき余地だにあらば、我れ勝ちにと割り込んで行ったので、ここに3軒、かしこに5軒といたるところにキリシタン部落を見るようになった。

 五島のキリシタンの状況は、以上のように描かれているのであるが、こうした状況は徳川幕府による大政奉還と王政復古によって急変した。幕府時代には隠れキリシタンに対して拱手傍観していた五島藩が、明治になって急に血生臭い迫害に走ることになったのだが、それは何故なのだろう。このあたりがよく分からない。私の方に、徳川幕府よりも明治政府の方が開明的であるといった誤った思い込みがあるからであろうか。尊皇攘夷による国粋思想の鼓吹や国家神道の確立が、異教徒の排除をあらためて浮かび上がらせた可能性もある。

 いわゆる「浦上四番崩れ」に続く「五島崩れ」は、久賀島から始まった。ここで使われている「崩れ」とは、潜伏時代に信仰を守り抜いてきた組織が大規模に摘発され、取り調べを受けることを言う。単独では普段聞かぬ言葉である。明治時代に入って開国したにもかかわらず、禁教が解かれることはなかった。そんななか、1865年の大浦天主堂での「信徒発見」をきっかけに、五島でも隠れキリシタンたちが次々と信仰を公に表明し始めた。こうした動きに対して、明治政府は彼らを一掃するために弾圧を開始するのである。

 「残虐暴戻の極み」とまで言われたこの弾圧は、五島の全島に及び信徒の多くが算木責めにあった。三角の木材を並べた台に正座させられ、膝の上に重い石板をのせられたのである。そうした拷問に加えて、「郷責め」と呼ばれた村民による私刑も広がった。移住してきた隠れキリシタンに対する差別がもたらした迫害である。久賀島の「牢屋の窄」(ろうやのさこ)では、静かな湾に面したわずか6坪の牢屋に約200人ものキリシタンが収容され、42名の信徒が命を落とした。この悲劇がプティジャン神父によってヨーロッパに伝えられると、日本は各国から非難を受けることになり、明治政府はようやくにしてキリシタン禁制の高札を撤去したのである。この顛末は、森禮子の『五島崩れ』(主婦の友社、1980年)に小説仕立てで描かれている。


PHOTO ALBUM「裸木」(2023/05/23

五島を巡って(1)

 

五島を巡って(2)

 

五島を巡って(3)