早春の南信州紀行(三)-馬籠宿にて-
天龍峡を散策した後、われわれは次の目的地である「満蒙開拓平和記念館」に向かった。この記念館は阿智村にある。ここの概要についてはすでにブログで紹介済みなので、改めて触れることはしない。今回の調査旅行における私の最大の関心事は、満蒙開拓団を巡る話であった。これまで何の関心も払ってこなかったと言ってもいい私が、急に強い関心を示し始めたのは、記念館の存在を知り、そしてまた、そこから発行されていた数々の資料を手にしたからである。端的に言えば触発されたのである。この間さまざまな関連著作を読んだが、それらの紹介と考察に関しては後にまとめて詳しく触れるつもりである。「満蒙開拓平和記念館」での見学を終えて我々一行が次に向かったのは、木曽路にある馬籠宿である。
かなり長い恵那山(えなさん)トンネルを抜けると、馬籠宿はすぐである。県境を越えるので、場所は岐阜県の中津川市に属している。他の高齢者と同じだろうとは思うが、流行りものではなく旧きものを偏愛している私は、ここでもいい写真が撮れるのではないかと期待していた。あらかじめ記憶容量の大きなSDカードを用意しておいたので、何枚写真を撮ろうが心配はなかったが、問題は電池の方である。以前撮影中に電池切れとなったことがあったので、用心のために充電済みの予備の電池を二個用意しておいた。こうして準備万端で臨んだのである。
まず最初に顔を出したのは、馬籠宿の外れにあった高台の展望台である。馬籠陣馬上(じんばうえ)展望台と言うらしい。ここからは、中央アルプスの南端に位置する恵那山を初めとした近隣の山々が見えた。恵那山は標高約2200メートルの落ち着きのある山である。展望台からの眺めは、絶景とまでは言わないにしても、気持ちが晴れ晴れするなかなかいい眺望である。春の午後の柔らかな日差しのなか、南信州の山々がいかにも笑っているかのようだった。すぐに馬籠宿の話に入る前に、少しばかり周辺のことにも触れておきたい。まずは、馬籠宿もその一宿となっている中山道の歴史から。
徳川幕府は、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い以降、江戸を中心とした道路網を全国的なものに発展させるとともに、翌年には東海道に伝馬制を実施、さらにその翌年には中山道にも宿駅を設けている。江戸を起点とする主要な陸上交通路として、五街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道)の整備を進め、1604(慶長9)年には、江戸日本橋を起点として各街道に一里塚を築かせている。これが街道を歩く距離の目安となった。
街道の整備のため、幕府は1659(万治2)年に道中奉行を設置し、街道の改修や整備、架橋、渡船、並木、一里塚、宿駅および人馬賃銭などの管理にあたらせるとともに、諸街道には関所を設け、人改め等を行うことになる。これらの制度は、もともとは参勤交代や御用の荷物を運搬、治安の維持のための制度であったが、街道が整備されることによって庶民の旅行も比較的安易となり、物資の流通や通信の発展、さらには文化の伝藩にとっても大きな役割を果たすこととなる。
そこで中山道であるが、中山道は、日本橋から北武蔵・上野国・信濃国・美濃国と諸国を通過した後、近江国草津宿で東海道と合流して京都に至る。 古くは、信濃国の木曽を通るため木曾街道とも言われた。因みに、手元にある『浮世絵大系』を眺めていると、14巻の広重作の『東海道五拾三次』に続いて15巻は広重英泉の共作となる『木曾街道六十九次』となっている。馬籠宿(駅と表記されている)を描いているのは英泉。個人的には、木曾街道の方が何とも趣があるように思えるのだが…。
ここでいう「次」だが、人や馬を宿場毎に次々と継いで運んだために、宿場のことを次と数えるようになったらしい。東海道の126里53宿に対し、中山道は139里69宿と距離も長くその分宿も多い。さらに木曽路をはじめとする山道や峠道が多いため、人馬の往来や継立が困難であった。このため、参勤交代における中山道の利用は、東海道に比べて約4分の1程度に留まったと言う。この中山道のうち木曽を通るところは木曽路と呼ばれた。木曽川に沿って険しい峠を越え、深い谷を抜け、山の底を縫うようにして伸びおり、そのうち11宿が木曽にある。
観光客に人気の宿は、馬籠宿、妻籠宿、奈良井宿あたりのようだ。では、こうした宿の魅力はどんなところにあるのだろう。石畳、苔むす石仏や水車などの宿場の名残を眺めながら歩いていると、数え切れないほどの旅人が踏みしめたであろう道と山里の温もりを感じることができ、自分もまた遙か昔に返っていくように思えるからなのかもしれない。深い郷愁である。そんな場所では、目的地を目指した急ぎ足は似合わない。道草や寄り道を愉しんで、のんびりと歩くのが似合っているのではあるまいか。私も観光客の一人となって、旧い作りの喫茶店でコーヒーを飲んだり、土産物屋を覗いたりして、そぞろ歩きを愉しんだ。余計な看板やポスターや幟がなく、気になる音もない。質朴で静謐なのがいいのであろう。
馬籠宿は中山道の43番目の宿場であり、木曽路にある11宿のうちでもっとも南にある。坂道の両側には復元された古い町並みがつづき、宿場風情もひとしおである。いま復元と書いたが、、それはここが明治と大正の火災によりそれまでの旧い町並みがすべて消失しているからである。ところで気になったのは馬籠の由来である。諸説あるようだが、付近の峠が険しい難所であったため、旅人が「これ以上は馬を連れていけない」と、馬を宿の木に繋ぎ止めたり、預けたりして峠を越えたことから「馬籠」と呼ばれるようになったのだと言う。そんなことを調べていたら、隣の「妻籠」も気になった。この名称は、端っこ(妻)の集落(籠)に由来すると言う。馬籠宿のほぼ中間地点に、藤村記念館があった。『夜明け前』によれば彼の生家は旧本陣であった。そぞろ歩きのついでに覗いてみたかったが、あいにくと休館だった。
木曽路や馬籠宿のことを知ろうと思って、本棚から昔セットで買い込んだ本を引っ張り出してあれこれ眺めていたら、文芸評論家の巌谷大四が書いた「木曽路の夏」という一文を見付けた。シリーズ『美しい日本』の第4巻となる『アルプスの自然』(世界文化社、1981年)にあった。随分昔に書かれたものだし、書かれた内容がさらに昔のことだったが、馬籠宿のことを知る上で参考になると思われたので、長くなるが紹介してみる。
私が初めて馬籠を訪れたのは、昭三十年の夏、今からもう二十五年も前のことだ、私はその頃 『文芸』の編集長をしていて、「臨時増刊・島崎藤村読本」の取材のために訪れたのである。今は亡き亀井勝一郎氏と一緒だった、夏の最中であったが、よく晴れた日で湿気がなくからりとして、不快な暑さではなかった。 私たちは午後3時頃そこに着いた。藤村の長男の島崎楠雄氏が待ちうけておられて、私たちは荷物を家に置き、楠雄氏の案内で、まず「藤村記念館」を訪れた。藤村の生家、本陣の跡に建てられ記念館は、白壁の土蔵造りの瀟洒な建物である。その白壁に 「血につながるふるさと、心につながるふるさと、言葉につながるふるさと」という、いかにも藤村らしい言葉を刻んだ板がはめこまれている。建物の中には、原稿や、著書や遺品などがゆったりと品よく飾ってある。ごたごたしていないのがいい。
記念館の隣は、四方木(よもぎ)屋という小ぢんまりした旅館である。(その後改築したらしいが、私の行った頃は本当に小ぢんまりした宿であった)楠雄氏の経営している宿である。私たちはその宿のはなれに泊まった。部屋の窓から、恵那山が美しい姿を見せていた。(中略)恵那山は馬籠の象徴で、藤村の父島崎正樹の愛した山である。真夏の真昼間、よく晴れていたので、抜けるような蒼空の中に恵那山はくっきりと浮かび出て美しかった。またここ(島崎藤村の『夜明け前』のこと)に出てくる十曲峠(じっきょくとうげ、落合宿と馬籠宿の間にあるつづら折りの急坂)の旧道の、史跡として保存されている石畳の道は、えもいわれぬ風情がある。それがすっかり摩滅して光っているのが歴史をしのばせる。左右の木々の緑が美しい。頂上に一里塚の古跡がある。「これより北 木曽路」と藤村の筆になる標石があり、北の入口、桜沢にある「これより南 木曽路」の標石と対応するようになっている。
記念館の裏手、浅い谷をへだてて、島崎家の菩提寺西沢山永昌寺が森林につつまれた岡にある。『夜明け前』には、「万福寺」という名で出てくるところだ。藤村の父島崎正樹の墓の前には「 夜明け前の青山半蔵の墓」という標識が立っている。妻籠宿も見て来た。ここは木曽路の中では最も宿場の面影の残っている鄙(ひな)びたところである。町ぐるみて、当時の町並の保存につとめているのだそうだ。その復元運動が現在もつづけられているとい う。千本格子のある旅籠(はたご)や民家が軒を連ねている。 その中にかつての脇本陣「奥谷」の建物が現存している。「奥谷」というのは屋号で、『夜明け前』 に扇谷得右衛門として描かれている。馬籠の大黒屋から、藤村の幼な友達「おふゆ」が嫁いだところである。「初恋」という有名な詩のモデルだという話もある。(以下略)
馬籠宿に出掛けたのを機会に、折角だからと「初恋」を詠み直してみた。晩年を迎えてから青春讃歌の典型のような藤村の詩をあらためて詠んでみると、懐旧の情に囚われるのは勿論だが、不思議なことに何とも新鮮な感じがした。いつまで経っても旧びることのない文語体の詩の効用なのか。幼かったあの頃、私はいったい何を考えていたのだろう、何処に行きたかったのだろう、誰と出逢おうとしていたのだろう、何を信じていたのだろう、何を見たかったのだろう、何を語りたかったのだろう、どんな人生を夢見ていたのだろう。今となってはすべて夢幻の如くであり、判然としない。もしかしたら、目の前のことにあくせくして何も考えていなかったのかもしれない。
まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは 薄紅の秋の実に 人こひ初めしはじめなり
わがこゝろなきためいきの その髪の毛にかゝるとき たのしき恋の盃を 君が情に酌みしかな
林檎畠の樹の下に おのづからなる細道は 誰が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけれ

