早春の上州紀行(補遺)-深谷を歩く-

 私は今回の調査旅行の帰りに深谷に寄って、そこでもう一泊するつもりでいた。最終日の午後に碓氷峠鉄道むらから高崎に戻って、調査旅行の一行はそこで解散となった。一人身となったので、各駅停車の高崎線に乗って深谷に向かうことにした。そうしたら、同じ列車で東京に戻るというMさん(昔社研の月報でM某などと書いたことがある-笑)と一緒になった。あれこれの思い出話に花が咲いているうちに深谷に着いた。30分ほどだから、まさにあっという間である。

 帰宅の途中深谷に寄ろうと思っていたのには、もちろんながらわけがある。私が生まれたのは埼玉県の深谷市なので、是非一度訪ねてみたいとかねてから思っていたためである。私が深谷にいたのは生後半年ばかりであり、その後は福島県の福島市で育った。だから、略歴を書く必要があるような時には、「埼玉県深谷市で生まれ、その後福島県福島市で育つ」と書いてきた。生後半年程しかいなかったところに愛着などわくはずもないのに、いつ頃からか生まれた地を訪ねてみたいなどと思うようになった。きっと年の所為であるに違いない。

 今回高崎経由であちこちに出掛けることになったので、こんな機会はもうないと思い、深谷駅前のビジネスホテルに事前に予約しておいた。午後とは言っても夕方にはまだ間がある時間に深谷に着いた。改札口を出た際にも立派な駅だと思ったが、駅舎を外から眺めたらそのレトロモダンな作りに目を奪われた。駅前は人通りもクルマも少なく静かな町だが、そうした場所にあるとは思えないほど立派な作りである。ネットで調べてみたら、この駅舎は1996年に改築されており、東京駅が深谷産の煉瓦を使用していたことにちなんで東京駅を模しているのだという。記事をもう少し詳しく紹介してみる。

 改装された現在の駅舎は東京駅の赤レンガ駅舎をモチーフにしたデザインで、「ミニ東京駅」とも呼ばれる。これは、大正時代に竣工した東京駅の丸の内口駅舎の建築時に、深谷にあった日本煉瓦製造で製造された煉瓦が使われた史実にちなむ。ただし、この深谷駅の駅舎自体はレンガ構造ではなく、コンクリート壁面の一面にレンガ風のタイルを貼ることによって東京駅に似せている(これは、線路を跨ぐ駅舎からレンガが剥落する可能性が指摘されたためである)。本物のレンガではないものの、夜間のライトアップ時を含めて人気は高く、撮影のために遠方から訪れる鉄道ファンや観光客が絶えない。

 そんな駅舎だったとはまったく知らなかったが、他にも知らなかったことはあった。NHKの大河ドラマ「青天を衝け」に登場した渋沢栄一の出身地であり、彼の記念館まで建てられていたことである。それを知ったからといって、この際だから出掛けてみようなどとは思わなかったのだが…(笑)。ホテルの部屋で一息入れてから周りをぶらついてみた。カメラマン気取りで駅舎を撮影したのは言うまでもない(笑)。人影もまばらな駅の側には小さな川も流れており、桜の木も植えられていて、素朴すぎるほど素朴な風景である。

 知らなかったことのついでに書けば、深谷が昔は中山道の宿場町で、結構な賑わいを見せていたことである。こちらもネットの知識を紹介するだけの話だが、そこにはこんなふうに書かれていた。「深谷宿(ふかやじゅく)は、中山道(木曽街道)六十九次のうち江戸から数えて9番目の宿場。現在の埼玉県深谷市にあたる。深谷宿は中山道で最大規模の宿場」。商人が多かったこともあって、飯盛女も大勢いて遊郭もあり、江戸を出立して2番目の宿を求める人で大いに栄えたとのこと。浮世絵師の英泉が描いた『岐阻街道 深谷之駅』はよく知られているようで、深谷宿の飯盛女が描かれている。渋沢栄一よりもこちらの方に興味が沸いた(笑)。

 そんな話はともかく、夕飯にはまだ間があったので、近くをうろついていたら古本屋と雑貨屋を兼ねた店を見付けた。覗いてみたら店の主人が気さくな人で、あれこれと古本談義を交わした。店を開いてまだ間がないらしく、顔を覗かせた客と話をしたかったのであろう。こちらに少しばかり応援する気持が沸いてきたこともあって、復刊された室生犀星の『動物詩集』などを買った。そうしたら、親切にも少し離れたところにある大きな古本屋の場所まで教えてくれた。教えてくれたと言えば、ホテルの近くにあった小綺麗な蕎麦屋で飲み食いしようと思って出掛けたら、お酒は出せないとのこと。そこまでであればどうということのない話だが、飲みたいんだったらあそこで飲めますよと、店から顔を出してわざわざ居酒屋の場所まで教えてくれた。何とも親切な振る舞いである。

 翌日には深谷商業高校に顔を出してみた。私が深谷で生まれたのは、当時父がその高校の教員をしていたからである。深谷では上の姉も生まれたが、私の生まれる1年前には長男がこの深谷で1歳で亡くなっている。陽光が眩しく汗ばむような天気であった。しばらく歩いて深谷商業高校に辿り着いた。ここに二層楼と呼ばれる記念館があることは知っていた。実物を目にしたところ、実に堂々とした立派な建物である。

 この建物は1922 (大正11)年 に建設されており、フレンチ・ルネサンス様式を基調とした木造2階建の瓦葺きの校舎だとのこと。中央には尖塔があり、左右対称に造られている。県内で唯一、完全な形で残る大正期の木造校舎で、2000年に国の登録有形文化財に指定されている。建物の老朽化が進んでいたため修復工事が行われた。復元調査で校舎の外壁が白色系ではなく緑色だったことが判明したため、外壁は創建当時の緑色に塗り直され、校舎は大正時代の姿に忠実に復元されたという。

 外から見ると、緑色の外観と尖塔が印象的であった。記念館の入口から中に入ろうとしたら、その日は高校の合格発表の日であったようで、入構を断られた。仕方がないので、正門に回り父母のような顔をして堂々と入れさせてもらった(笑)。絵になる建物だったので、ここでもたくさん写真を撮った。構内のベンチに座り、深谷商業自慢の遺産である記念館を眺めながら、当時まだ若かった父や母を偲んでみた。私も40歳前後の頃は暮らしに追われて悪戦苦闘していたから、両親もきっと同じだったろうと思ったりもした。

 帰路に唐沢川の土手を眺め、中山道だった通りを歩いた。唐沢川の土手は桜並木になっており、もうしばらくすれば大勢の人が訪れるに違いない。前日に教えてもらった古本屋に寄ろうと思って、レンガ造りの煙突を目当てに街中を散策していたら、古本屋の側に来て「深谷シネマ館」の看板が目に入った。地元のミニシアターである。深谷シネマがあったのは七ツ梅酒造の酒蔵跡だったが、ここには、飲食店や雑貨屋、古本屋などの店舗も入っており、映画を楽しんだ観客が歓談できるスペースにもなっていた。何とお目当ての古本屋の側にシネマ館があったというわけである。こんな場所を維持している深谷を少しばかり羨ましくも感じた。

 映画を観る時間はなかったので、館内の休憩スペースでコーヒーを飲んだ。たまたま近くに同年配とおぼしき方がおられたので、私が深谷を訪ねたわけなどを話してみたら、当時の住所は分かりますかと問われた。私の戸籍謄本にあった住所を伝えたところ、そこは昔駅の側だったとのこと。名刺をもらって知ったのだが、この方が深谷シネマ館の館長である竹石研二さんだった。館内には山田洋次監督の色紙も飾られていた。「こんな時代だからこそ映画は人々の喜びと楽しみになると、信じています」と書かれていた。

 すぐ側の古本屋にも顔を出したが、そこの主人はたいへん若い方だった。かなり広い古本屋だったので、すべてをゆっくりと眺めることは叶わなかったが、折角だからと2冊ほど古本を購入した。荷物が膨らむことは分かっていたが、後は電車に乗るだけなので、それでもいいかと思ったのである。店の若い主人とすこしばかり雑談を交わし、前日入りそびれた蕎麦屋で遅い昼食をとり、満足して帰路に就いた。深谷はとてもいいところである、こちらがそう思いたがっているから、そんなふうに感じたに違いないのではあるが…(笑)。