東日本大震災私記(六)

 第5章 再び被災地へ-気仙沼、大船渡、田老-

 人間は年を取ってくると、未来ではなく回想に生きるようになり、昔出かけたことのある場所を再び訪れたくなる存在なのかもしれない。古風に表現すると、曾遊(そうゆう)の地を巡るということである。50代に入ったあたりから、再訪というケースがぽつぽつと現れてきたような気がする。昔が懐かしく思われて、「あの日」に帰りたくなったりするからなのだろうか。そこには、気持ちの弱まりなども潜んでいるに違いない。

 2009年には「韓国再訪-独立記念館と光州を訪ねて-」(『専修大学社会科学研究所月報』No.553・554号所収)といった文章まで書いた。そして2014年には、社会科学研究所の夏季実態調査の一行に加えてもらって、大震災の被災地を再訪することになった。しかしながら、今回の再訪は勿論「あの日」に帰りたかったからではない。「あの日」の「その後」の現状を、自分の目で見て確かめておきたいと思ったたからである。

 2011年の8月に一度出かけたことがあるので再訪となるわけだが、先にも触れたように、その時は大学の修学支援相談会に出かけた折に、思い立って被災地を廻ったのである。本当は福島県のいわき市で予定されていた相談会に行きたかったのだが、まだ開催は無理だとのことだったので、岩手県の北上市で開催された相談会に手を上げた。出掛けたければ都合をつけて自分で出かければいいようなものだが、元来ものぐさなためなのか、それとも年の所為もあって出無精になってきたためなのか、何かのきっかけがないとなかなか出掛けることができない。

 そんな私にとって、大学の修学支援の相談会で岩手に出かけることは、被災地に向かうにはまたとない機会に映った。何とも貴重な体験であった。今回の社会科学研究所の夏季実態調査に参加したのも、同じようなものであった。調査旅行が実施されることを知って、すぐに参加を決めた。この辺の判断は案外早いのである(笑)。こうした機会を逃していたら、怠惰な私などは訪ねもしなかったであろうし、また再訪もしなかったような気がする。

 酒の席では猥雑な話(ごくまれには猥褻な話も-笑)が大好きで、周りの生真面目な同僚たちからは毎度顰蹙を買うような人間なのに、根は意外にも真面目だということなのか。ところどころで、ふと片意地なまでに頑固で狷介な一面が顔を出す性分なのである。玄侑宗久のエッセイ(澤正宏監修『ふるさと文学散歩福島』大和書房、2012年)を読んでいたら、ある新聞に福島県人は「のびやかで一途」と書いてあったことが紹介されていたとのことである。彼は、この両面が並び立つものかどうかいささか懐疑的であったが、「のびやか」はいざ知らず、もしかしたら「一途」の片鱗ぐらいはどこかにあるかもしれない。

 前回は宮古から南下したのだが、今回はそれとは逆のコースを辿ることになった。一ノ関駅で参加メンバーと合流し、ここから海岸線に出て南三陸町、気仙沼、陸前高田と北上したわけである。東京駅から新幹線に乗り込んだら、隣の指定席に人間科学部の樋口さんが座っていた。2、3度言葉を交わしたことはあったが、そんな女性とどんな話をしたものか迷ったが、気を遣わせるのもまずかろうと思い、とりとめのない雑談を始めた。そんななかで初めて知ったのだが、彼女はもともとは福島出身で、しかもあの福島女子高校(略称は福女、現在は共学となり橘高校となっている)の卒業生だった。何とも奇遇である。男子高の福島高校出身の私などは、福島女子高校と聞いただけで懐かしさのあまり「あの日」に帰りたくなるタイプなので(笑)、当時の彼女の思い出話をとても興味深く聞かせてもらった。

 一ノ関からはバスでの移動となった。途中猊鼻渓で昼食をとったが、そのレストランでゼミ生を引き連れた同僚の鈴木奈穂美さんと会った。「世の中は狭い」とはよく聞く台詞だが、文字通りそんな気がした。会ったついでに原稿の督促までしたが、彼女もこんなところで督促されるとは思いもよらなかっただろう。バスのなかでは同じ経済学部の鈴木直次さんと同席した。同い年でもうしばらくすればともに定年退職の身なので、あれこれと話は尽きない。そんな間柄なので自然に心が休まった。

 気仙沼に向かう途中、バスは「道の駅」に立ち寄った。被災地でお金を費消することも支援の一つだということは頭ではわかっていたが、年を取って物欲がとみに衰えたこともあって、旅に出ても土産物にはすっかり関心を失ってしまっている。そんな私は、三陸新報社のごくごく小さなパンフレット『気仙沼見聞思考』だけを買った。震災当時の惨状とともに、「その後」の復興の様子が写真で紹介されていたからである。

 そのパンフレットを見ていて気になったのは、そこに記載されていた死者の数字である。気仙沼市の死者は1,041人、行方不明237人、震災関連死105人とあり、死者のなかには身元不明5人とあった。南三陸町の死者数も598人と紹介されていたが、そこにも身元不明5人とあった。これまで気が付かないでいたが、行方不明者だけではなく身元不明者もいたわけである。わが国は既に『孤族の国』(朝日新聞出版、2012年)でもあって、いまや孤独死も珍しくはないようだから、そうした人々がいてもおかしくはないのだろう。彼ら彼女らにはいったいどんな人生があったのだろうか。もはや語れる人は誰もいない。

 気仙沼に泊まった翌日は、陸前高田の大規模な復興工事を視察した後、大船渡に向かった。無人の地に長大なコンベアが組み立てられ、地盤の嵩上のために山から削った土が間断なく運ばれていた。被災地の復興の様子などについては、恐らくや他の人々が触れるであろうし、私に書けることなど何もないので、ここではあえて触れることはしない。復興によって、地元の老若男女の「居場所」や「仲間」が生まれ、のんびりと茶飲み話や酒飲み話でもできるようになることを願うばかりである。

 大船渡は前回の被災地行で泊まったところなので、いささか懐かしくはあった。当時繁華街の両側に並んでいた被災したビルはすべて撤去されて、平地に変貌していた。我々のガイド役を務めてくれた三陸鉄道の方の話では、ラーメン屋も旅館もそのままだとのことだった。陸前高田でも大船渡でも復興工事は進められているのだが、その工事は、「復興の槌音が響く」などと形容できるようなものではなかったように思う。こちらの眼が「あの日」の死にいつまでも拘っているためためなのか、ある種の寂しさが纏わりついているようにも感じられたからである。

 大船渡市内の盛駅から釜石駅まで三陸鉄道に乗った。今年の4月にようやく全線復旧したとのことで、大船渡出身のガイドの方も大分嬉しそうだった。被災地にある駅名が盛(さかり)とは何とも皮肉な気もしたが、こうしたことの積み重ねが、地元の人たちを少しずつ元気にしていくのだろう。いささかクラシックな汽車に揺られながら、そうあってもらいたいと願った。この区間はかなりがトンネルで、ところどころで突然海が見える場所が現れる。そののどかさや遠望される海の眺めが何とも心地よい。

 同行の飯沼さんには車内で写真を撮ってもらった。もしかしたら、敬老精神に溢れた女人なのかもしれない(笑)。柄にもなく嬉しそうな顔をして被写体に収まってしまった。またここでは、同僚の土屋さんの奥さん(夫婦別姓のようなので、奥さんではなくつれあいとかパートナーの方がいいのかもしれないのだが)に会い挨拶した。もう年なので、大学には見知らぬ教員の方々が大勢いる。そんな御一人なのだろうとすっかり思い込んでいた。さまざまな人がさまざまな形で、「あの日」と「その後」に心を動かされていることが感じられた。

 この日は釜石に泊まった。被災地には数えきれないほど顔を出しているという大矢根さんに教えてもらって、夕飯までの時間に地元の大きな書店に顔を出してみた。震災関連コーナーを眺めて、石井光太の『震災の墓標』(徳間書店、2013年)と『遺体-震災、津波の果てに-』(新潮文庫、2014年)の2冊を購入した。『遺体』の方は、すでに2011年に刊行された単行本の文庫化であるが、未読だったので入手したのである。

 飲んだ後、経営学部の池本さんと釜石ラーメンを食べながら昔話に花を咲かせた。彼の語りっぷりのうまさもあるのだろうが、どこまでほんとうなのかは知らないが、初めて聞くような裏話を面白く拝聴させてもらった。大学というところは人間を観察するには最適な場所なのかもしれない。その後部屋に戻って『遺体』を読み始めたら、目が冴えてしまってなかなか寝つけない。当然であろう。事実の重さがずっしりとのしかかってきたからである。

 『遺体』の2011年のあとがきには、「震災後まもなく、メディアは申し合わせたかのように一斉に『復興』の狼煙(のろし)を上げはじめた。だが、現地にいる身としては、被災地にいる人々がこの数えきれないほどの死を認め、血肉化する覚悟を決めない限りそれはありえないと思っていた。復興とは家や道路や防波堤を修復して済む話ではない。人間がそこで起きた悲劇を受け入れ、それを一生十字架のように背負って生きていく決意を固めてはじめて進むものなのだ」とあった。

 そして文庫版のあとがきには、「生きたいと思いながらも歯を食いしばって亡くなっていった人々がいたこと、遺体安置所で必死になって働いて町を支えようとした人々がいたこと、そして生き残った人々が今なお遺族の心や生活を支えていること。それらを記憶することが、これからの釜石、東北の被災地、そして日本を支えるものになるはずだ」と記されていた。

 三日目は、釜石を出て大槌町や山田町を経由し、最後に宮古市の田老地区を訪れた。前回は田老まで足を延ばしてはいなかったので、現代の「万里の長城」と称された巨大防潮堤を初めて見た。基底部の最大幅が25m、海面からの高さが10m にも達するこの防潮堤の上に立つと、雨に煙る廃墟の街がすべて見下ろせる。この防潮堤が一瞬にして500メートルにわたって破られたというのであるから、どれほどの大津波だったかがわかろうというものである。宮古観光協会のガイドの方の話では、この地区だけで死者が200名にも及ぶ被害が生まれたとのことであった。立派な防潮堤の存在が仇となって油断が生まれ、その結果被害が大きくなったとの見方もあるという話だった。

 津波の襲来時に、近くの田老ホテルから撮影されたというビデオも見せてもらった。生々しい映像や画像だけであれば、インターネット上にいくらでもある。遺体の写真だって探せばすぐに出てくる。だが、パソコンの前に座って見る映像や画像には、恐怖心だけはやたらに膨らむものの死者を悼む思いが宿るわけではない。現地で話を聞きながら見る映像は、それらとは明らかに違った。そこには深い鎮魂の祈りのようなものが込められていたからである。話を終えたガイドの女性の方の目頭が、私には一瞬潤んだようにも見えたが、それは気のせいではなかっただろう。未だ癒えることのない悲しみの深さというものを改めて垣間見た気がした。

 「津波太郎(田老)」といった異名もある田老のことについては、吉村昭の『三陸海岸大津波』(文春文庫、2004年)でも幾度となく触れられている。もともとは1970年に上梓された作品だが、たしかに今読んでも古くはない。この文庫の解説で、『大津波を生きる-巨大防潮堤と田老百年のいとなみ-』の著者でもある高山文彦は書いている。「記録に徹した吉村氏の筆致の向こうから立ちのぼってくるのは、津波で死んだ人たちの声や、生き残ったとしても何も語らぬままこの世を去った人たちの声である」と。

 死者も語らないが、生き残った人たちも語らないのである。耳を澄まさなければ、死者はもちろん生者の声も聞こえない。バスでの移動の合間に、大矢根さんが被災地の現状や調査のこぼれ話のようなものを語ってくれた。場所が場所だからなのか、『遠野物語』の逸話でも聞いているような趣である。声高でもなく、感情的でもなく、高踏的でもない、何とも穏やかな語り口であった。彼もまた、きっと被災地で耳を澄ませている人間の一人なのであろう。

 この日の昼食は、観光地の浄土ヶ浜レストハウスでとったのだが、ここも「あの日」に被災し、建物の壁の二階にあたるところに津波が到達したことを示すプレートが設置されていた。食後浜辺に出ると、山際のところに「大海嘯記念」(かいしょうとは津波のことである)と銘打った大きな碑が建っていた。碑も古く碑文も漢字が多くて学のない私にはきちんと読めなかったが、昭和8年3月3日の三陸地震(この地震による死者、行方不明者は3,064名にのぼった。当時の田老村が壊滅したことで知られる)による津波を記憶しておくために、1年後の同じ日に建立されたものだった。戻ってから調べてみたら、この碑そのものが「あの日」に津波で流され、その後奇跡的に海底から発見されたのだという。土台と碑の継ぎ目が妙に新しかったのはそのためだったのだ。碑文は次のような内容だった。

 一 大地震の後には津浪が来る
 一 大地震があつたら高い所へ集れ
 一 津浪に追はれたら何處でも高い所へ
 一 遠くへ逃げては津浪に追い付かる
   常に逃げ場を用意して置け
 一 家を建てるなら津浪の来ぬ安全地帯へ

 曇天の浄土ヶ浜の海はどこまでも穏やかで、カモメが餌を求めて観光客のすぐ側までやってくるようなのんびりした場所だった。こんな海から真っ黒な海水が巨大な壁となって襲い掛かってきたとはにわかには信じられない。信じられないようなことが何度も起こったからこそ、そのことを忘れることのないように、こうした碑が三陸のいたるところに建てられているのであろう。今でも行方不明となっている人々は、もしかしたら海から西方浄土へと向かったのかもしれない。浄土ヶ浜という地名がそんなことを想起させたのか、浜辺に立って静かな海を眺めていたら、柄にもなくそんな思いが頭に浮かんだ。