盛夏の北海道アイヌ紀行(六)-シャクシャイン像を仰ぎ見て-

 前回触れた2つの施設以外にも、日高町立門別図書館郷土資料館や帯広百年記念館にも出掛けたし、9日にはビート資料館で話も聞いたし、釧路市立博物館も訪ねた。最終日の10日には、旧太平洋炭礦の炭鉱展示館にも出向いた。昔美唄で炭鉱の跡地を見た話はブログの初回で触れたが、旧太平洋炭礦の展示館では、ロビーに労働組合関連の資料が乱雑に置かれていたのが寂しさを募らせた。企業別組合であれば、会社の解散とともに労働組合も解散するのである。そう言えば、8日には帯広競馬場に併設されていた馬の資料館にも出向いたし、釧路では、旧釧路新聞社の社屋の一部を再現した港文館にも出掛けた。ここの2階はこの新聞社に勤めたことのある石川啄木の資料館になっていた。

 こんなふうにあらてめて書き出してみると、実にたくさんの博物館、資料館、展示館、記念館を巡ったものである。北海道には、長きにわたるアイヌの受難の歴史があり、そしてまた、想像を絶するような苦難に満ちた開拓の歴史があるので、先のような施設があちこちに設立されていったのであろう。こうした施設を通じて自らの歴史を知ることは、地元への愛着を生み出し自らのアイデンティティを確認することに繋がっていく、そんなふうに考えられていたのではあるまいか。こうした施設の近辺には記念碑の類いも数多くあったので、それらも眺めてきた。

 そのなかで、私が是非とも見たいと思っていたのは、アイヌの英雄シャクシャインの像である。その像は、二風谷からさほど離れていない新ひだか町の真歌(まうた)公園に静かに立っていた。隣にはイレンカ(アイヌ語で理想や希望を意味する)の塔もあった。シャクシャイン像の台座には北海道知事の、イレンカの塔の台座には新ひだか町長の名が刻まれていた。現在のシャクシャイン像は両手を挙げて静かに祈りを捧げているが、1970年に建てられた旧像は、長い棒を天に突き上げたまさにアイヌ民族の闘いを象徴するかのような像であった。ホテルにおいてあった新ひだか町の町史には、旧像の写真が掲載されていた。

 旧像の作者は竹中敏洋、新像の作者は田端功。田端が作成した著名人などの像は、全国各地に一千体余りに上るのだという。何故だか多すぎる感じがしなくもなかった。それに、シャクシャインはたんなる著名人ではない。旧像が建てられた当時、台座にあった知事の名前が削り取られるという事件が起こった。「アイヌ解放同盟」の結成に拘わり犯人の一人として逮捕された結城庄司は、自らの著書『アイヌ宣言』(三一書房、1980年)において、次のように書いている。「民族の英雄シャクシャインの子孫」としては、「侵略者の末裔の代表者」である「『町村金五』の四文字に屈辱感からくる抵抗感を感じとった」のだと。

 夏の夕暮れが迫る中、我々以外には誰もいない静かな公園でシャクシャインの像を見上げた。その後、側にあったシベチャリ(当時のこの地域の呼び名である)チャシ跡に建てられた展望台にのぼり、そこから、薄曇りの空と大地のなかをゆったりと流れる静内(しずない)川を眺めた。ホテルに戻って新ひだか町の観光案内のパンフレットを手にしたら、そこに町の博物館館長の一文があった。こちらも心に染みる美しい文章だった。紹介してみる。

 新ひだか町は松前藩の収奪に抵抗して起きた近世最大のアイヌ蜂起 「シャクシャインの戦い」の主要地です。 シャクシャイン(?~1669)は静内川下流のアイヌ集団の首長であり、政治的判断力のある老練な指導者でした。シャクシャインの戦い(1669)は静内川での漁猟をめぐる上流と下流のアイヌが集団間の争いが、和人や松前藩に対する蜂起へと発展したもので、背景には交易における不等価交換の押しつけや漁業権の侵害など、アイヌに対する和人や松前藩の横暴がありました。シャクシャインの呼びかけにこたえて、東は白糠町、西は増毛町に至るアイヌ約2千人が蜂起し、300人以上ともいわれる数の和人が襲撃されました。アイヌ勢は長万部町まで迫りましたが松前藩の反撃にあい後退し、戦いは新冠町での和睦の席で、シャクシャインが松前藩に謀殺され、そして、シャクシャインの砦も焼き払われて、終息しました。

 真歌公園内にはシャクシャインが拠ったと考えられるチャシ跡があり、それは「シベチャリチャシ跡」の名称で国の史跡に指定されています。チャシとは砦、館、柵囲いを意味するアイヌ語です。チャシ跡とは空壕と柵列をもって外部と遮断する戦闘用の砦としての要素を持つ遺跡で、その多くは16世紀から18世紀の間に築かれました。(中略)史跡シベチャリチャシ跡の魅力は堅固な造りと見晴らしの良さです。現在、現地で確認できるのは1本の空壕だけなので、その堅固な造りを体感することはできませんが、見晴らしの良さはシャクシャインらが生きた時代から変わってはいないでしょう。

 史跡シベチャリチャシ跡内には「真歌公園展望台」があり、そこからは太平洋や日高山脈を見渡すことができます。展望台に立つと、シャクシャインら静内川下流のアイヌ集団が静内川上流のアイヌ集団や、太平洋の彼方 「和人地」の松前藩と対峙できたのは、眺望絶佳の丘上に拠点を築いたからなのだと得心がいきます。また、季節や天候の違いで、太平洋や静内川の色が単に青いわけではないことにハッとさせられます。うすい青緑、緑みのうすい青、緑みの鮮やかな青、鮮やかな青、さえた青紫、まさに色々です。シャクシャインが見た青はどんな色調だったのか。対立関係にあったアイヌ集団を打ち負かした時に見た青、現・長万部町侵攻の時に見た青、和睦のためチャシを離れる時に見た青。私は到底わかりはしない、シャクシャインの心の内を推し量りながら太平洋と静内川が見せる表情豊かな青を楽しんでいます。

 松前城の外の片隅には、シャクシャインの戦いで亡くなったアイヌの人々の「耳塚」があるという。平山裕人の『シャクシャインの戦い』(寿郎社、2016年)にはその写真が紹介されており、掲示板には次のような文章が記されていた。「松前藩の過酷なアイヌ民族支配強化に対し、アイヌの人々が団結して抵抗を示したのが、寛文九年(1669)のシャクシャインの戦いでした。はじめはアイヌ側優位で戦いは経過しましたが、松前藩は幕府や津軽藩の援助を得て新冠まで陣を進め、シャクシャインたちをだまし討ちにして戦いは終結しました。この時、シャクシャインらの首の代わりに耳を持ち帰り、埋めたところを耳塚と呼んでおります」。

 シャクシャインがシブチャリで佐藤権左衛門の「きたなき仕形」によって謀殺されたのは、1669年11月16日、彼が64歳の時である。この叛乱の意義に関して、平山は次のように述べている。「18世紀前半に、商場を請け負った商人が交易するようになっても、(中略)18世紀末からは商人がアイヌを使役するようになっても、さらには和人が漁場労働のためアイヌを使役するようになっても、一年の一定時期が過ぎると和人は戻るという仕組みは続けられた」のであり、アイヌモシリに居住するのはアイヌのみの状況を作ったのが、シャクシャインの戦いだったのだと。そして、「『アイヌモシリはアイヌのもの』、この形は近代以前まで固く維持されてきた」のだと言うのである。