様々な出会い、様々な人生(下)

  最初は1回で終わらせる予定だったのに、書き始めるとテーマがテーマなので、勝手に筆が進んでいく。それほど大事でもない話だと饒舌になるのは、いつものことである。とうとう3回になってしまった。今回が最終回である。この間、これまで記してきた所以外にもあちこちに顔を出した。田舎の福島で、しばらく前に亡くなったKを偲ぶ会があった。せっかくの機会だからと、少しは世話もやいたうえで新幹線に乗って出向いてみたのだが、もはや偲ぶ会と呼ぶにはほど遠い集まりとなっていた。

 亡くなってすぐに集まることができれば恐らく偲ぶ会らしくなったような気もするが、大分時間がたった今となってはもはやただの飲み会である。去る者は日々に疎しということか。もしかしたらKもそれでいいと思っているのかもしれない。この私には、Kに対する個人的なこだわりもあるものだからきちんと結末をつけたかったのだが、それも叶わぬ夢に終わった。今更ではあるが、世の中思うようにはいかないものである。

 その日は弟の家に泊めてもらって、墓じまいを初めとしてこれからのことに関してもあれこれと話した。朝起きて家の周りを散歩したが、田圃の先には深緑の吾妻連峰が美しく聳えていた。わずかに残雪も見えた。いつ来ても変わらない山々を見ると、何とも落ち着いた気持ちになる。福島からの帰りに友人のHの車に乗せてもらって、最近購入したという白河近くの別荘に連れて行ってもらった。もしかしたら、Hは私に見せて感心してもらいたかったのかもしれない。周りの景観は素晴らしかったから、褒めることは褒めた。ただし、部屋にものが多すぎることが、別荘の美観を損ねているような気がしないでもなかったのだが。

 本心を言えば、70代の半ばも過ぎてから別荘などを購入していったいどうするつもりなのかとも思ったが、老後の備えなど歯牙にもかけないようなそんな大胆な振る舞いが、Hが高齢期を元気に生き抜くためには不可欠だったのかもしれない。山の中の別荘暮らしは大変ではないかとも思ったが、最近はネットで注文すれば家まで配達してくれるので心配はないとのこと。別荘はともかくとして、近くにあったブリティッシュヒルズはなかなか見応えがあった。広大な敷地に中世のイギリスの村が再現されており、慎みやたしなみや落ち着きが感じられた。余計なものが何もないのがいいのである。現代の日本にはすっかり失われてしまった光景であった。

 他には大学時代の友人たちとの会合もあった。久しぶりにこうした場に顔を出した友人のI は、純真だった若き日の自分が、誤った左翼思想に「洗脳」されていたのだと語っていた。同じような趣旨の意見は、もう一人のJ からも聞かれた。俗に言う歴史修正主義の主張のようであった。さらに先のI は、反ワクチンの思想にも共鳴しているようで、ワクチン接種の誤りについても熱弁を振るっていた。そして、今関心があるのは「熱量」がすごい参政党だとのことだった。

 あまりにも自信たっぷりな物言いに、いつものように違和感を感じないではなかったが。そんなふうにして、左翼の「洗脳」を問題視する人間が一気に反転しているわけだが、こうしたブレの大きな振る舞いに至るルーツも、もしかしたらI やJ の若き日に既に胚胎していたのかもしれない。何が問題なのか。私に言わせれば、あまりにも自信たっぷりなところである。これは、自分にも常日頃言い聞かせている台詞ではあるのだが。人間真っ当に生きるためには、慎みや節度といったものが必要である。セクハラおやじやエロぼけじじいのような存在も、これまできっと自信たっぷりに生きてきた人種に違いなかろう。

 騙されたという人はすぐにまた別な思想に騙されるような気がしないでもなかったが、それもまたI やJが自らの責任で選び取った人生である。この私は、「日本人ファースト」や「日本ファースト」などと溢れんばかりの熱量で主張する人間を、とても信用する気になれない。あまりにもみっともなさすぎる。そんな排外主義丸出しの人間は、そのうち国家ファーストだの天皇ファーストだのと言いだすはずである(ついでに自分ファーストなどとも)。それぐらいなら、「セクハラおやじファースト」だの「エロぼけじじいファースト」だのと叫んでいる方がまだ可愛げがあるというもの。「バカ老人」ファーストなどでもいいのかもしれない。

 そんなこんなで6月も過ぎ、今日は7月7日七夕である。喜寿を過ぎるところまで生きてくると、人はいつ亡くなってもおかしくはないと思えるようになる。だからなのか、会える時に会っておこうという気になり、せっせと足繁くいろんな集まりに顔を出そうとするのであろう。私もそんな一人に過ぎないので、この機会にたくさんの人と会ったというわけである。しかしながら、そうやってあっちこっちに顔を出しているうちに、そんな身の処し方が自分にとってどれほどの意味があるのか徐々に分からなくなってきた。人生に深い意味を求め続けることに対する懐疑とでも言えばいいのか。

 落ち着いた静かな暮らしを続けるなかで、自分なりのささやかな愉しみを見つけることができたなら、そしてまた、気心の知れた人たちとたまに会うことができて楽しく雑談でもできたなら、もうそれで十分ではないか。他に何が欲しいというのか。もうあまりあくせくしたくはない。大事なのは、若竹千佐子の本のタイトルのように、「おらおらでひとりいぐも」(河出文庫、2020年)の境地なのだろう。ありのままの自分を素直に受け入れ、それを大事にして残りの人生を生き抜いてみたい。

 自分が「バカ老人」の予備軍であることに気付き、そしてまた世の中には「バカ老人」およびその予備軍がうじゃうじゃといることに気付いたからには、最後まで「バカ老人」のなかで「バカ老人」のままに生きていくしかなかろう。よく、バカの一つ覚えとも、バカにつける薬はないとも、そしてまたバカは死ななきゃ治らないとも言うではないか。まさにその通りである。