夕映えの暮らしから

 本来であれば、「浅春の山陰紀行」の(六)として松江の話の続きを書かなければならないところなのだが、何だか一休みしたくなった。そんな時もある。暫時休憩といったところか。今日は月も改まって5月1日。このところ少し汗ばむほどの気持ちの良い天気が続いている。イギリスの諺に「三月の風と四月の雨が美しき五月をつくる」というものがあるとのことだが、まさにそれを地で行くような5月の幕開けである。仕事部屋から眺めると木々の緑が目に眩しく映る。この季節になると、よく知られた山口素堂(やまぐち・そどう)の句、「目に青葉山ホトトギス初鰹」がいつも思い出される。視覚と聴覚そして味覚、つまり我が身の全身によって美しき5月を的確に捉えているからだろう。作者の浮き浮きした気分も伝わる。

 昨日の夜に、職場の元同僚だった友人たちと会食する機会があった。季節の変わり目ごとに同じ場所に集まっているので、言ってみればごく少人数の同窓会のようなものである。気心の知れた友人たちと旨いものを食べ酒を飲みながら雑談を交わす、これほど楽しいことはそうはない。こんな集まりが長年続いているところをみると、妙に4人の馬が合うのである。馬が合うとは面白い言い方である。馬とその乗り手の息が合わないとうまく乗れないところから、こんな表現が生まれたに違いなかろう。時には馬になりまた時には乗り手になる、その役割分担が固定化されていない、言い換えれば勝手放題に言葉が飛び交うのがいいのかもしれない。

 オペラ鑑賞を始め音楽への造詣が深く、それに加えて旅行と見仏をも趣味としているKさんは、桜を観に京都に出掛けたり、兵庫県小野市の浄土寺にある快慶作の阿弥陀如来像を観てきたとのことだった。何ともハイブラウな趣味である。夫婦で出掛けるのだから、傍目には充実した老後の暮らしを続けているように思われた。Fさんはまだ研究者として頑張っており、つい最近も求められてある雑誌に一文を寄稿したとのことだった。今でも社会的なニーズがあるとは大したものである。山陰の旅行中に彼から別な論文の抜き刷りをもらったが、なかなか興味深い論考で勉強になった。根を詰めて書いていたのも影響したのか、体調を崩しかけたとのことであった。もう元気を取り戻したようだ。

 Hさんはまだ別の大学で教鞭(しかしそれにしても鞭とは驚く)をとっており、月に2回ほど3泊4日で青森にある大学に出掛けているとのことだった。こちらは未だ現役バリバリであり、4人のなかでもっとも年若いこともあって一番元気である。月に2回の出張はある種の気分転換になっているようだが、それなりの負担はあるとのこと。昔から付き合いの範囲は広かったが、今でも変わらないようで、相変わらずの人気者である。

 HさんとFさんそれに私は、この春に人文科学研究所の調査旅行でともに山陰に出掛けたこともあって、その話で場は盛り上がった。いろいろなものを見たり珍しい体験をしたから語りたくなったのである。個人旅行では行かないような所に行くことができる、そこに調査旅行の醍醐味があるような気がする。この夏は岩手と青森に出かける予定だとのこと。訪問先をHさんに尋ねていたら、何だか急にわくわくしてきた。今から楽しみである。今更言うまでもないが、旅行は出掛ける前が一番楽しい。

 ついでに私の近況ということで、正月明けからジムに通い始めたことや、今住んでいるところを終の棲家とするために、最後のリホームと断捨離に勤しんでいることなどを話した。皮肉屋のHさんからは、「わざわざそんなところに行かなくても身体は鍛えられる」し、「鍛えすぎて死んだら元も子もない」などと言われた。「健康のためなら死んでもいい」などというブラックジョークがあるが、そうならないように気を付けねばなるまい。

 この間着々とリホームが進み、明日は新しい畳が到着する。今時の畳は現代風にアレンジすることが可能なので、縁なしで色もグレージュなどといった洒落た色にしてみた。い草で作る伝統的な畳ではないので、日焼けもしないし汚れたら拭けばすぐに綺麗になるとのこと。剥がれた障子も補修したから、これで8畳の和室の雰囲気は一新されるに違いない。、大分年月の経った和室が新しい部屋に変わるのが待ち遠しい。

 あと残っているのは、クローゼットの張り替えとインターネットの回線を光回線に変えることだけである。もうすぐ工事の日時も決まることだろう。この機会に改めて断捨離をし直そうと思い、あたりを見回してみた。今回は自分の持ち物や部屋の飾り物だけではなく、家自体の断捨離もしてすっきりさせた。浴室や台所や玄関にもともとしつらえてあったものでも、使用していないものはすべて取り外した。改めて点検してみるとあれこれ発見できるものである。

 ここまで徹底してやったので、もうやり残しているところはどこもない。周りには自分が好むものしかない。些か俗っぽく言えば、これが私の終活ということになるのだろう。自分なりの美意識で整えられた住処を前に、いよいよ最期を迎える覚悟が定まったと言うべきか。あとは素堂の心境で、身の丈に合った暮らしを全身で味わいながら、人生の坂をゆっくりと降りていくだけである。