浅春の山陰紀行(八)-水木しげる記念館にて-

 今回の調査旅行の最終日となる4日目に、水木しげる記念館に出掛けた。ホテルを出て大根島、江島と過ぎると鳥取県に入り、その外れに位置する境港はすぐ側である。境港は漫画家水木しげるの出身地であり、水木漫画の原点ともなった場所である。水木しげる記念館はそこにある。途中通り過ぎた大根島であるが、私は当然のようにおおね島と呼ぶのだろうとばかり思っていた。そうしたらだいこん島だという。何とも不思議な気がしたので調べてみたら、曰く因縁があるようだった。

 調べてみると、蜛蝫(たこ)島」から「太根」、更に「大根」へと変化していったとのこと。こうして「蜛蝫島」が「だいこん島」となったのだという。「蜛蝫島」については、「出雲風土記」にも記載されているらしい。出雲郡の杵築御崎(きづきのみさき)に1匹の「たこ」がいた。そこへ一羽の天羽々鷲(あめのはばわしと読み、羽の広い大鷲のこと)が来てその「たこ」を捕らえ、飛んできてこの島に留まった。それで「蜛蝫(たこ)島」とよばれるようになったというのである。地名の由来が「出雲風土記」まで遡るとは、さすが神話の国出雲らしい。

 由来に関しては別な説もあるようだ。この島では松江藩の財政を支えるために高麗人参が栽培されていた。雲州人参と呼ばれた高級品である。この人参の栽培には時間が掛かって大変だったために、土地が肥沃だった大根島でのみ栽培されることになったようである。門外不出の産品であったために、島で栽培されていることを隠すために、人参島を大根島と呼ぶようになったのだという。聞いている方にとってはわかりやすくて面白い話なのだが、まあ俗説の類いであろう。

 当初私は水木しげる記念館を訪ねることにそれほど期待していたわけではない。ゲゲゲの鬼太郎にも妖怪にも、NHKの朝ドラ『ゲゲゲの女房』にもまったく興味や関心がなかったからである。だから、わざわざブログに取り上げるまでもないかと思っていた。ただ彼が、ラバウルのあったニューブリテン島(ニューギニア島の東側に位置する)での戦闘に参加し、幾度となく命を落としかけた挙げ句に玉砕攻撃で左腕を失ったことだけは知っていた。彼の戦争漫画の傑作『総員玉砕せよ!』(講談社文庫、1995年)を読んでいたからである。彼は、凄惨な戦場の体験者であり奇跡の生還者であった。当の水木からすれば、「凄惨」も「奇跡」も何とも陳腐な表現にしか映らないのであろうが…。

 そんなわけだから、彼の戦場体験には興味はあったが、そうしたことに関して、水木しげる記念館の展示において詳しく触れられていることはなかろうと思い込んでいた。観光客を呼び込むための町おこしの施設に、暗い戦争の話などは似合わない、そんなふうに施設の側が考えているような気がしたからである。だが、思い込みほど危険なものはない。展示を眺めていて、私の勝手な思い込みが裏切られたことに気付いた。

 六つのエリアに分かれた常設展では、境港のしげる少年、水木しげると戦争、そして漫画家に、水木しげるの漫画ワールド、水木しげるが描いた妖怪たち、水木しげるの言葉がそれぞれかなり丁寧に紹介されており、なかなかの見応えであった。水木しげると戦争のコーナーには、『総員玉砕せよ!』も当然ながら登場しており、そこには次のような解説文があった。

 1943(昭和18)年 末、 パプアニューギニアのニューブリテン島では、前線となるバイエンの拠点を死守するため、田所支隊長率いるバイエン支隊が玉砕を決行した。 だが、無謀ともいえる作戦の中で数十人の将兵が生き残った。それを問題視した師団司令部は、彼らを”生きていてはいけない者”として、将校には自決を強要し、 兵たちには再度の玉砕命令を下すのだった.

 この解説文に加えて『総員玉砕せよ!』のあとがきの一文や言葉や漫画の最終場面のコマも紹介されていた。「ぼくは戦記物をかくとわけの分からない怒りがこみあげてきて仕方がない」、「戦争を賛美するのは戦地に行かない人間ですよ」、「ああ みんなこんな気持ちで死んで行ったんだなあ 誰にみられることもなく 誰に語ることもできず…ただわすれ去られるだけ…」。漫画を読んでみるとわかるが、その後には斃れた兵士の夥しい死体の山、それが忘れ去られ風化して遺骨の山へと変わっていくところまでが、無音の世界として描かれている。息を呑むしかない何とも無惨な戦場の姿である。

 水木のことをよく知り、水木に関する著作もある足立倫行(あだち・のりゆき)は、記念館のカタログにおいて「水木さんと戦争」というタイトルで、次のようなことを書いている。「水木さんは生来、朗らかでのんきな人間だった。ところが戦争で首根っこを掴まれ、イヤというほど『地獄』を味わわされた。この戦争体験がなければ、墓場から蘇る鬼太郎のようなキャラクターは生まれない。もっともらしい価値観をあざ笑い、徹頭徹尾自分本位に活動するねずみ男も創造し得ない」。私は鬼太郎もねずみ男も知らない人間なので偉そうに言う気など毛頭ないが、何とも鋭い指摘なのではあるまいか。

 境港は鳥取県の弓ヶ浜半島の北端に位置し、古くから天然の良港として知られている。江戸から明治にかけては北前船の寄港地となり、交通の要衝として賑わった。その後は豊かな海洋資源に恵まれた漁業の町として発展し、また、日本海側の物流の拠点ともなってきた。今この境港は、水木しげるロードや水木しげる記念館が完成して以降、海運と漁業の町から”さかなと鬼太郎のまち”へと変身し、新たな観光スポットとして注目を集めるに至っているようだ。

 われわれも、記念館への行き帰りに水木しげるロードを歩いた。道の両側には、さまざまな妖怪たちのブロンズ像が置かれていた。そうした妖怪たちもさることながら、私が強く惹かれたのは、このロードの両側に並んだ数々の旧い店の佇まいである。アーケードにも看板にも店の内部にも昭和の匂いが存分に漂っていた。昔懐かしい駄菓子屋まであった。そんな場所には妖怪たちが似合っていた。

 鳥取も島根もともに人口の少ない県として知られている。であればこそ、町おこしに力が入るのは当然であろう。今回の調査旅行では、初日に石見銀山のある大森町の古い街並みを歩き、世界遺産を活用した町おこしの一つの姿を知った。そして最終日。境港では著名な漫画家の遺産を活用した町おこしのもう一つの姿を知った。どんな遺産であれ遺産が意味のあるものとなるためには、相続人たちの遺産に対する深い敬意や愛着が求められるに違いなかろう。