様々な出会い、様々な人生(上)

 今日はもう六月の半ば、昼の時間がもっとも長くなる夏至ももうすぐである。先日たまたまやむを得ない事情で徹夜することになった。やむを得ない事情などと書くと、一体何があったのか知りたくなるのが人情というものであろうが、恥ずかしくて書くに書けない。その言い種を真似れば、泣くに泣けない、怒るに怒れない、笑うに笑えない出来事であった。徹夜をするのはずいぶんと久しぶりのことである。

 夜に小雨が降ったようだが朝には雨もすっかり上がり、うっすらと靄(もや)のかかった川面の先に昇り始めた朝日が煌めいていた。私が眺めたのは、林の先に高層マンションが立ち並ぶごくごく日常の光景なのだが、靄が立ち込めていたので目にはひどく幻想的な光景に映った。もしかしたら、徹夜したことによる心身の疲れも影響していたかもしれない。いつもなら鞄に放り込んであるはずのカメラを忘れてしまったので、スマホで何枚か撮ってみた。道端に咲いていた紫陽花も、雨上がりだからかじつに艶やかに見えた。こちらもスマホで撮った。晩景もいいものだが、これからは朝早く起きて朝景や早景も撮ってみたくなった。

 その後自転車で川沿いの道を走り、近くの公園でコンビニで買ったサンドイッチと缶コーヒーで朝食を摂り、ついでに疲れた身体をベンチに横たえた。そしてぼんやりと自分の人生を思った。コンビニがこんなに早くから店を開いていることも知らなかった。朝早いというのに、公園ではすでに何人もの人が犬と戯れていた。犬も朝露に濡れた芝生を思い切り駆け回ることができて、なんだかとても嬉しそうに見えた。幸せな犬の人生(犬世か)である。犬を連れた人が私の側を通った際に、ひとりでに朝の挨拶が口から出た。何ともすがすがしい朝だったからだろう。グリーグの「朝」やエルガーの「愛の挨拶」を思い出した。

 前日には新宿で飲み会があり、いつものようにAさんと四方山話をした。こう書いたが、実態は私がAさんの話を聞いたと書くべきだろう。もう店を出ようとする頃になってから、男女関係にまつわる興味深い話が始まり、俗物のこの私はついつい聞き入ってしまった。彼も聞いてもらいたかったから話したに違いなかろう。その話について深入りするのは、差し障りがありそうなのでやめておく。不思議な人生があればあるものである。思い返せば、何の変哲もないように傍目に見えてはいても、人は人それぞれに固有の人生を送っているのであり、そのこと自体が不思議だと言うべきなのかもしれない。Aさんにはそんな不思議な人生を全うしてもらうしかなかろう。できうれば、この先誰に語ることもなく…。

 徹夜明けのその日には、昔の研究会仲間の会合が昼に神田であった。美味い中華料理を味わいながらビールを一杯飲んだだけなのだが、久しぶりに顔を合わせたこともあって懐かしかった。今回集まったのは主催者のBさんを含めて6人であり、いつもより小ぶりな集まりだった。Bさんが元気なうちは続くのであろうが、もう小振りが常態となるのかもしれない。北海道在住のCさんは直前まで参加すると言っていたが、無理がたたって足が痛み出したために、参加を断念せざるをえなかったとのことだった。次回は元気に顔を出してもらいたいものだが、もしかしたらもう遠出するのは厳しいのかもしれない。昔つれあいを亡くしたCさんは、男手ひとつでの子育てに大分苦労したようだ。そんな話が、彼の著作のあとがきに紹介してあったが、それもまた紛れもなくCさんの人生であるに違いない。

 この日の神田での集まりの少し前に、北海道で活躍していたDさんを偲ぶ会がもたれた。彼と長い付き合いのあった研究会仲間のEさんが、札幌まで出掛けてきたので、その話を聞いた。あまりにも突然に亡くなったDさんは、若い頃学生運動で名を馳せた人であり、Eさんの話によれば、彼の顔立ちの良さや弁舌の爽やかさもあって女子学生のファンも多かったようだ。そしてそのファンの一人と結婚したとのことだった。しばらく前に東京での暮らしを切り上げて札幌に転居したので、彼の地での落ち着いた老後の暮らしを夢見ていたに違いなかろう。だが、そんな暮らしは長くは続かなかった。最愛のつれあいが亡くなったからである。そして今回、一人暮らしを続けていた彼も亡くなった。こちらも数奇な人生である。

 神田に早く着きすぎたので、開始時間近くまで神保町界隈を散策した。昔懐かしい場所なのであれこれ眺めながら歩いていたら、一軒の古本屋が目にとまった。歩道脇には新書本や文庫本がびっしりと並べられ、2冊100円だとのこと。あまりに安いので、勢古浩爾(せこ・こうじ)の『まれに見るバカ』(洋泉社、2002年)と『こういう男になりたい』(ちくま新書、2000年)を買った。彼はバカに関する本をバカに多く出している人だが、並のバカとはちょっと違う。それがバカ受けしている所以であろうか。あるいはまた、バカとは俺のことかと不安に思うような人が多いから、売れているのかもしれない。

 店のなかにも掘り出しものがあるかもしれないと思い、入ってみた。そうしたら、なかはいわゆるエロ本と呼ばれる成人雑誌やアダルトビデオだらけだったので、びっくりした。客が店内に入りやすいように一工夫されていたということか。さらに驚いたのは、ちらほらといた客のほとんどが私のような高齢者とおぼしき人々だったことである。若い女性の裸の写真を年寄りが眺めている光景を、できたらカメラに収めてみたかったが、それは無理というものだろう。店主が年寄りのインテリのように見えたのも何だか妙だった。

 客が年寄りだけだったのは、当然だったかもしれない。よくよく考えてみれば、このインターネットの時代に若い男たちがわざわざエロ本屋に顔を出すはずもなかろう。若い時であればこの私も雑誌を手にとって広げたはずだが、今となってはその元気すらない。店にいた高齢者の面々は性欲だけはしっかりと残っているようだが、こうしたところにたむろする彼らの人生は、果たしてどんなものだったのであろうか。今更ではあるが、残された人生に幸多かれと勝手に祈るばかりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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