早春の調査旅行へ(中)

 前回紹介したように、2月末の社会科学研究所の調査旅行から2週間ほど後の3月半ばには、今度は人文科学研究所の調査旅行で長野に出掛ける予定である。もらった案内には、南信州総合研究調査と銘打たれて、調査地は記されていたものの、総合研究調査のテーマは特に明らかにはされていない。そこにはこんなふうに書かれていた。「茅野駅からアルピコ交通の貸切バスを使い、長野県を南下し阿智(あち)村・馬籠(まごめ)方面までをめぐる調査になります。茅野駅で解散する2泊3日の旅程となります。なお、天候により調査地を一部変更する可能性があります」。

 何とも素っ気ない書きっぷりではあるが、そこには人文科学研究所であるが故の特殊な事情も潜んでいるに違いない。所員の問題関心は実に幅広いので、特定のテーマに絞りにくいのであろう。そうなると、地域のみを限定してそこに多種多様な内容の訪問・見学先が盛り込まれることになる。研究テーマは、調査旅行に参加した人々が、自身で見付けて欲しいということなのであろう。自由にテーマを設定できるのはありがたいことだが、自分なりの問題関心を持たなければ物見遊山になりかねない危険もある。そんな心配があったから、事前にあれこれと準備したくなったに違いなかろう。準備した内容については後で触れる。

 旅程を簡単に紹介してみる。集合場所は中央線の茅野駅である。駅に10時頃に集合なので、自宅をかなり早く出ないと間に合わない。その後、菅の台バスセンターまで行き、そこで路線バスに乗り換えて、駒ヶ根ロープウエイに搭乗し、ようやく駒ヶ根高原に着く。そこで千畳敷カールの下部を観察するとのこと。私は、千畳敷カールの写真だけは見たことがあるものの行ったことはないので、どんなところなのか興味が沸く。人気の観光地だということだから、きっと写真の撮影ポイントもたくさんあることだろう。

 その後元善光寺(もとぜんこうじ)に向かい、見学の後飯田市で宿泊するとのこと。善光寺は知っているし出掛けたこともあるが、元善光寺は初めて聞く寺の名だった。調べてみると、飯田市にある元善光寺は、「長野市の善光寺のご本尊が最初に祀られたとされる歴史ある寺院です。約1400年前、本多善光公が難波で拾った『一光三尊阿弥陀如来』を故郷の飯田(麻績(おみ)の里)に持ち帰り祀ったのが始まりで、後に本尊が長野市に移された後も、寺は元善光寺としてこの地に残り、『善光寺』の元(もと)となるお寺として親しまれています」とあった。

 しかしながら、今度は「一光三尊阿弥陀如来」(いっこうさんぞんあみだにょらい)」とは何なのかよく分からない。こちらも調べてみると、一つの光背(こうはい、仏像の後ろにつける光明をかたどった装飾のこと)の中に阿弥陀如来(中央)、観音菩薩(向かって右)、勢至(せいし)菩薩(向かって左)の三尊が並ぶ形式の仏像のことで、特に長野の善光寺の絶対秘仏本尊として有名で、「善光寺式阿弥陀三尊像」とも呼ばれるとのこと。日本に仏教が伝来した際に渡来したとされ、日本最古の仏像とも伝えられており、普段は秘仏で御開帳の際にのみ拝観が許されるのだという。

 善光寺が本多善光の名に由来すること、元善光寺の元が本家本元の元であることなども、今回初めて知った。最初に元善光寺にあった善光寺の本尊は、絶対秘仏だということだからこれまでもそしてこれからも公開されることはないのだという。代わって、7年に一度公開されるのは本尊の身代わりとされる前立(まえだち)本尊である。しかしながら、絶対秘仏であると称して寺の権威を高めていることにも、身代わりの前立本尊をありがたがって拝むことにもまったく無関心な私にとっては、まあどうでもいい話ではあるのだが…。

 2日目は、飯田市立動物園や飯田市川本喜八郎人形美術館を回った後に、天竜峡の散策が予定されている。天竜峡もよく知られた観光スポットのようだから、ここでもいい写真が撮れるかもしれない。気になったのは、飯田市川本喜八郎人形美術館である。何故飯田市のような地方都市に人形美術館のようなものがあるのか、川本喜八郎とはどんな人物なのか、その辺りが何も分からなかったからである。

 この美術館の由来を調べてみると、人形アニメーション監督であった川本喜八郎がNHKで放映された『人形劇 三国志』の人形美術を担当した際に製作した人形を主に、川本に関する多くの貴重な作品を展示しているとのこと。川本は1990年に、飯田市で毎年開催される人形劇カーニバル飯田(現在のいいだ人形劇フェスタ)での『人形劇 三国志』公演のために、初めて飯田市を訪れている。その後も度々飯田を訪れ、古くから人形芝居を継承する人形劇のまちである飯田、そしてまた人々の人形に対する情熱に感銘を受けたという。そして「人形たちに一番ふさわしい場所」として、『人形劇 三国志』『人形歴史スペクタクル 平家物語』などに使われた人形を飯田市に寄贈するのである。飯田市は「人形劇のまち」として人形劇文化のさらなる振興、交流のための新たな拠点として、当館を建設。川本が館長に就任し、2007年にオープンしたのだという。

 では何故飯田が、古くから人形芝居を継承する人形劇のまちとして知られていたのであろうか。飯田は、京と江戸の真ん中に位置することから、西日本と東日本の両様の文化が流れ込む山間部の交通の要衝だった。この地域に人形浄瑠璃が伝わったのは江戸時代の初期で、名古屋から来た一座が興行を行い好評を博したという。江戸時代の中期になると京都や大坂を中心に上方で隆盛を極めていた人形浄瑠璃は、野郎歌舞伎の台頭により勢いを失ったようだ。その結果、浄瑠璃の人形遣いたちは活躍の舞台を日本各地に求め、諸国に散っていったらしい。

 天明年間には人形芝居興行の免状を持つ吉田重三郎が下黒田村に来住し、村人に人形芝居を教えた。1808(文化5)年には森川千賀蔵が河野村の村人に『道薫坊伝記』を譲渡し、1832(天保3)年には大坂出身の桐竹門三郎が下黒田村に来住した。伊那谷での人形浄瑠璃は、庶民から熱狂的に迎えられたという。天保の改革では人形浄瑠璃の上演が禁止される一方で、一時的に江戸所払いとなった七代目市川團十郎が、飯田の川路村で1839(天保10)年に歌舞伎の旅公演を行っている。明治以降は集会条例等によって苦難の時代が続いたものの、300年のあいだ黒田人形、今田人形、早稲田人形、古田人形の四座が伊那谷の人形芝居の歴史を今に伝えているとのこと。

 ここに登場する『道薫坊伝記』とは、淡路人形浄瑠璃の起源と歴史を記した伝承のことである。伝統芸能に関してもともと疎い私には、今ひとつピンとこないところも多々あるが、飯田の人形芝居が長い歴史を持っていることだけはよく分かった。当時楽しみが少なかった飯田の村人たちは、人形芝居を愉しみにし熱狂もしたのであろう。飯田市からさほど離れていないところに大鹿村があり、そこを舞台にして『大鹿村騒動記』(2011年、監督・阪本順治) という映画が作られている。未見だったので、これもこの機会に眺めてみることにした。

 この映画は大鹿歌舞伎を巡る悲喜劇を描いているのだが、飯田の人形浄瑠璃といい大鹿の大鹿歌舞伎といい、信州の片田舎のようなところにこうしたものが残っていることが不思議と言えば不思議である。大鹿歌舞伎について簡単に紹介しておくと、大鹿村に約300年伝わる村人による地芝居(農村歌舞伎)で、国の重要無形民俗文化財に指定されており、衣裳・舞台・演技・裏方まで全て村人自身で行うのが特徴だという。そう言えば、生まれ故郷の福島の会津にも、江戸時代から伝わる田島子供歌舞伎というものがあったことを思いだした。これも重要無形民俗文化財に指定されている。 

 2日目の午後は、阿智(あち)村の駒場にある満蒙開拓平和記念館を訪ね、その後長野と岐阜の県境にある馬籠宿に向かうことになっている。この二カ所、とりわけ満蒙開拓平和記念館は今回の調査旅行で私が最も関心を寄せているところであり、次回に詳しく触れるつもりである。できたら何かを書きたいと思っているので、記念館のホームページを眺めて、事前に購入可能な資料をすべて取り寄せておいた。現地で購入して持ち帰るぐらいなら、事前に送ってもらった方が荷物にならなくて助かるからである。

 3日目に訪ねるところは、大鹿村中央構造線博物館と茅野市八ヶ岳総合博物館、それにたてしな自由農園の三カ所である。これらの訪問先に関しては私の興味は薄いので、ここで取り立てて触れるつもりはない。少し気になったのは茅野市八ヶ岳総合博物館のみである。ホームページによると、「八ヶ岳の裾野の自然と、そこに生きる人々の歴史・産業・民俗などを総合的に展示する博物館」だとのことだが、私が注目したのはそこではない。「一階にある八ヶ嶽岳麓(がくろく)文芸館には、昔に学び、文芸を尊び、今につながる館として、この郷土(岳麓)に関わるものを中心に、今昔の歌人、俳人、文人たちの文芸資料を展示」しているとあったので、そこだけが気になったのである。はたして、どんな資料が展示されているのであろうか。昔八ヶ岳を遠望した写真を撮ったことがあったが、そんなことをふと思い出した。

 

 

 

  

 

 

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