早春の和歌山、奈良紀行(一)ー醤油の町湯浅にてー
社会科学研究所の調査旅行で和歌山と奈良に出掛けたのは先月2月の末だから、はや1ヶ月近くが経つ。そろそろ旅日記を書き始めなければと思うのだが、なかなか取り掛かる気になれない。体調が今ひとつと言うわけでもないのに、どうにも気力が湧いてこない。何故なのだろう。例え雑文の類いであろうとも、書こうとするものの全体像が見えてこないとなかなか書き始められないものである。その全体像がなかなか見えてこないので、書き始めようとは思うもののいつまで経っても筆が進まない。この調子では、ずるずると時間が過ぎゆくばかりのように想われたので、やむなく全体像がクリアにならないままに筆を執ることにした。
今回の調査旅行で訪問したのは、和歌山県にある醤油の町湯浅、蜜柑の町有田、繊維の町高野口、そして奈良である。湯浅と有田は県の西部の海岸沿いに位置しており、現在は橋本市に属している高野口は県の東部にあり、近くを紀ノ川が流れている。そこで、訪問先ごとに見聞きし感じたことを気儘に綴っていくことにした。かなり安直な旅日記になりそうだが、先のような事情なのでそれもやむを得ない。まずは醤油の町湯浅である。湯浅という町の歴史について簡単に触れておく。現地で手にしたパンフレットによると、湯浅は京の都から熊野参詣にきた人々の宿所となっていたようで、平安時代の末期あたりから当時勢力を誇った土豪の湯浅氏の本拠地として栄えたとのこと。
中世に入り、熊野信仰が武士や庶民の間にも広まると「蟻の熊野詣」と称されるほど多くの人々が熊野三山(本宮大社、速玉大社、那智大社の3つの神社の総称である)へ赴くようになる。「蟻の熊野詣」とは何とも面白い表現ではないか。霊験あらたかなる三山に大勢の人々が押しかけたのであろう。だが地図を見ると、湯浅と熊野三山との間の距離は大分ある。こんなに離れたところに湯浅からどうやって出掛けたのであろうか。ちょっと不思議な気がしたので調べてみた。
そうしたら、大阪と熊野を結ぶ紀伊路ルート(他には伊勢路ルートや高野山ルートがあった)は、湯浅を南下して田辺に至りそこから山道に入って熊野に向かったとのこと。それにしても山道を延々と歩くのだから、参拝者は難渋したことだろう。室町時代の後半には、湯浅の東部を通っていた参詣の道が西方の海寄りに移り、そこに町場が形成されていくことになる。
近世の濃浅は、藩内有数の商工業都市として発展したということだが、その面影は今ではもうない。人口が1万人を切ったとても静かな町へと変貌している。当時は漁業や漁網製造なども盛んで、漁場は近海から遠く九州や関東、北海道にまで広がっていたらしい。しかし、湯浅と聞いて人々がすぐに思い浮かべるのは、ここが昔醤油の一大産地であり、醤油発祥の地であるとされていることだろう。知人は、しばらく前まで湯浅の醤油を取り寄せて使っていたという。味にそしてまた食にそれほど拘りのない私は、湯浅の醤油などを知るよしもなかったのだが…。
醤油はどのようにして生まれたのか。鎌倉時代に伝来した金山寺味噌(きんざんじみそ)の製造過程で生まれた「たまり」(桶の底に溜まった液体のこと)と呼ばれるものが、醤油の起源とされており、室町時代には現在の醤油に近いものが醸造されていたようだ。われわれは醤油資料館で女性のガイドの方から醤油の歴史を詳しく聞いた。彼女が力説していたのが、金山寺味噌を伝えたのが禅僧の覚心であり、湯浅が醤油発祥の地であることだった。地元に強い愛着があるのだろう。彼女の名調子はビデオを鑑賞しているときも止まらず、ビデオに集中できなくて弱った。
ビデオが始まる前に彼女は言った。「以前お客さんから、ビデオを見ている時は静かにしていてほしいと言われたので、静かにしていますね」と。口ではそう言っても脳が言うことを聞かないのだろう。以前人文研の調査旅行で帯広のビート資料館を訪ねたことがあったが、そこでも同じような体験をした。たまに来た訪問客を前にすると、弁舌が爽やかになりすぎて止まらなくなるのかもしれない。あるいはまた、同じ話では飽き足りなくなって工夫を凝らしたあげく、あらぬ方向に話が展開することもままある。
それはともかくとして、湯浅の醤油は紀州藩の手厚い保護を受けた結果、藩外での販売網が拡張され、文化年間(1804~1818)には92軒もの醤油屋が営業していたと言われるほど、この地の代表的な産業となっていく。しかしながら、明治維新によって藩の保護は消滅し、そしてまた千葉県の銚子や野田、兵庫県のたつのといったところが醤油醸造の有力な産地として発展してきたこともあって、醤油家は大幅に減少していく。今日では、食生活が多様化し、醤油や味噌と言った伝統的な調味料以外にさまざまな新しい調味料が生まれており、それに減塩指向も加わって醤油の使用量は減少している。今では湯浅には醤油の醸造業を営む家はもはや数件しか残っていない。
われわれは、今でも今でも昔ながらの醤油の醸造に拘っている「角長」(かどちょう)を訪問し、ここでの醤油の醸造過程に関する説明を受け、内部を見学させてもらった。施設も設備も昔のままであり、そのあまりの旧さに正直驚いた。話によれば、「角長」は1841(天保12)年に創業した老舗の醤油蔵であり、現在でも創業当時の蔵で醤油造りを行っているとのこと。機械化に頼ることなく吉野杉の樽を使用した手づくり製法を頑なに守っているのは、蔵には「蔵付き酵母」が息づいており、これが独自の風味を生み出す鍵となっているからだと言う。
ところで、この湯浅は近代においても有田郡の行政・経済の中心地として繁栄したが、近代化にともなう新しい施設や道路・鉄道などの整備は主に旧市街地の周辺で進められたために、醸造業関連の町家や土蔵を代表とする近世から近代にかけての伝統的な建造物がよく残されている。そのため、2006(平成18)年に全国初の醤油の醸造町として、国の「重要伝統的建造物群保存地区』に選定されるのである。
保存地区は旧市街地の北西に位置し、 東西約400m南北約280m面積にして約6.3ヘクタールに及ぶ。醤油醸造業がもっとも盛んであったこの地区では、「通り」と「小路」(一般的にはこうじと読ませるが、湯浅ではしょうじと呼んでいる)によって区切られた特徴的な地割が見られ、醤油の醸造業を中心に発展した湯浅の町並みは、その重厚な歴史的風致を今日によく伝えていることから価値が高いと評価されたのである。重伝建として選定された場所は、どこにも懐かしさが漂っている。
さらにそれに加えて、2017(平成29)年には湯浅町が申請した「『最初の一滴』醤油醸造の発祥の地紀州湯浅」が日本遺産に認定されている。日本遺産とは、文化庁が平成27年度に創設した制度で、地域の歴史的魅力や特色を通じてわが国の文化・伝統を語るストーリーを認定し、国内外に戦略的に発信することにより、地域の活性化等を図るものである。先の重伝建は勿論のこと、「角長」や資料館などが構成資産となって、日本遺産に認定されたのである。日本の食文化に多大な影響をもたらした醤油、今日ではソイソースとして世界にも知られるようになった醤油の発祥の地だからこそ、認定されたに違いなかろう。
それにしても、「醸造の香りに生きる町」湯浅、「最初の一滴」の町湯浅は、その優れたキャッチコピーの所為もあって、余りにも懐かしさを感じさせる町だった。見学を終えた後、通りや小路を歩いて写真を撮った。迷路のように入り組んだ狭い小路には、「甚風呂」(じんぶろ)の愛称で親しまれた古い公衆浴場も保存されていた。この風呂は幕末から昭和60年まで開業していたと言う。また、素朴なひな人形が飾られた休憩所のようなところもあった。同年代とおぼしき女性と親しく声を交わせたのは、旧い町並みに親しみを覚えた所為だったかもしれない。
パンフレットにもあるように、醤油の醸造業で発展してきた町らしく、「角長」から漂う醤油の香りが風に乗って鼻をくすぐる。余りの懐かしさである。建物は華美な装飾を好まず質実剛健で機能的な造りを旨としているとあったが、それも私には好ましかった。うるさい音がない、華美な色がない、余計な看板がない、そんな静かで落ち着いた佇まいのなかに身を置いて、昔の幼き頃のことを思い出していた。

