盛夏の北海道アイヌ紀行(完)-旅の終わりに-
長らく書き継いできた「盛夏の北海道アイヌ紀行」も、ようやくにして最終回まで辿り着いた。アイヌに関して何も知らなかった私のような人間が、一体何を書いたらいいのか当初迷わないでもなかったが、旅の前後に買い込んだ何冊かの本や、旅先で入手したパンフレットや資料類、それにネットでの検索結果やこの間観た映画やテレビなどを材料にしながら、ここまで書き継ぐことがてきた。ブログの読者の方々に少しは面白く読んでもらえたならば幸いであるが、もしかしたら、余りに長いので飽き飽きされた方もおられたかもしれない。
今回は最終回となるので、これまでに書き切れなかったことを紹介してみることにした。どこかで触れなければと思いつつ、その機会を失したのが囚人労働の話である。北海道の開拓に関しては、囚人労働の果たした役割を忘れるわけにはいかないだろう。網走監獄に送り込まれた囚人たちは、オホーツク海沿岸と道央を結ぶ中央道路(別名「囚人道路」と呼ばれている)の開削のために、極寒の地で過酷な労働に従事させられた。その辺りのことに関しては、吉村昭『赤い人』(講談社文庫、1984年)が詳しい。だが、もっと重要な本がある。副題に「自由民権と囚人労働の記録」とある小池喜孝(こいけ・よしたか)『鎖塚』(現代史出版会、1973年)である。この本は、2018年に岩波現代文庫に収録された。
私は、大学卒業後の1970年の秋に(財)労働科学研究所に入所し、仕事の合間によく新刊本の紹介文を書いていたのだが、そこでたまたまこの本を取り上げたことがあった。余りに懐かしかったので、ここにその文章を載せておきたくなった。掲載されたのは、研究所の雑誌である『労働の科学』の29巻4号であり、思い返せば今から50年も前のことである。小池さんのことは、今回の旅日記の冒頭で紹介した森山軍治郎さんの『民衆精神史の群像』にも登場しているが、この私にとっても忘れられない人である。どんな紹介文だったのか。
読者をひきつけ、最後まで一気に読ませる本である。 著者は現場の高校教師で、オホーツク歴史教育者協議会の会長をしている人である。本書は文字どおり「足で書かれた」 調査報告であり、埋もれた歴史の発掘に対する異常なまでの著者の熱意とあくなき探求心が、読む人にまでナマに伝わってくる。本書の魅力はそこにこそあるといっていいだろう。話は、著者が、わが国の自由民権運動史上最大の事件であった秩父事件の指導者の北海道送監後の行くえを追って、網走刑務所を訪問するところから始まる。囚人過去帳はすでに焼失しており、彼らの行くえはわからない。とほうにくれた著者は、その時ふと鎖塚のことを思いだす。
この鎖塚とは、明治における開拓の動脈となった国道工事に動員され、工事途中で死亡し、路傍に埋葬された300人にも及ぶ囚人の墓である。そこから彼らがつながれていた鎖がでてきたので、この名があるという。そこに秩父事件の指導者4名が埋もれているかもしれぬと思い、著者は囚人の霊を慰めてきたある尼僧を訪ねるが、4名のことのみを気にする著者に、彼女は一喝をくれる。追求すべきは死亡した囚人すべてのもつ歴史的意味ではなかったか。ここから著者の囚人労働に対する追求が始まる。その過程で囚人過去帳はみつかり、話は大津事件の津田三蔵の行くえにまで及ぶ。
大量の囚人を動員しての網走囚人道路の工事では、逃亡者は「拒捕斬殺」という厳しい監視のもとで、通常の4倍もの仕事が強行され、悪天候と食料不足は囚人の大量死という悲劇を招く。囚人労働は道路工事だけではなかった。明治政府の北海道開拓の手足として、集治監は有効に活用される。酷使した囚人が死ねば、「費用の節約」 とばかり、彼らは硫黄や石炭の採掘に送り込まれる。そこでの労働は酸鼻をきわめたものであった。もちろん、囚人労働廃止をもとめる動きはあった。クリスチャン教誨師を中心とした囚人の人権のためのたたかいは、政府のかずかずの迫害に耐え、苦難の歴史を経てその廃止をかちとるのである。
だが囚人労働の廃止は、新たにタコ部屋と呼ばれるものをうみ出していく。「囚人労働の本質である拘禁性と低賃金をうけつぎ、企業の利潤を最大限に、暴力的に保障するのが監獄部屋であり、飯場制度であった」。逃亡者に対するリンチ殺人、あるいはすさまじいまでの中間搾取にあえぐ労働者に目ざめは訪れる。社会主義思想の発生と労働組合の誕生である。だが、監獄部屋の廃止・改善運動は、「全機構的重圧」の下にある土工自身の中には組織されず、主として社会政策の側からのみ取り上げられた。
小康を保っていた監獄部屋の矛盾は、日中戦争による「産業戦士」の払底によって再発する。 政府は、それを朝鮮人・中国人強制連行によって解決したのであった。「憲兵と棒頭と民族蔑視が加重された“監獄部屋以下的” 惨状」 が北海道で展開される。最終章 「鎖を断つ」では、秩父事件 88 周年記念祭 で、遺族が「暴徒」の「虚像」 から解放された感激が記されている。権力によって作られた虚像が破られ、人民が語り伝え、掘り下げてきた実像がそれに代わるのである。
本書は、そこでとりあげられている内容のおもしろさだけにとどまらず、民衆の歴史というものに対する著者の姿勢という点でも、教えるものをもっている。 途中にかずかずの「聞き書き」 が挿入されているが、それは単なる「聞き書き」に終わってはいない。 民衆の歴史に対するとぎすまされた感覚と同時に、「鎖を断つ」ことに向けての骨太いたくましさで裏打されているからであろう。
以上が昔私が書いた紹介文である。今読み返してみると、私自身若い時から似たようなことを考えており、それ以来大して進歩していないようにも思われた(笑)。いつまで経っても不器用で頑固で古臭い人間なのであろう。最終日には、釧路川に面した標高15メートルほどの高台に作られた、モシリアチャシ跡に上った。たいした高さではないのに、整備されていない道なので上りにくいうえに下りにくい。転倒常習犯の私などは一苦労した(笑)。上れば釧路川が見えるが、市街地にあるこうした場所に上る人などもはやほとんどいないのであろう。
シャクシャイン像の近くではシベチャリシャシ跡をみたから、このモシリアチャシ跡は二つ目のチャシである。闘い(和人との闘いだけではなく、アイヌ間の闘いも含まれる)の際の砦や柵となっただけではなく、祭の場や話し合いの場、あるいは見張り台としての機能もあったようだ。それぞれのチャシに違いはあったのだろうが、シャクシャインが謀殺された後、直ちにシベチャリシャシも破壊されたということだから、アイヌの闘いと深い関わりがあったことは言うまでもない。
その他にも、評伝を読んで知ったあまりにも精悍な風貌の彫刻家砂澤ビッキの話や、帯広に住んで道東の風景写真を数多く撮った写真家関口哲也のことや、この作品で第3回の芥川賞を受賞した鶴田知也(つるた・ともや)の「コシャマイン記」にも触れてみたかったが、そんなところにまで手を広げてあれこれ書き出すと、もはや際限がない。ビッキを知ったのは今から10年ほど前のことであり、浅川泰『砂澤ビッキ』(北海道新聞社、1996年)を読み、画集を手に入れて以来ファンになった。関口哲也は、昔家人と函館に遊んだ折に、ある本屋で彼の写真集『北辺光彩』(日本カメラ社、1988年)を購入して以来のファンである。どちらもミーハーなファンに過ぎないのだが…。
「コシャマイン記」についてのみ一言だけ触れておくと、私が知りたかったのは、鶴田が何故アイヌ三大蜂起の一つであるコシャマインの闘い(1457年)に興味を抱いたのか、ということである。若き日に道南の八雲町に逗留したことが、執筆のきっかけとなったらしい。この町には彼の文学碑も建立されているようだが、そこには「不遜なれば未来の悉(ことごと)くを失う」と揮毫したという。「コシャマイン記」を含む作品集が現在講談社文芸文庫に収録されており、解説を川村湊が書いている。次のような一文が気になった。
鶴田知也にとって、このような“地の塩〟のような人物たち、アイヌモシリの地に、長年住みついていたアイヌの古老や、原始の森に最初に斧鉞(ふえつ、おのとまさかりのこと)を入れた開拓者一世などに対する満腔の共感と同情とがあったと思われる。(中略)それらの人物は、土地や自然から離れて、都会で浮き草のように暮らす人々とは違った、地に足のついた倫理観や価値観によって生活する人々なのだ。彼はそうした人々の姿(民衆の原像)を、その小説のなかに書き続けたのである。しかし、鶴田知也は、そうした北海道開拓のフロンティア精神に富んだ開拓者たちが、一方では侵略者として、先住民族アイヌ人を追い詰め、追い出し、その大地を簒奪していったことも忘れはしなかった。
予定されていた見学先をすべて訪ね終えたので、最終日の午後には、摩周湖と美幌峠の展望台を経由してから女満別空港に向かうことになっていた。「神の湖」である摩周湖も、美幌峠から一望できるはずだった屈斜路湖も、ともにすっぽりと深い霧に蔽われていたために、残念ながら何も見えずじまいだった。布施明の歌う「霧の摩周湖」(1966年)でも美空ひばりの歌う「美幌峠」(1996年)でも、惑う愛の行方の哀しさ故であろうか、霧のために何も見えないのである。霧のなかに沈んだ樹海や霧に濡れた岩肌が、何故だか私を原始の世界に誘うようで妙に神秘的だった。
アイヌの人々の哀しみに触れた旅だったのだから、きっと何も見えなくてよかったのであろう。二つの湖の美しき景観は、若き日の想い出の中にひっそりと眠っている。帰宅してから、中島みゆきが歌う「世情」(1978年)をわけもなく聴いてみたくなった。そして、「世の中はいつも変わっているから」「変わらない夢を見て」いる「頑固者だけが悲しい思いをする」とのフレーズを一人静かに噛みしめてみた。この間ブログの原稿をだいぶ書きためたので、のんびり寛いで気持ちを切り替えたうえで、もう一つの旅日記に向かうつもりである。
(追 記)
先日、新宿で友人と会って久しぶりに飲むことになった。忘年会のようなものか。新宿も渋谷と同じで駅の構内が改装中であった。久しぶりに出てきた私などはインバウンドの外国人観光客のようなもので、あちこちうろちょろした。そうなりそうな気配があったので、少し早めに待ち合わせ場所に向かったこともあって、まだ時間に余裕があった。写真でも撮ろうかと思ってあちこち眺めていたら、ビルの看板の中に「ウポポイ東京サテライト」の文字を見つけた。
懐かしくなって顔を出してみたところ、ここは事務所なので見せるようなものは何も置いてないとのことだった。しかし事務所の方は大変親切で、わざわざ顔を出してくれたということで、タオルやボールペンやクリアファイルなどのお土産グッズをもらうことができた。我が家の小僧にでもやるつもりである。「また北海道に来て下さい」と優しく声を掛けられたのが、何だかとても嬉しかった。