早春の台湾感傷紀行(完)-「幌馬車の歌」のことなど-
「早春の台湾感傷紀行」もようやく最終回に辿り着いた。書きたいことがあるのなら何回でも書いていいようなものだが、ブログの読者からすれば、やはり10回あたりが限度というものだろう。いい加減飽きてくるからである。それにこの私は、ブログに書いたものを纏めて『人文科学研究所月報』の特集号に寄稿しようと思っているのだが、そうなると、余りに長いものを書くわけにはいかない。こちらにも限度があるからである。「早春の台湾感傷紀行」の最終回となる今回は、これまでに書き残したもののうち、大事なものだけでも記しておきたい。あの「虐殺と粛正の二・二八事件」(伊藤潔)のことである。
台湾に来て6日目となる2月28日の朝9時に、我々一行を乗せた専用バスはホテルを出発して「国立海洋生物博物館」に向かった。この日はすっきりと晴れ渡り、大分暑くなりそうであった。「た・だ・し」が口癖のガイドの馬(マー)さんが、朝の挨拶の後次のようなことを語った。「みなさん、今日は台湾は休日なんです。何故だか分かりますか。二・二八事件が起こった日だからなんです」。この事件のことについては、頭の片隅にぼんやりと記憶されてはいたが、その詳細は知らなかったし、ましてや休日になっているなどとは思いもしなかった。調べてみると、2月28日は「和平祈念日」と呼ばれていて、台湾の人々にとっては忘れようにも忘れられない日なのであった。
この日に一体何があったのか。話は1945年に日本が連合国に降伏したところまで遡る。日本軍は蔣介石の率いる中国軍に降伏したわけだが、そのころすでに中国では国民党と共産党の間の国共内戦が始まっており、重慶にあった蔣介石の国民党政権は、陳儀(チン・ギ)を台湾省行政長官として台北に送り込んだ。その彼は、10月25日に台湾が国民党政権の下に置かれることを宣言し、祖国復帰を祝う光復大会が開催された(それ以来この日は光復節となる)。この時から、台湾人はそれまでの日本国籍から中華民国の国籍となって「本省人」と称されるようになり、中国から新たに渡ってきた中国人は外省人として区別されることになる。
当初台湾の人々は中国本土から来た軍人や官吏を歓迎したが、やがて彼らの汚職の凄まじさに驚き、失望する。軍人は、長引いた日中戦争と国共内戦の影響で質が悪く、強姦・強盗・殺人をも犯す者さえいたが、その犯人が処罰されぬこともしばしばだった。また、日本企業の財産や私有財産はすべて接収されて公営企業に移管されたが、そこの上級職を外省人が独占したこともあって、外省人の官吏の中には私腹を肥やす者も多かったようだ。ともに、本省人である台湾人の反感を買ったのは言うまでもない。。また台湾産の米が中国本土に送られたために米価が急騰し、それに伴って経済も混乱した。日本の統治下で「植民地的近代化」を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の汚職や軍人や兵士などの暴行、さらに経済の混乱などは到底受け入れがたいものであった。当時の台湾人は、上記のような状況を「犬(日本人)去りて、豚(中華民国人)来たる」(狗去豬來)と呼んで揶揄したという。
以上が二・二八事件の背景である。1947年2月28日、ついに外省人と本省人の衝突事件がおこった。事件の発端は、前日の夕方に台北市の夜市で行われた密輸タバコの取り締まりだった。国民党政府は、日本の台湾総督府の政策を引きついでタバコを専売品とし、それを重要な財源としていたのだが、政府の高官とその関係者はそのタバコを密輸することによって稼いでいた。いわば密輸タバコの元締めを放置しながら末端の街頭小売人ばかりを摘発することに、本省人は反発していたのである。外省人の取締官が、中年の台湾人寡婦から密輸タバコを没収し、さらには所持金まで取り上げた。跪いて現金の返却を哀願した彼女の頭を銃で殴りつけたために、憤慨した群衆が一斉に取締官に抗議の声を上げた。あわてた取締官の発泡によって一人の市民が死亡したために群衆の怒りは激しくなり、そこから逃れようと取締官は近くの警察局に逃げこむ事態となる。
そして翌28日である。群衆は専売局に押しかけて抗議し、署員を殴りつけ書類を焼き払い、午後には長官公署前広場に集まり、抗議と共に政治改革を要求した。ところが公署屋上から憲兵が機関銃を乱射したため、数十人の死傷者が出るのである。事態は一気に緊迫し、台北市の商店は軒並み閉店、工場は操業を停止、学生は授業をボイコットし、万を超える市民が抗議行動に立ち上がり市中は騒然となった。警備総司令部は戒厳令を布告したが、市民は放送局を占拠して全台湾に事件の発生を知らせた。こうして3月1日には暴動は台湾全土に波及し、各地で官庁や警察署が襲撃され、外省人とみられた人々は子どもも含めて暴行を受けた。
陳儀台湾省行政長官は、本省人による事件処理委員会を設置し、その報告をもとに5日から6日にかけて官庁などでの本省人の登用、専売制の廃止、言論・出版・集会の自由、汚職官吏の追放などの改革を約束して暴動を鎮めようとした。しかしながら、その裏では中国本土から派遣された憲兵2千、陸軍1万1千の増援部隊が3月8日に基隆港と高雄港に上陸し、手当たり次第に台湾人に向けて発砲し始めるのである。この部隊は近代的な武器で武装しており、そうしたものを持たない本省人に抵抗するすべはなかった。
市民に対する容赦のない虐殺を行うことによって、警備総司令部はわずかの期間で全島を平定する。しかしながら、事件はそこで終わったわけではなかった。平定直後から、「粛奸」と「清郷」を名目に全島の戸籍調査が実施され、暴動に関与した疑いのある人物は次々と逮捕され、そして処刑された。また、たとえ事件に無関係ではあっても、外省人に対して批判的な言動を取っていた人間、とりわけ知識人が数多く逮捕され、その多くが消息を絶った。日本の統治下で教育を受けた彼らを、根絶やしにするかの如くであったという。
先の伊藤によれば、二・二八事件の発生から1ヶ月余で殺害された台湾人は、国民党政権のその後の発表で約2万8千名を数えており、この数字は、日本の50年間の統治において武力抵抗で殺戮された台湾人の数に匹敵するのだという。その彼は、悲憤を込めて次のように弾劾している。「殺戮には機関銃が使用されたほか、鼻や耳を削ぎ落とした上に、掌に針金を通して数人一組に繋いだり、麻袋に詰めて海や川に投げ捨てるなど、きわめて残虐なものであった。逮捕されても処刑の前に市中を引き回され、処刑後は数日間にわたり、市民へのみせしめとして放置された人も多々あった。とても20世紀に生きる文明人のなせる業とは信じ難い野蛮な手口であり、『祖国』や『同胞』の仕業ではあり得なかった」と。
政治犯として緑島の監獄に送られた人々も、処刑を免れたわけではなかった。「死の点呼」が続いたからである。龔昭勲(キョウ・ショウクン)の『台湾「白色テロ」の時代 死の行進』(展転社、2023年)には、次のような話が書き留められている。独裁者蒋介石の白色テロ(権力側による反体制側へのテロである)の凄まじさとともに、そのテロに抗した人々の気高い姿が浮かび上がってきて、肅然とせざるを得なかった。そしてこの私は、台東のホテルで宿泊した朝に海岸まで出て眺めた綠島を、何度も思い浮かべた。
その後、《光明報案件》 で逮捕された基隆中学の校長、鍾浩東(チュン・ハオトン)先生は死刑を免れないと覚悟して、皆にお願いをした。自分が死の点呼を受けて出かける時に、「安息歌」 ではなく、「幌馬車の歌」を歌ってくれと頼んだ。なぜ「幌馬車の歌」なのか。鍾校長先生に曰く、「幌馬車の歌」が彼の故郷の田園の景色を思い出させるし、また彼が結婚前に、奥さんと付き合っていた時に、奥さんにこの歌を教えて、よく二人で一緒に歌っていたからだ。鍾浩東校長先生は、「幌馬車の歌」で自分の人生に別れを告げたいと思っていた。そしてとうとうその日が来た。鍾浩東校長は死の点呼を受けた。そして、鍾先生が牢屋を出る前に、同じ牢屋にいた仲間たちに、一人ずつ礼儀正しく挨拶をしながら、握手して別れを告げた。
その日、拘置所にいるすべての台湾出身の受難者仲間(日本語のできる人)が「幌馬車の歌」を歌って、鍾浩東校長先生を送別した。 そして、死の点呼を受けた勇敢な闘士たち (鍾浩東校長を含め)は、皆胸を張って死の脅威を恐れず、独裁者の脅迫に屈せず、前へと進んでいった。「幌馬車の歌」の歌声は、波のように瞬く間に鍾浩東校長先生が出て行く牢屋から、国防部軍法處の一時拘置所へ広がり、津波のように青島東路三番地を追(ママ)い被さった。
ここに登場する「幌馬車の歌」(日本でもヒットしたが、台湾では大流行したらしい)は、監督・侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の名を世界に知らしめた映画『非情城市』(1989年)でも流れる。先のような事実が既に知られていたからであろう。望郷や郷愁や別離を歌ったこの歌は、人々を恐怖のどん底に突き落とした白色テロの時代をまざまざと思い出させることによって、白色テロに斃れた人々を悼む鎮魂の歌となったかのようである。
そして私には、二・二八事件で殺害された不屈の人々が、映画『セデック・バレ』(監督・魏徳聖(ウェイ・ダーション)、2011年)に登場するセデック族のマヘボ社頭目モーナ・ルダオの、末裔のようにも思われた。「美麗島」台湾は、過去と向き合う勇気を持った島であり、二・二八事件を和平祈念日として記憶に留めることによって、その美しさをさらに増そうとしているのかもしれない。ふとそんなことを思った。
PHOTO ALBUM「裸木」(2024/06/07)
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