早春の台湾感傷紀行(九)-台湾人日本兵・高砂義勇隊・台湾少年工-

 あれこれと台湾のことについて調べ、思いつくままにブログに文章を綴っていたりすると、ふと記憶の底から浮かび上がってくるものもある。そんな話を書いておこう。日本の植民地であった台湾の戦時下の様相はどんなものだったのだろう。1937年の盧溝橋事件以降、多くの台湾人が軍に動員されて中国や東南アジアの戦地に送られ、人夫や通訳などの後方支援に当たっている。1941年末からは陸軍が原住民族を募集して「高砂挺身報国隊」(のちに「高砂義勇隊」に改称)を編成し、彼らを東南アジアのジャングルに送り込んだ。戦争の拡大と戦況の緊迫化を受けて、1942年には志願兵制度が導入され、日本のみならず台湾の青年も軍人となって戦場に向かったのである。

 戦況が悪化した1945年には徴兵制が施行され、15歳から60歳までの男子、17 歳から40歳までの女子には、徴用に応じて兵役に服する義務が課された。その他にも多くの台湾人々が飛行場や防衛施設の工事に従事させられたのだという。それまでは、植民地の人々には兵役の義務はなかったのである。もちろんながら特典ではなく、彼らの忠誠心に疑いが持たれていたからであろう。さらには従軍する 「慰安婦」 の募集も行われていた。日本政府の統計によれば、軍人や軍属となった台湾人は20万人を超えており、そのうちおよそ3万人が死亡しているとのことである。台湾から戦地に赴いたその20万人中の6千人ほどが原住民族だった。

 高砂義勇隊は兵站や土木工事を本来の任務としていたが、次第に戦闘にも投入されるようになり、南方のジャングルに慣れない日本軍にとって、戦闘のみならず物資や傷病者の担送、現地での自活、現地住民との接触の面でも大きな力となった。戦病死者の割合は、作戦をともにした日本の軍人よりも高かったといわれている。こうした動員を支えたのが、総督府が力を入れていた皇民化運動(国語運動や改姓名運動など)であり、「皇民化教育」であったに違いない。敗戦から30年も経った1974年に、インドネシアのジャングルで元日本兵の中村輝夫が発見された。原住民族の出身であった彼は、日本人として教育され日本兵として戦地に赴いたにもかかわらず、その後日本兵として処遇されることはなかった。私などは、横井さんや小野田さんのことは知っていても、中村さんのことなど何も知らなかった。

 台湾にも存在した「慰安婦」に関しても気になるところである。私などはその存在すら知らなかったからである。最近新聞の切り抜きを整理していたら、『しんぶん赤旗』(2023年11月20日)の記事が目に留まった。それによれば、台北市内には旧日本軍「慰安婦」問題を中心に展示する記念館「アマ・ミュージアム平和と女性人権館」があり、台湾や海外から多くの人が参観に訪れているとのこと。 「アマ」は台湾で「おばあさん」を意味する。記事の内容を紹介してみよう。

 第2次世界大戦当時、日本の植民地だった台湾では、若い女が看護婦や食堂の仕事があるなどとだまされ、海外に連れていかれました。 アジア各地の日本軍慰安所で「慰安婦」にさせられたのです。拒絶して台湾に戻ることもできず、被害女性らは事実上「強制」だったと証言しています。記念館の一角の天井には絡み合った線があります。 これは、被害女性たちの複雑な心情を表しています。 その下に、3人の女性の生前の写真が飾られ、録音された実際の証言を聞くことができます。

 記念館を運営する台北市婦女救援社会福利事業基金会の杜瑛秋(と・えいしゅう)執行長は「アマたちの体験、心の傷の表現を重視している」と語ります。同基金会によると、台湾では2,000人以上の被害女性がおり、1992年以降に58人の生存被害者が確認されました。 今年5月に最後の生存者だった女性が92歳で死亡。基金会は「アマたちが亡くなっても、歴史が消えることはない。引き続き日本政府に対し、アマや遺族への謝罪と補償を求めていく」との声明を発表しました。

 記事の内容は以上のようなものである。日本兵として戦争に動員された台湾の人々に対するに戦後補償の問題が残されたのだが、国籍条項を盾にした日本政府の対応は余りにも冷淡なものであった。ここで詳しく紹介する余裕はないので、今回台湾に出掛ける間際に見た映画『トロッコ』に登場していた一シーンだけを書き加えておく。日本人として戦地に赴いた台湾の老人のところに、補償が許可されなかったとの通知が届く。いつもは花蓮の片隅で静かに暮らしている老人であるが、その時に見せた怒りと悲しみに満ちた表情が、今でも忘れられない。

 では、戦時下における台湾の様子はどんなものだったのであろうか。台湾の高校生の歴史教科書である『台湾の歴史』には、我々には余り知られていないのではないかと思われることが書かれていた。私ももちろん何も知らなかったから、興味津々で読んだ。1928年には日本共産党の支部である台湾共産党が結成され、謝雪紅 という女性革命家が主要なリーダーの一人だったという。 台湾共産党は総督府専制の打倒や台湾共和国の樹立を主張し、積極的に新文協(1921年に発足した台湾文化協会は27年に分裂し、主導権を握った左派は「新文協」を名乗った)と台湾農民組合に介入して、活動を繰り広げたのだという。

 さらに興味深かったのは、以下のような事件が紹介されていたことである。日本の国内でも治安維持法が猛威を振るっており、共産主義者や自由主義者が虐殺されたり獄中死したりしたが、それをはるかに超えるような苛烈な弾圧である。植民地だった台湾と朝鮮では、治安維持法に反したとして、日本国内では例をみない死刑判決が下され執行されていたからである。「一視同仁」(どんな人に対しても平等に接すること)が叫ばれていた世界に、何が起こっていたのか。

 台湾人は総督府による強力な動員下で、戦争には相当の協力をしていたにもかかわらず、日本側からは不信感を持たれ続けた。総督府は戦時体制の下、台湾人エリートの政治抗争の動きを抑え込んでいたが、それ以上に通敵、反乱の動きがあると疑われる者に厳しく対処した。例えば 1940年、 鉱業界の重鎮である李建興 が抗日組織を作ったとの疑いで逮捕され、 それに 500人が巻き添えとなり、その内300人以上が獄中死している(瑞芳事件)。翌年には、欧清石や郭国基が、国府軍上陸の協力を計画したと疑われ、数百人が逮捕された(東港事件)。1944年には蘇澳の漁民71人が米軍の潜水艦に情報を提供したとして逮捕され、全員が死亡している (蘇澳事件)。 しかしこれらの事件の大方は、警察や検察のでっち上げや誇張された情報によるものであった。台湾の総督府が台湾人に対していかに強圧的であり、また強い不信感を抱いていたことを物語っている。

 もう一つ触れておきたいことがある。台湾少年工のことである。今回日本人の開拓村を眺めてきたことは既に紹介済みだが、そこで小さな亭(休憩所のようなもの)を見た。それと同じような亭を、私は2~3年前に神奈川県の大和市にある泉の森公園のなかで見かけたことがあった。それは「台湾亭」と名付けられており、一見すると場違いなところに建てられた感があった。だが、説明板を読んでそこにある意味がよくわかった。1943年に、座間市と海老名市にまたがった地に、大規模な海軍の航空機製造工場が設置された。それが高座海軍工廠である。そこに台湾の少年たちが動員され、彼らは大和市にあった寄宿舎に住みながら働いていた。その彼らが昔を懐かしんで1993年に「台湾亭」を建て、大和市に寄贈したものだった。

 では彼らは何故日本に来たのか。戦線を拡大したことによって兵員の補充に追われていた日本は、深刻な若年労働力不足に見舞われていた。この労働力不足を解消することを目的として、台湾で募集されたのが台湾少年工である。その数は8,400人にも及んだ。高座海軍工廠の責任者が台湾総督府を訪れ、台湾で少年たちを募集したい旨申し入れ協力を要請するのである。その動員は学校長や教師の協力なしにはありえなかったから、ここでも「皇民化教育」が大きな役割を果たしたであろうことは間違いない。動員されたのは12~16歳までの少年と、彼らを指導する17~19歳の中学生である。

 食費と生活費は公費から賄われ給料までもらえるという触れ込みであり、働きながら勉強すれば旧制工業中学校の卒業資格を得られ、将来は航空技師への道も開かれているというのが謳い文句であったようだ。台湾の少年工たちはそうした未来を素直に信じたのであろう。敗戦までの約2年間、厚木海軍飛行場に配属される戦闘機雷電の製造に携わり、約400人が旧制工業中学校の卒業資格を得たのだという。戦後少年工たちは台湾に帰り、戒厳令の解除後に同窓組織「台湾高座会」を結成する。2018年には、台湾少年工の来日75周年を記念する歓迎大会が大和市で行われた。座間市内にも、台湾少年工を称える顕彰碑が設置されているとのこと。当時の少年工たちも高齢化しており、大規模な歓迎式典はこの回が最後となったようだ。歴史の幕が今静かに閉じようとしているのであろう。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2024/05/31

台湾旅情(1)

 

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