早春の台湾感傷紀行(七)-台湾の原住民族のこと(下)-

 前回のような話を前提にしたうえで、われわれが訪問した先を順次紹介してみよう。まず花蓮の「阿美族民族中心」であるが、台湾で最も大きな原住民のグループがアミ族であることはよく知られており、その多くは花蓮から台東にかけての海岸沿いや山間部に暮らしている。彼らの伝統的な住居や倉庫、集会場などを再現したのがここである。ステージで民族舞踊でも見ることが出来ればよかったのだろうが、生憎それは叶わなかった。

 次は台東の卑南(ベイナン)にある「卑南遺跡公園」である。このプユマ族の遺跡は、当時は面積が30万平方メートルを超える大型の集落であったと考えられており、これまで台湾で発掘された集落の中ではもっとも大きく、しかももっとも完全な姿で残っているのだという。それと同時に、ここからは台湾有史以前の人類の住居跡も発掘されている。その後政府によって遺跡跡が公園として整備され、園内に国立博物館が設立されたとのこと。卑南遺跡の主な見どころは今から2~3千年前の卑南の新石器時代の墓や住宅、各種生活用品などである。実に広々とした美しい公園で、手入れも行き届いている。ここを彷徨いていて目に付いたのは、何柱もある「月形(つきがた)石柱」である。かなり大きいので、誰もが何だろうと思うに違いない。こうした巨大な石柱は、太古の祭祀の際に崇められていたのであろうか。山にあった巨石が割れて、そこから祖先が誕生したとの伝承もあるらしい。

 続いて同じ台東にある「国立台湾史前文化博物館」を訪ねた。台湾の過去と現在をむすび、国際的視野で台湾文化を考える博物館と銘打っているだけあって、実に立派な博物館である。台湾の先史文化と台湾原住民族の文化に関連した遺物が展示されていた。台東にはアミ族、ブヌン族、プユマ族、パイワン族、ルカイ族といった多様な原住民族が居住しているので、その地に相応しい博物館だと言えるだろう。かなり広いので短時間ではとても廻りきれない。気になったのは、館内に掲示されていた大きなポスターである。そこには「我是誰? WHO AM I」と書かれていた。昔見たゴーギャンの畢竟の大作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を思い出した。私にとっての関心事は、「我々」ではなく「私」であったので、「我是誰?」が気になったに違いあるまい。

 最後に、屏東の「台湾原住民族文化センター」であるが、たくさんの所を見て廻っているうちに、いったいここがどんな場所だったのかすっかり忘れている。恒春で転倒した直後に廻ったところだったので、いささか気が動転していて記憶に残らなかったのかもしれない。そんなわけで、ここに記すべきことは何もない。こんなふうにあちこち訪問してきて、われわれが学ぶべきだと思ったことは、他民族との共生であり、それぞれの民族の固有の文化の継承である。少し前にこのブログにおいて、多様性を尊重し、排除ではなく包摂を重視し、論難ではなく対話を選択すべきであるなどと偉そうに書いたことがあったが、そんなこととも一脈相通ずるものがあるようにも思われた。

 ここで余談を記しておきたい。先にタイヤル族が行ってきた首狩りの話に触れたが、その続きのようなものである。台湾に向かう飛行機のなかで、たまたま国際コミュニケーション学部の井上幸孝さんの隣に座ったので、あれこれと雑談を交わした。彼はスペイン、メキシコ、フィリピンの歴史、とりわけメキシコ先住民の歴史を研究しているとのことであった。視野狭窄気味の私などがまったく知らない世界の話なので、大変興味深く聞かせてもらった。そして、最近青山和夫編の『古代アメリカ文明 マヤ・アステカ・ナスカ・インカの実像』(講談社現代新書、2023年)にアステカのことを書いたことを教えてもらった。

 そんな話のなかに、「糞尿譚」や「麦と兵隊」で知られる火野葦平の話も登場した。彼の纏めた『比島民譚集 フィリピンの島々に伝わる話』(国書刊行会、2024年)の解題を、井上さんが書いたというのである。火野がペン部隊の一員としてフィリピンに行ったことは微かに記憶にあったが、こうした本を纏めたことなどまったく知らなかった。そして、少し奇異に思ったのは、解題を井上さんが執筆したことであった。どんな繋がりがあるのか見当が付かなかったので、解題だけコピーして送ってもらえないかと頼んだ。

 台湾から戻って程なくして、そのコピーが送られてきた。そして、先の『古代アメリカ文明』の方は自分で入手して拾い読みしてみた。ともにとても面白いのである。解題の方は「スペイン、メキシコ、フィリピン-海を越えて重なり合う歴史と文化」と題されており、そこには、マゼランによってフィリピンとスペインとの最初の接触が生まれ、その後メキシコを支配していたスペインが、太平洋を介してフィリピンと往来できるようになり、スペインの統治で「メキシコ化したスペイン文化」がフィリピンにもたらされたのだと書かれていた。スペインはオランダに続いて台湾の北部に進出し、サン・サルバドル要塞やサン・ドミンゴ要塞を築いたことはよく知られている。先に紹介した堀江さんの論文にも詳しく紹介されている。大海原が世界を繋ぎ、そこに新たな歴史が紡がれていったのである。

 『古代アメリカ文明』もなかなか刺激的な本だった。総論を書かれている青山さんによれば、学校で学んだが故に常識のようにして語られている「世界四大文明」史観は、脱構築されなければならないとのことである。何故かと言えば、この史観は学説でもないし、古代アメリカに存在したメソ(「中間」という意)アメリカとアンデスの二つの一次文明を、無視しているからである。これらの古代アメリカ文明は、マス・メデイアによって謎や不思議や神秘に彩られた世界のように描かれてきて、今日まで歪められたままだという。その例としてアステカの「生贄」があげられていた。

 井上さんは、この著作においてアステカ王国の実像を明らかにしようとしていた。彼は、スペインが征服の正統性を示したいがために、宗教的な儀礼において行われた「生贄」や「食人」(カニバリズム)の風習を、過度に強調してきたのではないかと言うのである。こうしたものを、日常化した奇習あるいは残酷物語の類いとして見ようとすることは、「中世ヨーロッパでは『魔女狩り』しか行っていなかったとか、日本の武士は全員が『ハラキリ』をしていたと錯覚させるような誇張をするのに等しい」と述べられていたが、確かにそうかもしれない。ここから話を転ずれば、パイワン族の首狩りなども同じようなものかもしれないと思ったのである。蕃人の奇習や残酷物語として首狩りを過度に強調することは、原住民族に対する眼差しを曇らせるものなのかもしれない。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2024/05/17)」

我是誰(1)

 

我是誰(2)

 

我是誰(3)