処暑の岡山・倉敷紀行(七)-大原孫三郎と労働科学研究所のことなど(上)-
水島から倉敷に戻ったこの日は、調査旅行の最後の晩だということもあって、地元の居酒屋で皆で楽しく飲み食いした。水島の続きから言えば、朝鮮焼肉にビールというのも悪くはないと思ったが、折角瀬戸内に来たのだからということで、魚をメインにあれこれの料理を注文した。私などは、出されたものはほぼ何でも旨いと言いながら食べるような人種なので、それほど味にうるさいというわけではない。食材に関する知識もほとんどない。言い方を変えるならば、雑食系あるいは味音痴ということにでもなるのだろうか。食べ物の話などがどうでもよくなるのは、旅先で同行の人々とたわいもない雑談を交わす方が、実に楽しいからである。そんなこんなで最後の晩も更けていった。
翌日は調査旅行の最終日である。いつもとは違って、今回はホテルでの朝食の後自由行動ということになった。美観地区の側に宿泊しているので、見学すべき場所には事欠かない。大原美術館に出向いた人もいたであろう。私は午後に兵庫県の小野市に向かうことにしていたので、どうしようかと考えた末に、この機会だからとアイビースクエアとスクエア内にある倉紡記念館を見て回ることにした。こうした自由行動の時間を取ってくれるとは、社会科学研究所もなかなか粋な計らいをするではないか。
この日も朝から暑い。アイビースクエアに入りスクエア内を見て回った。ここは1889(明治22)年に創設された倉敷紡績所(現クラボウ)の本社工場を再開発した複合文化施設だとのことだが、倉紡記念館の開館までにまだ時間があったので、誰もいない広い敷地をのんびりと散策し所々で休んだ。大きなメタセコイアの樹が、日陰を作ってくれていた。アイビーとは蔦(つた)のことであり、チャペルだけではなく煉瓦積みの工場にも蔦は似合っていた。春や秋であれば、もっと美しい景観が見られたに違いない。蔦を這わせたのは大原孫三郎であり、工場内の暑さを少しでも和らげ女工たちの労働環境を改善したいとの思いからだったようだ。1960年代に日本でも流行したアイビールックとは関係がない。
旧い紡績工場を再開発してこうした美しい場所に変身させたのだから、何とも素晴らしいの一言である。以前同じ社会科学研究所の調査旅行で、群馬の富岡製糸場を見学したことがあったが、その敷地には残念ながら景観としての美しさは感じられなかった。ふとそんなことも思い出した。一人ぼんやりと広場を巡っているうちに、倉紡記念館の開館時間となった。この記念館は、文化庁の認定する日本遺産であり、経済産業省の認定する近代化産業遺産であり、文化庁の認定する登録有形文化財であり、そしてまた日本労働ペンクラブの認定する日本労働遺産であるということだったので、見応えは十分であった。わざわざ出掛けてきた甲斐があったというものである。
倉紡記念館の入口脇にはなかなかユニークな記念碑があった。2023年の4月にG7労働雇用大臣会合のエクスカーションとして倉紡記念館が選ばれたことを示すものだった。同年開催の広島サミットに合わせて行われたのである。広島サミットのことさえ忘れかけていたのだから、労働雇用大臣会合のことなど初めから覚えてもいなかった。調べてみたら、この見学の際にクラボウの関係者は次のような説明をしたらしい。社内報によると、「加藤厚生労働大臣主催のエクスカーションとして、倉紡記念館の見学がありました。今回、労働雇用大臣の会合ですので、クラボウが労働環境改善に注力していたということ、特に大原孫三郎が日本初の労働衛生に関する研究機関『倉敷労働科学研究所』を設立したこと、従業員の生活環境改善のために『分散式家族的寄宿』や保育所、託児所等を取り入れたこと、また、従業員とその家族の健康管理のために『倉紡中央病院』を建設したこと等をご紹介しました。各国代表の方々もクラボウが100年も前にこのような取り組みをしていたことにとても興味を持たれていました」とあった。
この私は、大学卒業後ここにある「倉敷労働科学研究所」に源流を持つ(財)労働科学研究所に15年間世話になったので、G7の労働雇用大臣たちに上記のような説明が行われたことを知っていささか感慨深かった。たわいもないことではあるが、労研の出身者であることに少しばかり誇りを感じたのである。そこでこの倉紡記念館の展示の内容である。入口で受け取ったパンフレットによれば、明治以後紡績産業は、戦争や不況に直面しながら常に日本の近代化とともに変化発展してきたが、その変遷をクラボウの歩みを通して感じ取ってもらえるとあった。創業期の明治時代の紡績機械やクラボウの社訓や商標。事業が飛躍的に拡張した大正期の工場建設と先進的な経営努力。戦争下で軍需工場化を余儀なくされていく昭和期の苦悩の様子。さらに戦後から今日に至る繊維産業の経営と技術の絶えざる革新まで。言ってみれば、それは日本の紡績業の通史とでも言うべきものであった。
しかし、その通史はなかなかユニークである。どの辺りがユニークなのか。先ずは「教育・社会事業への情熱」があげられるだろう。明治末期から大正時代、 クラボウの2代目社長大原孫三郎のもとで事業拡張を積極的に行う一方で、衛生的で家庭的な雰囲気の分散寄宿舎の設立、働く人の学校教育制度の確立、倉紡中央病院(現在の倉敷中央病院)、倉敷労働科学研究所(現在の大原記念労働科学研究所)設置など「労働理想主義」のもとに先駆的な事業を情熱的に次々と実践していったからである。事業を通した教育・社会への貢献という精神が、大きな渦となって展開されたのである。孤児救済に一生を捧げた石井十次(いしい・じゅうじ)と孫三郎との出会い(クリスチャンだった石井の影響を受けて、孫三郎も入信している)、大原社会問題研究所の開設など世界にも注目された福祉と学究の活動の経緯などが展示されていた。
もう一つは「芸術・文化のひろがり」である。1930(昭和5)年、大原孫三郎によって建設された大原美術館は、戦後先代の意志を継いだ4代目の社長大原總一郎により西洋近代の美術・20世紀以降の現代美術が収集されたのである。また、近代日本の洋画の代表作を展示する分館が設立されたほか、民芸運動に関わった工芸作家の作品を集めた工芸館、中国美術を収集した東洋館が次々と建設され、日本の民間美術館としてはきわめて多彩で総合的な美術館として発展したからである。芸術文化の振興と関わり深いクラボウの企業活動の歴史を、垣間見ることが出来た。今で言うメセナ活動(企業が文化・芸術活動を支援すること)の先駆けとでもなろうか。
戦後の繊維産業は、大きく様変わりしていく。好況と不況を何度も経験しながら、絶えず技術の革新に挑み、国際的な競合の中、独自の素材や製品の開発に努力してきた様が分かるような展示となっていた。クラボウは繊維事業で長年培った確かな技術を基盤に、「化成品」(化学合成によって作られた物質や製品のこと)「エレクトロニクス」「エンジニアリング」「バイオメディカル」「工作機械」「食品・サービス」「不動産」等の分野へ活動領域を広げて行くのである。その発展の経緯と内容も眺めることができたが、こうした展開がクラボウの独自性を何処まで示しているのかは、素人の私にはよく分からなかった。歴史に興味が向かいがちだったからでもあろう。
今回の「処暑の岡山・倉敷紀行」の冒頭でも触れたことだが、倉敷と言えば、大原美術館やアイビースクエアを思い浮かべる人は多いはずである。しかしながら、この二つの施設の来歴から、倉敷紡績の2代目の社長であった大原孫三郎(おおはら・まごさぶろう、1880~1943)や、その後を継いで4代目の社長となった大原總一郞(おおはら・そういちろう、1909~1968)を直ぐに思い浮かべるような人は、今となってはほとんどいないのかもしれない。時間の流れは速いので、それもやむをえない。しかしながら、忘れてはならない人物、折に触れて思い返さなければならない人物もいる。例えば大原孫三郎である。
記念館の展示には、社長在任期間が33年の長きにわたった彼の略歴が、次のように記されていた。「初代社長大原孝四郎の次男として誕生。クラボウに就職後、 孝四郎の跡を継ぎ、2代目社長に就任すると事業の多角化と従業員のための環境改善施策を次々と進める。当時、ほとんどの重役や関係者たちに猛反対される中、『儂 (わし)の眼は十年先が見える』と語り、 当時一般的だった慣習や古い考えを改め、経営者として様々な改革に取り組み今日のクラボウの礎を築いた」。
彼の経営哲学のキーワードは「労働理想主義」(labou idealism)と呼ばれており、そのことについても次のような解説があった。「大原孫三郎の労働理想主義は、 「従業員の幸福なくして事業の繁栄はなし」との言葉に表れているように「労働をより人間的に」と考え、資本も経済も産業も技術も、すべて人間のためを考えた経営を行った。 他の企業よりもより良い労働環境を提供することで、より優れた従業員を集め育てることに繋がり、さらに優れた生活環境は従業員たちの高い生産性を実現でき、それによりあげられた利益の一部は、 従業員の待遇改善に反映されるなどの好循環が実現できると考えていた」。
労働を神聖視するような考え方や、労使協調主義や経営家族主義などの経営思想とも微妙に違っている。今で言えば「労働の人間化」とでもなるのだだろうか。こうした「労働理想主義」を根幹に据えた彼の経営哲学が、当時「ほとんどの重役や関係者たちに猛反対されたのは、ある意味当然だったのかもしれない。孫三郎の実業家としてのそしてまた創業家としてのスケールの大きさが、理解され難がたかったのであろう。しかしながら、他方で世間の著名な人々からは高い評価が寄せられていた。息子の總一郞は、孫三郎の死後の1954年に次のようなことを書いている。井上太郎の『大原總一郞-へこたれない理想主義者-』(中公文庫、1998年)から引いてみる。
父は辰年生れだったから、今生きていれば八十三歳のはずである。父の残した事業は今では形態上変貌したが、内容的には存続しているものもかなり多いので、それらの業績から父に対する現在の評価はむしろ恵まれていると思う。しかし生前は必ずしも今のようには評価されていなかった。それは非常に分りにくい性格の持ち主であったからであろう。その分りにくさは茫洋として捕え難いという類のものではなかった。先鋭な矛盾を蔵しながら、その葛藤が外部に向かってはいろいろな組み合わせや強さで発散したから、人によって評価はまちまちだった。むずかしい人だったという人もあれば、親しみ易い人だったという人もあり、冷たい人だったという人もあれば、温かい人だったという人もある。要は正しく理解されなかった人であったと思う。
彼が、日頃「儂 (わし)の眼は十年先が見える」と言っていたことは先に紹介したが、その言葉をそのままタイトルにして城山三郎は大原孫三郎の生涯を描いている(新潮文庫、1997年)。他にも兼田麗子の『大原孫三郎-善意と戦略の経営者-』(中公新書、2012年)などもある。死後大分時間が経ってからこうした評伝が書かれた経営者など、他に誰かいただろうか。城山の本の表紙には、「地方の一紡績会社を有数の大企業に伸長させた経営者の道と、社会から得た財はすべて社会に返す、という信念の道。 あの治安維持法の時世に社会思想の研究機関を設立、倉敷に東洋一を目指す総合病院、 世界に誇る美の殿堂を建て……。 ひるむことを知らず夢を見続けた男」とあった。岡山県下一の大地主の息子が、世間に対する反抗の末に描いた夢である。今日でも過労死・過労自殺が後を絶たないのは、経営にそしてまた社会に、労働に関する「哲学」や「思想」や「理想」が失われてしまったからなのではあるまいか。