この夏に観た映画から(三)-『ソウルの春』のことなど-
今日は9月22日秋分の日である。秋分の日は23日だとばかり思い込んでいたので、年によってずれることを今年初めて知った。今日の横浜は小雨模様であったが、それでも30度に達したようで、相変わらず暑い。8月7日の立秋などは猛暑日の最中であったから、秋の気配がほの見えることなどなかった。このところ毎年猛烈な暑さが続くので、既に諦めも付いているが、驚かされるのはその後の残暑の酷さである。連日とんでもなく暑く、身体にこたえる。よく「暑さ寒さも彼岸まで」などと言うが、果たしてどうなることやら。夏の疲れに残暑の疲れも加わって体調を崩しかねない気配さえ感じる。年寄りに無理は禁物だということを肝に銘じなければなるまい。
残暑は言うまでもなく秋の季語であるが、こんなに長く残暑が続くようでは夏の季語に思えなくもない。手元にある歳時記を広げてみたら、遠山素子という俳人の「さびいろの残暑鉄路は海沿いに」という句が載っていた。この夏出掛けた北海道でも岡山でも海沿いにある鉄路を見たから、なおさらこの句が印象深く思えるのであろう。今日は子供に届けたい物があったので、自転車で川沿いの土手を走ってきた。五感を澄ましてみると、やはりそこここに夏の終わりとともに秋の訪れの気配があったので、忍び寄る秋をカメラに収めるべくシャッターを切った。もうしばらくすれば、日中も過ごしやすくなるのであろう。
この夏に見た映画の最後に取り上げるのは、前評判も高かった『ソウルの春』である。家の近くのイオンシネマで観た。この映画は家人に勧められて観ることになったのだが、この映画を何度か観た彼女も、自信を持って私に勧めたに違いあるまい。それだけの面白さは十分にあった。韓国では映画史上空前の大ヒット作すなわちメガヒット作となったようだ。事実にもとづくフィクションと言うのも何だかおかしな言い方だが、こうした作品をファクションと言うらしい。登場人物の名前は少し変えてあるが、何人かはすぐに想像が付く。民衆が知り得なかった権力者たち抗争の舞台裏で、当時一体何が起こっていたのか。韓国現代政治史の闇の部分に正面から向き合い、硬派のエンターテインメントとして作られた映画だったからこそ、韓国の人びとに広く受け入れられたに違いあるまい。この映画は日本でも好評で、封切り後それほど経っていないこともあって、私たちが観に出掛けた日はほぼ満席の状態だった。
映画が描くのは、1979年12月12日に全斗煥(ぜん・とかん、チョン・ドゥファン)によって引き起こされた軍事クーデター(韓国では粛軍クーデターと呼ばれている)であり、彼が軍部の指揮命令系統を無視して権力を簒奪し、新たな独裁者として登場したのは、夏でも秋でもなく冬である。タイトルに春とあるのは、韓国の全土に広がっていた民衆の民主化を求める運動が、このクーデターによって押し潰され、彼らが強く願っていたの韓国の春の訪れが挫折を余儀なくされたためである。しかしながら、春を求める運動が死に絶えたわけではない。不死鳥の如くに蘇るのであるが、そのことについては後に触れる。ここでストーリーの大筋を簡単に辿っておこう。
16年の長期に渡って独裁者として君臨し続けた大韓民国の大統領朴正熙(ぼく・せいき、パク・チョンヒ)が、1979年10月26日に大統領府で行われた宴席で自らの側近に暗殺さるところから、この映画は始まる。国中に衝撃が走るとともに、民主化を期待する国民の声は日増しに高まってゆく。 しかしながら、暗殺事件の合同捜査本部長に就任したチョン・ドゥファン保安司令官 は、陸軍内部の秘密組織であるハナ会(この組織を育てたのはパク・チョンヒである)に所属する将校たちを率い、新たな独裁者として登場すべく、同年12月12日に軍事クーデターを決行する。その一方、高潔な軍人として知られた首都警備司令官イ・テシンは、部下の中にもハナ会のメンバーが潜むというきわめて不利な状況のなか、自らの軍人としての信念と使命と誇りにもとづき、雄々しく立ち上がるのである。だが、チョン・ドゥファンの暴走を阻止することはできず、この反逆者に敗れ去るのである。その後に待っていたのは逮捕と拷問であった。
チョン・ドゥファンという悪役を演じたファン・ジョンミンも、イ・テシンという信念の人(そんな人物がいたことを、私はこの映画を観るまで知らなかった)を演じたチョン・ウソンも、共に存在感があって、いずれも本物かと見まごうばかりの実に素晴らしい演技である。この二人以外にも、それぞれの部下や上司、関係者が混乱の中入り乱れるので、いつもぼんやりと映画を観ている私などは、誰が誰やら分からなくなっていく。そう言えば、チョン・ドゥファンの腹心の部下としてクーデターにおいて重要な役割を果たし、後に大統領となった盧泰愚(ノ・テウ)もいた。そんななか、事態は短時間の内に激しく展開し息詰まるような展開を見せるので、映画の観客はハラハラさせられ続けることになる。
結末は既に分かっている。だがそれにもかかわらず、クーデターという国の命運をかけた事件の緊迫感がここまでストレートに伝わってくるのはどうしてなのか。この映画が、画面からほとばしるようなスピード感を持ってダイナミックに展開しているからに違いなかろう。これほど熱い政治映画を撮る監督のキム・ソンスの力量も大したものである。映画は、クーデターを成功させた全斗煥が権力を手中に収めたところで終わるのであるが、その彼は、翌年の1980年に光州で起きた学生や市民の反政府運動の鎮圧のために軍を投入して、血生臭い弾圧事件を引き起こすのである。不正蓄財をも伴ったこうした独裁者の強権的な振る舞いに対する民衆の批判は、その後も止むことなく、ついには失脚することになる。
この映画を見終えて帰宅したところ、家人から『KCIA 南山(なむさん)の部長たち』(監督:ウ・ミンホ、2020年)も面白い映画だと教えてもらった。『ソウルの春』の興奮冷めやらぬ私は、翌日直ぐにAmazonプライム・ビデオで視聴してみた。『ソウルの春』は大統領パク・チョンヒの暗殺から話が始まるのだが、この映画では、パク・チョンヒが大韓民国中央情報部(略称KCIA)の部長であった金裁圭(キム・ジェギュ)によって暗殺されるまでの経過が、実に丁寧に描かれており、こちらもまた一気に引きずり込まれるような映画だった。
主役のキム・ジェギュを演じているのはイ・ビョンホンである。家人の話によれば、彼は日本ではアイドル・スターとしてよく知られているようだが、経歴をみると分かるようにれっきとした映画俳優である。自分を部長に任命して重用していたはずのパク・チョンヒとの間に齟齬が生じ、少しずつ遠ざけられていくようになる。その結果、キム・ジェギュの内部には苦悩と葛藤と不信が徐々に広がっていくのだが、そのあたりが陰影を帯びた表情で的確に演じられており、何とも圧巻である。そしてまた独裁者パク・チョンヒの孤独な姿も印象深かった。
ここでも、背景にあるのは軍事独裁政権に対する民衆の抵抗運動の広がりである。その抵抗運動を描いた映画で私が観たものに、『光州5・18』(2007年)と『1987、ある闘いの真実』(2017年)がある。民主化の実現を目指して長きにわたって闘い続けてきた韓国の人々に、深い敬意を払って観た映画である。『ソウルの春』を見終えて思ったことは、では「日本の春」あるいは「東京の春」はどうなったのかということである。春はまだ来ないのか、はたまた既に過ぎ去ったのか。衰退し続けながらも沈黙を守り続けるこの社会、暑くはあっても熱くはないこの社会は、この先一体何処へ向かうのであろうか。
PHOTO ALBUM「裸木」(2024/09/27)
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