ある市民集会にて
今回掲載した文章は、じつは7月の末に書いたものである。だからもっと早くに載せるつもりでいたのだが、連日の暑さにうんざりしたこともあって、軽くて読みやすいものに差し替えた。それが、4回に渡って続いた「『後期』高齢者の『好奇』心とは」である。野分も去ってようやく一頃の猛暑も収まり掛けたような気もするので、元に戻して載せることにした。今回改めて読み直してみたのだが、時機を失した所為なのか、どうも色褪せた感じがする。出し遅れた古証文にような塩梅である。そんなことを頭に置いて読んでもらえたら幸いである。
梅雨も明けいよいよ夏本番である。小僧たちも夏休みに入った。今日などは、横浜は38度まで気温が上がるとの予想である。水浴びにプールに出掛けたが、プールの水までが生ぬるい。今夏本番と書いたが、今年も本番前の序盤から猛烈に暑い。そんな折、7月の半ばに地元で市民集会が開催され、そこで開会の挨拶を頼まれた。その集会は「トーク19区市民の会」が主催したものであり、歴史博物館のホールで開かれた。私は柄にもなく市民の会の共同代表を務めていることもあり、立場上挨拶を頼まれることがある。他の仕事はほとんどやっていないので、言ってみれば挨拶要員のようなものであろうか(笑)。
開会の挨拶など誰も真面目に聞いているわけではないのだから、型どおりに済ませておけばいいはずなのだが、この私にはどうしてもそれが出来ない。型通りというのが嫌いな性分なのである。仕方がないから、事前に挨拶の原稿を作り、時間内に収まるように添削し、何回か読み上げてみた。まあそれなりの準備をして本番に臨もうとしたのである。たかだか5分程度の挨拶なのだから、できたら今回は中身を頭に入れて原稿など見ないで話してみようと思い立った。
そこまではいいのだが、その原稿の中身がなかなか覚えられない。暑さの所為もあるのだろうが、やはり後期高齢者となって記憶力が急速に減退している所為でもあろう。不安を抱えながら挨拶するのも嫌なので、メモを手元に置いて開会の挨拶をすることにした。メモがあるだけで安心する。時折メモを見たが、いつもよりもリラックスした雰囲気で話が出来た(ような気がする-笑)。挨拶の中身は以下の通りである。
ただいま紹介いただきました高橋です。今日は、暑いなか「トーク19区市民の会」の集いにご参集いただきまして、ありがとうございます。今日の集いは、「トーク19区市民の会」が主催しているわけですが、ここで大事なのは市民の会の市民という言葉ではないでしょうか。私たちは、神奈川県の県民、横浜市や川崎市の市民、また都筑区や宮前区の区民でもあります。ですが、こうした区分は、市民の会で言うところの市民とは、だいぶ違っていると思います。
どこが違うのでしょうか。私たちが考える市民は、行政上区分された住民のことではなく、自覚的に市民になろうとしている人々のことを指しているからです。私たちは、最初から市民として存在しているわけではありません。市民を目指して、市民になろうとしている人々なのではないでしょうか。市民になるためには何が大事なのでしょうか。人によっていろいろな条件が上げられるのではないかと思いますが、この間の日本の政治状況を眺めていて私が大事だなあと感じているのは、次の三つです。
まずは「まなぶ」ことの大切さを知っていることです。都知事選挙の後も、SNS上では実にさまざまな言説が飛び交っております。それらを眺めていればあれこれの情報は手に入るのでしょうが、たぶん学んだことにはならないでしょう。何故かと言えば、そこには考えるという契機がないからです。大事なのは自分の頭で考えることです。ですから、市民の学びは、正しいとされていることを覚えることとも違っています。世の中の動きは、既に正解が分かっていることだけで成り立っているわけではありません。折に触れて、いったん立ち止まって学び考えることなしには、現状を打開する道筋は見えてきません。
二つ目は、「あらがう」ことの大切さを知っていることです。あらがうとは余り聞き慣れない言葉かもしれませんが、権力や権威に黙って追随せずに、時には異議申し立てをする勇気を持つことです。現在の自民党の政治に不満を抱いている人々は大勢いることでしょう。しかしながら、それが愚痴に終わっていれば、「あらがう」ことにはなりません。また、仲間内で現在の政権を批判し罵倒するだけでは、自己満足に陥りかねません。私たちのあらがう姿勢や言葉が、周りの人々に共感を持って受け止められているかどうか、そのことをいつも気にとめるような柔らかさが必要なのではないでしょうか。求められているのは、柔らかさを持ってあらがうことです。
そして三つ目は、「つながる」ことの大切さを知っていることです。つながることなしに変化は生まれません。熱狂では世の中は変わらないような気がします。そのうえでの話になりますが、私たちはつながることを既存の政治勢力の組み合わせとして考えがちです。政権交代を目指すうえで、市民と野党の共闘が大事なことは間違いありません。とても大事なのですが、それだけでは多数派を形成することはできません。多数派を形成するためには、「つながる」ことを、手段としてではなく、私たちの思想としていかなければなりません。
先頃のフランスの総選挙の結果を見ていて驚いたことは、新人民戦線が勝利して極右政権の誕生を阻止したというだけにとどまらず、そこには「つながる」ことの大切さが思想として脈々と息づいていることを知ったことです。自分だけが、自分たちだけが正しいと思っていては、「つながる」ことはできません。多様性を尊重するということを、あらためて大事にしたいと思います。この後講演される菱山さんの話を聞きながら、「まなぶ」こと、「あらがう」ことそして「つながる」ことの大切さを、あらためて噛みしめてみたいと思っております。以上で私の開会の挨拶とさせていただきます。
ゲストスピーカーである菱山南帆子さんの話は、市民運動の最前線で活躍されている方だけあって、臨場感に溢れた、大変興味深く、そしてまた元気の出る話だった。市民運動に拘わっている人々が待ち望んでいるのは、きっとこうした話なのであろう。私も勿論同感や共感しながら聞いていたのだが、それとともに、私たちの取り組んでいる運動がなかなか広がりを見せることが出来ないのは何故なのか、そんなことも彼女から聞いてみたいと思った。
人々が市民となることを阻んでいるのは、阿部謹也さんが言うところの「世間」というものなのだろう。それを打ち破るには、「外から見てどう見えるかと言うことには思い至らない」(『日本社会で生きると言うこと』朝日新聞社、1999年)というメンタリティーを問題にしなければならないのかもしれない。仲間内でいれば居心地はいいかもしれないが、そこには閉鎖社会の中の自己満足といった危険も潜んでいるのだ。しばらく前に渋谷でAさんとあったが、その彼が会う度に強調しているところである。さらに踏み込んでその正体を知りたいと思うのだが、こうした問いへの答えは、他人に教えてもらうようなものではなく、自分で探すしかないものなのだろう。そんなふうにも思われた。
PHOTO ALBUM「裸木」(2024/08/30)
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