暮れから正月へ(上)
今日は12月24日、クリスマスイブである。それがどうかしたかと言われそうではあるが、確かにその通りで、もはやこの年齢になれば別に特段のことがあるわけではない。それでも、12月に入ってすぐに玄関にクリスマスのリースを飾ってみた。加えて、家人にささやかなプレゼントを贈ることにした。脊椎管狭窄症の手術でたいへんだったから、それぐらいはしてあげてもよかろうと思ったのである。何とも殊勝な心掛けではある。子供たちが小さい頃のクリスマス・パーティーは、いろいろな出し物まであって実に愉しかった。そんな夢のような時代はとうに過ぎ去っており、何とも静かなクリスマスイブである。
教師も走ると言われる師走であるが、教師を辞めてから大分経つのでもはや走ることはない。ゆっくりと歩くのみである。今年の初めからスポーツジムに通い始めたが、その回数が昨日で111回となった。ジムには日曜日と月曜日には顔を出すことが出来ないので、行ける日にはかなりの頻度で出掛けたことになる。もしかしたら自分には案外合っているのかもしれない。真面目に運動するのはいいことであろうが、真面目すぎるのは問題である。これから注意しなければならないのは運動のやり過ぎであろう。あまり負荷を掛けないで、のんびりと継続するのが大事なのではあるまいか。先日知り合いから階段の上り下りがいい運動になると教えてもらった。駅やデパートに行くたびに、知人のアドバイスを思い出してできるだけ階段を使うように心掛けている。何よりも只なのがいい。
暮れには、今年一年の出来事を「自分史略年表」に書き加えることにしている。毎年の行事のようなものである。こうしておくと、過去を振り返る時にとても便利である。いつ何があったのかがすぐに分かるからである。自分史なのだから、そこに書き込むのはプライベートな出来事ばかりで、世の中の動きに触れることはない。毎年10項目ほどの出来事が並ぶ。プライベートな出来事のなかには、「自分史略年表」に書き加えることがはばかられるようなものも2~3ある。それは毎年のことであり、今年も同じである。
師走に入ってから、「戦後80年 考えよう!くらし 未来 そして平和」をテーマに都筑区の市民フォーラムが開催され、私はフォーラムの共同代表の一人として、閉会の挨拶を行った。地元の市民運動の代表を務めてから大分経つが、これが最後の仕事である。フォーラムでは、神奈川新聞の記者である石橋学さん、湘南合同法律事務所の弁護士である太田啓子さん、日本被団協の事務局次長である和田征子さんから、差別や排外主義、ジェンダー、人権、核兵器廃絶などの現状と課題について問題を提起してもらい、それを受けて意見交換が行われた。私の挨拶は以下のようなものであった。
主催者を代表して、閉会の挨拶を述べさせていただきます。始まってから大分長い時間が経過いたしましたので、皆様お疲れのことと思います。挨拶はごく簡単にいたします。 今日の集まりは、二つの点でたいへん興味深いものになったのではないかと思います。一つは、戦後80年となるこの年に、高市政権が誕生したことです。80という数字に特別な意味はありませんけれども、一つの区切りにはなろうかと思います。そうした年に、「戦後」を否定するかのようにも見える政権が誕生したのです。「戦後」は、これから何処に向かうのでしょうか。あるいはまた、私たちは「戦後」をどう捉え直せばいいのでしょうか。メディアと人権と平和をめぐる問題提起を受けながら、そんなことを考えさせられました。
もう一つは、今日の集まりが、いつものような集会や講演会ではなく、フォーラムとして開催されたことです。フォーラムとは公開の場での討論という意味です。学ぶためには、聞くだけではなく他者と対話することがたいへん重要です。しかし残念ながら、対話の文化が日本社会には今もって根付いてはおりません。それどころか、ネットの世界の広がりは、自分の主張の正しさのみを強調し、すぐに断定したがる人々を増やしております。こうした風潮は、私たちとも無縁ではありません。そんなことに気付かされました。 最後に、お礼を述べさせていただきます。一つは、大変お忙しいなか、今日のフォーラムのために問題提起の労をとっていただいた石橋さん、太田さん、和田さんのお三方に、もう一つは、年末の平日にもかかわらず、フォーラムに顔を出していただいた皆さん方にです。本日はどうもありがとうございました。以上で閉会の挨拶とさせていただきます。
フォーラム自体は120名もの方々が参加してくれたので、予想以上の盛り上がりだった。私の閉会の挨拶はごくごく簡単なものだったが、これが最後だと思うと一抹の寂しさを感じないでもなかった。その後しばらくして友人の大塚さんからメールをもらった。それは、朴壽南(パク・ジュナン)と娘の朴麻衣の共同監督の映画『よみがえる声』が、横浜のシネマリンで上映されていることを知らせるものだった。たいへん貴重な情報提供だったので、早速観に出掛けた。重く暗い映画だったので気持ちは沈みがちだったが、 目を背けることの出来ない作品だった。映画館で購入したカタログには、朴壽南監督とこの映画が次のように紹介されていた。
1935年3月、三重県に生まれた在日朝鮮人2世の朴壽南は、1958年に起きた小松川事件の在日朝鮮人2世の少年死刑囚・李珍宇(イ・ジヌ)との往復書簡「罪と死と愛と」で注目を集め、翌年から、植民地支配による強制連行や、広島と長崎で被爆した在日朝鮮人の声を掘り起こし証言集を出版。さらにペンをカメラにもちかえ、1986年に朝鮮人被爆者のドキュメンタリー映画「もうひとつのヒロシマーアリランのうた」を初監督・製作した。その後も「アリランのうたーオキナワからの証言」、「ぬちがふぅ(命果報)—玉砕場からの証言―」、「沈黙―立ち上がる慰安婦」といった3作のドキュメンタリー作品を送り出してきた。
娘の朴麻衣は、母の生涯の「旅」をたどりながら、未公開のまま放置されていた10万フメート(約50時間分)のフィルムの復元作業にとりかかる。「旅」とは植民地時代に生まれた母が、日本で生きるアイデンティティをとりもどしていく 「旅」である。長崎の軍艦島に連行された後用工、沖縄戦の朝鮮人元軍属、そして日本軍の慰安婦にされた女性たち。母の朴壽南が、生涯をかけて記録した映像と音声をすくい出し、歴史の証言者の声を描き出す。
2025年は、戦後80年でもありまた昭和100年でもある。こうした年に、この映画を通じて「歴史に葬られた声なき声」を聞くことができたのは、きわめて意義深いことであった。ほとんど何も知らずに今まで暮らしてきた自分が、何とも恥ずかしかった。声なき声を聞けば、「日本人ファースト」などとはとても言えるものではなかろう。その後大塚さんと会って、昼に美味しい蕎麦を食べながらいつものように雑談を交わした。彼は該博な知識の持ち主なので、いつも教えられることが多い。私の身辺にも大きな変化があったので、そのこともさらりと伝えておいた。大袈裟に語る必要など何もない。老兵は静かに去るだけでいいのだろう。
たまプラーザ駅で別れてから、駅側の東急デパートに久しぶりに顔を出してみた。昔はよく来たものだが、このところすっかり足が遠ざかっていた。様変わりした館内を巡ったが、当時の煌めきはもう何処にもなかった。帰宅してから、必要があって大塚さんから以前贈ってもらった『「日本左翼史」に挑む』(あけび書房、2023年)を広げた。既に目を通したはずなのに、見落としていたことがあれこれと見つかって、「粗」読で済ましていたことが恥ずかしくなった。そんなこともあって、この冬に読み直すことにした。それだけの価値のある著作である。彼もまた「歴史に葬られた声なき声」を伝えようとしているのであろう。
最後に触れておきたいのは、2025年の「M-1グランプリ」を巡る話である。真面目な話の後に、突然場違いな話が登場したと思われるかもしれない。それが私である。子供が大のお笑い好きなこともあって、21日に開催されたM-1を同時に視聴して、どの組が面白かったのかお互いに論評することになった。実は子供だけではなく私もまたお笑いは好きであり、M-1はよく見てきた。だから子供はこうした妙な企画を考え付いたのであろう。決勝戦に残った10組は1~2組を除いてすべて笑いのレベルが高かったので、テレビの前で観ているだけの私も大いに笑った。
M1の始まる前に霜降り明星の粗品と笑い飯の哲夫の間でバトルがあり、それが場外乱闘ふうになりかけていたので、9名の審査員の審査にも注目が集まっていた。出場者が審査員によって審査されるだけではなく、審査員もまたテレビの視聴者によって審査されるのである。当たり障りのない審査だった1~2名の審査員を除けば、他は全員聞き応えのある審査内容であった。最終3組に残ったのはドンデコルテ、エバース、たくろうの3組だった。本命に見えたエバースはネタの選択を間違ったようで大失速したが、3組の笑いともなかなかシュールなスタイルで時代を斬っており、笑いの新時代が到来したことを告げていた。はげやデブや奇妙な髪型、衣装などの外見や、下ネタや、奇抜な動きや派手なアクション、煩すぎる声などで笑いを取る時代は、とうに去ったのであろう。
こうして「M-1グランプリ」はいつになく盛り上がったので、大会のスローガンである「萬歳万歳」にも共感するところ大であった。出場者の多くは、苦節10年の苦しい生活を強いられているはずだが、そんなことはおくびにも出さずに必死に笑いを取ろうとしていた。涙ぐましいほどの奮闘ぶりであり、そのことを思うと、暖かい部屋で旨いものを食べながらテレビを前にして彼らの笑いを論評しているのが、何とも申し訳ない気になった。そして、翻ってではなぜこれほどまでに我々は笑いを求めるのかも気になった。干からびて潤いをなくした日常世界からは笑いが失われているからなのか。広がっているのは、笑いとは無縁な多種多様のハラスメントばかりである。来年への期待を勝手に述べるならば、ゲーテの最後の言葉をもじって「もっと笑いを!」とでもなろうか。「笑門来福」を願う歳末である。

