盛暑の岩手・青森紀行(九)-下北半島の夏(中)-
寺山修司記念館を後にして、われわれ一行は最後の宿泊地であるむつ市の大湊に向かった。陸奥では「むつ」か「みちのく」か分からないからかと思っていたが、それだけではなくそこには歴史的な経緯があった。1959年に南部の商業と政治の中心地であった田名部町と旧海軍の要港として発展した大湊町が合併し、大湊田名部市が誕生するのだが、合併の翌年にむつ市に改称されている。全国で初のひらがな表記の市となったとのこと。
陸奥(むつ)と言えば戦艦陸奥が思い出される。長門と並んで戦前の連合艦隊の旗艦(司令長官が乗っている軍艦のこと)であったので、海軍の象徴として世間によく知られた軍艦であった。そんなことも影響していたのかもしれない。大湊が北部方面の海上防衛を担う重要な基地だったことなど、今回出掛けてきて初めて知った。今でも自衛隊の基地があるところを見ると、その役割は変わっていないのであろう。
宿泊したホテルは駅のすぐ側で、この駅は野辺地(のへじ)と大湊を結ぶ大湊線の終着駅である。駅の玄関には「てっぺんの終着駅」と書かれた看板が掛けられていた。本州最北端の駅を名乗ってはいないが、私にとっては下北半島にある終着駅だということが印象深かった。とうとう最果ての駅に来たのである。ここは駅前の賑わいなどとはまったく無縁である。そろそろ晩夏に入ろうとする季節にこんなところまで出掛けて来たら、誰もが旅情をかき立てられるに違いなかろう。大湊の先には恐山(おそれざん)があるのみである。
翌朝朝食後に、写真を撮ろうと思って外に出てみた。通りには誰もおらず何とも静かだった。まず駅の構内に入れてもらい、終着駅の写真を撮った。次に海に出てみた。通りから少し歩けば大湊湾であり、その先が陸奥(むつ)湾となる。この辺りはホタテの養殖でよく知られている。通りにあったいくつかの店は既に廃業したようであり、そのまま放置されていたから何とも侘しい光景であった。私好みの光景なので、写真の素材には事欠かないとは言うものの、店をたたんだ人々のことを思うと、胸が痛む。晩夏の海を見てもなかなか心は晴れない。駅の裏側に出てみたが、雑草ばかりが伸び放題のまま繁茂していた。結局、行きも帰りも誰とも会うことはなかった。改めて思うことだが、下北がこうしたところだからこそ原発が忍び寄ってきたのであろう。
最終日は、斗南(となみ)藩に関連した史跡地を巡り、その後恐山に向かった。午後には野辺地町に入り、歴史民俗資料館を訪ね常夜燈公園や北前船を復元したみちのく丸を眺めてきた。他にも訪れた所はあれこれあるのだが、私が何かを書きたいと思ったのは、この三カ所である。とりわけ関心を抱いたのは、斗南藩の悲劇の歴史である。斗南藩とは、ここ下北半島の最果ての地にわずか2年たらずあった藩であり、戊辰戦争で敗者となり領地を没収された会津藩の藩士たちが、移封された場所である。ほとんど島流しにあったようなものであろう。そんなところにやたらに強い関心を抱くのは、私が福島育ちで会津とも縁浅からぬ関係があるからに違いない。その話は最後に触れることにして、まずは恐山から書き進めてみる。
恐山(おそれざん)。その名前からは、なんともおどろおどろしい場所が想像されることだろう。恐の字がどうしても恐怖の恐に結び付くからである。だがその名の由来を調べてみると、もともとは宇曽利(うそり)山の宇曽利が転じたもののようだ。宇曽利とはアイヌ語で「ウショロ」(入江や湾を意味する)のことであり、かつて湖周辺の地形を指した言葉であるという。恐山の側には昔のままの宇曽利山湖がある。
恐山菩提寺は、高野山や比叡山と並ぶ日本の三大霊場の一つとされており、9世紀の中頃に天台宗の慈覚大師円仁(えんにん)が開基したという。長らく天台宗の寺院であったが、16世紀の半ばに曹洞宗の僧侶たちによって再興され、今は曹洞宗の寺院となっている。本坊(末寺を統括する本寺)はむつ市田名部にある円通寺である。むつ市を中心に下北地方では、「人は死ねば(魂は)お山(恐山)さ行ぐ」と言い伝えられてきた。山中に見られる奇観を僧侶たちが死後の世界や極楽浄土に擬したことによって、広く信仰の場として知られるようになり、各地から多くの参拝者が訪れるようになったようだ。霊場というと霊の字がいかにも不気味な感じを与えるかもしれないが、古くから信仰の対象となってきた神聖な場所を指すにすぎない。勿論ながら、怖がるような場所ではない。
恐山は口寄せを行うイタコが集まることでも知られており、そのことも怖さを増幅させているのかもしれない。口寄せとは、霊を自分に降霊(憑依(ひょうい)のこと)させて、霊の代わりにその意志などを語ることを言う。調べてみると、恐山で口寄せが行われるようになったのは戦後になってからであり、しかもこうした女霊媒師は、八戸や青森から恐山の大祭や秋詣りの期間にのみ出張してきており、むつ市には定住していないというのである。それどころか、恐山菩提寺はイタコについてまったく関与していないようなのだが、そのことを南直哉(みなみ・じきさい)の『恐山 死者のいる場所』(新潮新書、2012年)を読んで初めて知った。著者は、当時恐山菩提寺の院代(住職代理)を務めていた禅僧である。
われわれが恐山に登った日も空は晴れ渡っており、熱中症の不安を覚えるほどの暑さだった。そんなわけで、年寄りの私は山道を登って奥にある地蔵堂へと向かうのを早々と断念し、一行から外れて一人周りを彷徨いてみた。硫黄の所為で緑の草木はなく、何処を歩いても白い石ばかりである。場所が場所だからなのだろう、この石が人間の骨を連想させた。一人歩きながらさまざまな死者を追慕してみた。私の周りでもこれまでにたくさんの人々が死んだものである。最近では、同じ団地に住む二人のMさんが亡くなった。所々に石が積み上げられていたので、私も小さな石を一つ選んでのせてみた。またあちこちに風車も置かれていた。幼くして死んだ子供やこの世に生まれることさえかなわなかった水子の供養にと、飾られたものであろうか。子を思う親の気持ちが痛いほど伝わり、いささか哀しい光景ではあった。
恐山は死者を偲ぶ場所であり、私には怖い場所どころか懐かしい場所のようにも思えた。はるばるここまで来た甲斐があったというものである。先の南は次のように言う。「死後の世界や霊魂のことは、私にはわかりません。しかし、死者がその存在を消滅させないことは知っています。死者は彼を想う人の、その想いの中に厳然と存在します。 それは霊魂や幽霊どころではない、時には生きている人間よりリアルに存在するのです。ならば、その死者を想う自らの気持ちを美しいものとすることが、何よりの供養ではないでしょうか。いまは悲しみと後悔の中であっても、いつの日か懐かしく優しい気持ちで、故人の一番幸福であった頃の姿を想い出せることが、私はとても大切なことだと思うわけです。一番の供養は『死者を想い出す』ことなのです。どのような宗派でどのような儀式をしたか、あるいは葬式や戒名料にいくら掛けたかということは、関係のないことなのです」。その言葉に妙に納得するものがあった。
続いて、野辺地について触れてみよう。ここは古くから交通の要衝として発展してきたようで、江戸末期から明治の初期にかけて北前船が往来し、日本海沿岸の港や大阪、函館などと交易して栄えた場所だという。当時は豪商が軒を連ねていたとのこと。南部藩有数の商港だったのである。公園にあった常夜燈は当時の名残であり、町のシンボルとなっているとのこと。どこの寄港地も昔栄えたことを強調するのが常だから、どれほどの繁栄ぶりだったのかは判然としない。北前船の寄港地や船主の集落は、文化庁によって日本遺産として認定されており、「荒波を越えた男たちが紡いだ異空間」などと喧伝されてはいるのだが、どうしても今日の賑わいから取り残された場所のように思えてしまうからであろう。
近くにあった「みちのく丸」だが、これは2005年に復元建造された北前船である。北前船が、大坂(大阪)を起点として、日本海沿岸の湊に寄港しながら蝦夷地(北海道)まで年一往復で結び、各地で物資を売り買いして利益をあげたことは、よく知られていよう。米や海産物などの食料や肥料、日用品等なんでも運び、経済のみならず文化の交流にも重要な役割を果たしたのである。その北前船が野辺地にまで寄港していたとは知らなかった。しかしながら、現存する北前船は1隻もない。こうしたことから、失われつつある和船の建造技術や構造の発達過程を紹介し、さらには北前船の歴史や文化を後世に伝えるために「みちのく丸」が復元建造されたのだという。「みちのく丸」は帆を上げて航行できる唯一の大型和船で、テレビドラマで使用されたり北前船ゆかりの港に寄港する日本海周航事業でも活躍したとのこと。
長さ32メートル幅8メートルもある大型の北前船で、文字通りの千石船である。近くによって見上げると、夏の海と空に映えて実に堂々とした美しい船であった。船大工たちによって建造され、2014年に北前船の寄港地として栄えた歴史を持つ野辺地町に譲渡されたのだという。先の常夜燈と並んでいるので、昔の栄華を偲ぶに相応しい船である。では現在の野辺地町はどんな状況なのか。過疎化が急速に進行中なので、町全体に侘しさが増している。過去の遺物に頼って町おこしを図るのは、やはり難しいのかもしれない。物産店で昼食を摂ったあと店内を見渡していたら、下北名産のホタテの貝殻でできたビキニの水着が置いてあった。そのあまりにも露出度の高い意匠が、下北の夏には似合わないようにも思われ、かえって寂しさが募った。