盛暑の岩手・青森紀行(六)-花巻と盛岡の三人(中)-

 次に取り上げるのは石川啄木である。彼とは、岩手銀行赤レンガ館の近くにあった「もりおか啄木・賢治青春館」で出会った。ここで手にしたリーフレットには次のようなことが書いてあった。「もりおか啄木・賢治青春館は、旧第九十銀行本店本館を保存活用し、 石川啄木と宮沢賢治が青春を育んだ盛岡のまちと二人について紹介しています。日本を代表する文学者となった二人は、時期はすれ違っていますが同じ盛岡中学校に学びました。当時の盛岡は近代的な洋風建築が建ちはじめ、モダンな雰囲気が漂う街でした。啄木と賢治が愛した当時の盛岡の街と二人の青春時代に思いを馳せながら、青春館でのひとときをお楽しみください」。入ると館内には、高田博厚(たかた・ひろあつ)作の賢治像とともに、舟越保武(ふなこし・やすたけ)作の啄木像があった。高田も著名な彫刻家である。

 元は銀行の建物だったということなので、外観が記念館らしからぬ意匠なのは勿論だが、館内も旧さを生かしてなかなか堂々とした作りである。喫茶コーナーも時代を感じさせる雰囲気で、ここで何とも旨いアイスコーヒーを飲んだ。東北の夏も思いの外暑い。展示を眺めるのはほどほどにして、貧窮のうちに若くして世を去った啄木に思いを馳せてみた。彼は26歳という若さで亡くなっており、いわば青春の最中に人生を閉じたようなものである。青春館と名付けられたこの場所にあまりにも相応しい人物のように思われた。啄木も世によく知られた人物なので、あれこれと履歴を紹介するまでもなかろうとは思ったが、盛岡との関係を知るために必要なので、ごく簡単に触れておきたい。

 啄木は、明治19年2月に日戸(ひのと)村、現・盛岡市)の常光寺に、住職の父石川一禎(いしかわ・いってい)、母カツの長男として生まれた。その翌年に父の転任によって渋民村(現・盛岡市)の宝徳寺へと移り、幼少の時期をこの寺で過ごしその後渋民尋常小学校に入学。幼い頃より優秀だった啄木は、9歳の時に親元を離れて盛岡に移り、盛岡高等小学校に進む。3年間優れた成績を収め、盛岡尋常中学校(現・盛岡一高)へ進学。この時期に、生涯の友となる金田一京助や妻となる堀合節子と出会う。

 盛岡中学校では、学年が進むにつれて文学で身を立てようとの思いが募り、中学を中退。明治35年に上京し、「明星」を編集していた与謝野鉄幹・晶子の知遇を得る。そこに集まる文学仲間から大きな影響を受けたが、病身となったために父が転居していた盛岡に明治38年に帰郷。父の転居の理由は、この年父が宝徳寺の住職を罷免されたためである。その後、女学校に通う堀合節子と結婚し、渋民に再び戻るまでの9カ月間を盛岡で暮らす。同年処女詩集『あこがれ』を刊行し、このころ啄木鳥(たくぼくちょう、きつつきのこと)の樹をつつく音にちなんで、啄木というペンネームにしたのだという。

 盛岡での生活に窮して再び渋民に戻った啄木は、明治39年に母校である渋民尋常小学校の代用教員として教鞭をとるが、ストライキを起こして1年あまりで免職となる。その後、新しい生活の場を求めて明治40年に北海道へと渡る。北海道では、函館、札幌、小樽、釧路と転々としながら過ごす。再度文学活動に挑戦しようと、明治41年に22歳の啄木は妻子を函館に残して金田一京助を頼って再び上京し、その後4年間創作活動に専念。この間『一握の砂』(明治43年)を刊行したが、1912(明治45)年4月に貧苦と病気のために死去。没後まもなく『悲しき玩具』が刊行された。妻の節子も翌1913年に死去。

  こんなふうに彼の生涯を辿ってみると、盛岡とりわけ渋民村との関係が深いことがよく分かる。だから何処にいても、望郷の念に駆られて盛岡での暮らしや風景を懐かしく思い出していたに違いない。しかしながら、盛岡の地を愛していたかどうかとなると話は別であろう。彼の『ローマ字日記』(岩波文庫、1977年)には、「渋民! 忘れんとして忘れ得ぬのは 渋民だ! 渋民! 渋民! 我を育て、そして迫害した渋民!」とある。渋民すなわち盛岡は啄木にとっては愛憎半ばした所だが、彼が愛していたのはどうも函館であり、墓はそこに建っている。可能であれば、今回啄木の生まれ故郷である渋民にも顔を出したいところだったが、行程の都合もあってそれは叶わなかった。

 昔出掛けた釧路もそうであったように、盛岡市内のあちこちに彼の歌碑がある。盛岡観光情報によれば、駅前の「ふるさとの山に向かひて 言ふとなし ふるさとの山はありがたきかな」から始まり、「新しき明日の来るを信ずという 自分の言葉に 嘘はなけれど」、「盛岡の中学校の露台(バルコン)」の 欄干(てすり)に最一度(もいちど) 我を倚らしめ」、「己が名をほのかに呼びて 涙せし 十四の春にかへる術なし」、「病のごと 思郷のこころ湧く日なり 目にあおぞらの煙かなしも」等々、結構な数である。紹介した最後の歌は、『一握の砂』の「煙」の章の巻頭に置かれた歌である。あらためて読んでみると、彼の哀しみがひたひたと湧いてくるかのようだ。この章には、盛岡での青春時代を懐かしんだ歌がたくさん収録されている。

 今回の調査旅行で私たちが見た歌碑は、盛岡城跡(じょうあと)公園に建てられていたものだけだった。そこには「不来方のお城の草に寝転びて 空に吸われし 十五の心」と刻まれていた。何とも伸びやかで爽やかな歌である。まだ貧窮に困惑させられてはいない頃だったからであろう。この私もついつい歌碑を前にして晴れ渡った空を見上げてみた。何とも爽やかな夏空であった。もしも一人で出掛けてきて周りに誰もいなければ、十五の頃を懐かしんで芝生に寝転んだかもしれない。

 不来方(こずかた)とは盛岡の古称。彼には「石をもて追はれるごとく ふるさとを出しかなしみ 消ゆる時なし」という作品もあるが、その歌碑はどこかにあるのだろうか。もしもあるのなら一度眺めてみたいと思った。彼の深い悲しみにも触れてみたかったからである。しかしながら、そんな歌碑が盛岡に建てられているはずもなかろう。

 啄木の歌う「ふるさとを出しかなしみ」は、何処から何故に生じたのであろうか。その大きな切っ掛けとなったのは、父一禎が宗費(お寺が曹洞宗の本部に払う会費のようなもの)を滞納滞納したために、宝徳寺住職を罷免され、家族とともに寺を出なければならなくなったことである。1905(明治38)年、啄木が18歳の時のことであった。この事件によって、啄木の暮らしは急速に暗転していく。天才詩人としてこれから活躍しようと思っていた彼の肩には、家族の生活を支えなければならないという重圧がのしかかってきたからである。こうして、「文学」と「生活」の狭間で苦悩する人生が、死ぬまで続くことになったのである。

 数ある啄木の歌碑の中で、最初に建てられた歌碑のことについても、ここで一言触れておきたい。啄木の死後10年目の命日に渋民村に建てられたこの歌碑には、「やわらかに柳あをめる 北上の岸邊目に見ゆ 泣けとごとくに」と刻まれていることはよく知られていると思うが、裏面には「大正十一年四月十三日無名青年の徒之を建つ」とあるとのこと。では「無名青年の徒」とは、いったい誰のことなのか。気になるところである。

 『若きいのちへの旅』(労働旬報社、1986年)を読むと、次のようなことが分かる。「『無名青年の徒』とは、啄木晩年の社会主義思想をうけつぐ一群の青年たちだったのである。1921(大正10)年、若い社会主義者たちが集まって、盛岡に『牧民会』という社会主義団体を結社した。その一団の青年たちが、啄木の代用教員時代の教え子も含めて中心になりこの歌碑を建てた」のだという。「新しき明日の来るを信ず」と歌った、いかにも民衆詩人啄木に相応しいエピソードなのではあるまいか。この牧民会には、賢治も出入りしていたとのこと。

 この間、啄木に関する文章をブログに綴っている最中に、興味深い出来事があった。昔から懇意にしているAさんとは飲み会で、中学時代に同級だったMさんとは電話で、青春時代の思い出話を交わす機会があったのである。そう言えば、Aさんは盛岡の出身であった。読書が好きで当時からませていた彼は、高校時代に授業をサボって城跡公園や中津川の土手を彷徨いていたらしい。何やら啄木まがいである。当然ながら城跡公園の歌碑のことも知っていた。その頃の思い出話を懐かしそうに語ってくれた。

 もう一人のMさんとは、中学時代の思い出などをあれこれと話した。長い人生を経るなかでは、いろいろとたいへんな苦労もあったとのことだった。Mさんもまた読書が趣味で、今流行のものよりも既に亡くなった作家の本を読むのが好きだという。話のなかに突然北杜夫が登場したので、いたく驚いた。懐かしい話がしばらく続いた。この私は、途切れることなく話を続けることができたので、内心ほっとした。

 この二人と話をしながら、遠く過ぎ去った「十五の心」や「十四の春」の頃を思い出して、この私もいつになく思郷の念に駆られた。思郷という言葉を、啄木の歌を通じて今回初めて知った。もはやその頃に「かへる術」はないので、懐かしさばかりが募っていく。テレビドラマ「やすらぎの郷」の主題歌でもあった中島みゆきの歌う「慕情」には、「甘えてはいけない 時に情けはない」や「振り向く景色は あまりに遠い」といった歌詞があり、そして「限りない愚かさ 限りない慕情」と続く。何とも切ない思いに駆られる曲である。もしかしたら、Mさんは私と似たような思いでいたのかもしれない。