「店主の写真帖」への改題にあたって

 2年ほど前から、ホームページ上に「私の写真帖」と題した欄を設けて、勤務先を定年退職したあとに撮りためた写真のなかからお気に入りのものを選んで、公開してきた。以前からそんなことをやってみたいと思っていたし、時を経るに従ってそうした気持ちがだんだんと強まってきたからである。現在は、月に2回ブログに雑文を書き散らすことが私の老後の道楽なのであるが、それに写真までもが加わることになった。病膏肓(こうこう)に入るとはこうしたことを言うに違いなかろう。私が罹っているのは「承認欲求」病という現代の難病なので、そう簡単には治らない。

 こうなったのは、3年ほど前にスマホを買い換えたついでに一念発起し、あれこれと悪戦苦闘を繰り返しながらようやく写真を閲覧してもらえるところにまでこぎ着けることができたからである。しかしながら、これまではブログに使用したものを40~50枚纏めて掲載しただけだった。それらの写真は、少しはましな方ではないかと自分で勝手に思っていたが、そんな写真など勿論ごくごくわずかである。

 しかしながら、写真をまとめて眺めてみると、自分がどのような風景に「美」を感じ、何を懐かしがっているのか(同時に、写真の腕前がどの程度なのかも)、一目瞭然である。だから、心の内を知られるようにも思われて、何となく気恥ずかしくもあった。立派な写真が撮れていると自惚れているわけではない。私の写真など下手の横好きの類いである。だが、一枚一枚の写真にはそれぞれに思い出があって、何とも懐かしい思いがするのである。そんなわけだから、「私の写真帖」はまずは自分のためのものであったに違いなかろう。考えてみれば、ブログ自体が老後の道楽に過ぎないのだから、そうなるのも当然至極である。

 そんなわけで、これまではブログに使用した写真を第1集から第11集に分けて掲載してきた。しかしながら、まったく何の脈絡もない写真をブログにたくさん並べられても、眺める方はきっと戸惑うはずだし、そしてまたきっとすぐに飽きることだろう。やはり少しはテーマ性を持たせなければ、人様に観てはもらうわけにはいかないのではないかと思うようになった。

 シリーズ「裸木」は次号の第10号で終刊となる。終刊号のタイトルは、「何処から、そして何処へ」とするつもりである。問題はその後である。できれば、シリーズ「晩景」と銘打って、写真半分雑文半分の写文集とでも言えるような薄い冊子を作ってみたいと考えている。そんな目論見があるものだから、これまでに撮りためた写真をすべて一カ所に纏め、20ほどのテーマごとに分類してみた。この間そんなことをやったという話は、既にブログに紹介済みである。

 そこには、勿論ながら「私の写真帖」で紹介した写真もすべて含まれている。そんなわけで、これまで掲載してきた「私の写真帖」の写真をブログからすべて削除し、次回からは「店主の写真帖」と改題してテーマ別に整理し直した写真を、順次載せてみることにした。もしかしたら、少しは見やすくなるかもしれない。シリーズ「晩景」の刊行に向けての下準備といったところか。

 話は変わるが、先日知り合いの写真展に近くのホールまで足を運んだ。彼は、友人と二人でハノイに写真撮影の旅行に出掛けたようで、主に旧市街の写真がたくさん飾られていた。撮影のためだけの海外旅行とは、なかなか贅沢である。そのためもあってか、見応えのある写真がたくさんあった。彼はいつもモノクロームの写真ばかりを撮っている。色が無くなった分だけ、見る側の想像力がかき立てられるように思われた。特に興味深かったのは、ホールの入り口にあった挨拶文である。「ハノイ逍遥」と題して次のようなことが書かれていた。読みながら、自分も「心の中を旅している」ような写真をとってみたいものだと思った。

 撮影した写真を一枚一枚 PCのモニターで見ながらなぜここでカメラのシャッターを押したのか記憶をたどっています。明確に記憶しているものもあればなぜここでシャッターを押したのだろうかとしばし思い出そうとすることもあります。そのはきわめて個人的な要因である気がしています。目に入ってくる重さや人々の行為が、私が今住んでいる横浜の街や旅行先で会ったと比較したち。 私が今まで生きてきた人生の一場面を思い出したり、これからの自分をその風景そ行為の中に見出したりすることがシャッターを押すになっている気がします。モニターに出てくる写真を見ながらなぜ”と思いめぐらすことは大げさに答えば自分の心の中を旅しているように思えます。

 カメラを片手にハノイの市街を歩き回り、大きな通りからちょっと路地に入ると瞬時に光の明るさや色合いが変わりないや空気の温度、湿度も変わったように感じ、その変化が自分の感覚の感度を上げ、意識の奥にあった記や想いが呼び出されることでシャッターを押しているように感じます。ご来場された方々が展示された作品を見ることによって、私と同じように何らかの記憶や想いがひきだされることがありましたら私の喜びでもあります。