盛暑の岩手・青森紀行(三)-柳田國男と佐々木喜善(前)-
月2回のペースでブログに投稿することにして、ゆったりとした気分で再出発したのだが、先日人文科学研究所の編集担当の方から『月報』の原稿の締め切りが12月初めになる予定だとのメールがあった。私は、調査旅行に出掛けるたびに旅日記のようなものを書いているが、その元になっているのはブログの文章である。だとすると、11月の末には「盛暑の岩手・青森紀行」を終了させておかなければならない。月2回などと悠長なことは言っていられなくなった。私は研究所の研究員ではなく参与という身分であり、原稿を書かせてもらう立場なので、指示に従うのは当然であろう。そんなわけで、ブログの文章ができ次第どんどんアップすることにした。なかなか思い通りにはいかないものである。
『遠野物語』は、柳田國男の名著として広く世に知られている。そしてまた、著者である柳田國男も、日本における民俗学の創始者として高い評価を得ており、あまりにも高名な存在である。巨星であり巨人であり巨峰であるということか。しかしながら、その彼に遠野の民話を語り聞かせた佐々木喜善(ささき・きぜん)のことは、果たしてどれだけの人が知っているのだろうか。遠野には彼の名を冠した賞があるぐらいだから、地元は勿論県内でもよく知られた存在なのであろうが、余所ではそれほど知られてはいないのではあるまいか。
この二人はあまりにも対照的な存在である。今であれば、筆者柳田國男、語り佐々木喜善として共著になってもおかしくはない『遠野物語』だが、そうはならなかった。喜善はこの著作をどんな思いで手にしたのであろうか。その高い評価をどんな思いで聞いていたのであろうか。そこに嫉妬心などは兆さなかったのであろうか。元来臍曲がりで下世話な私は、柳田國男という立派な主役よりも喜善というあまり目立たない脇役の方にいたく興味を引かれた。喜善の名は、『遠野物語』の冒頭の序文に登場する。名文の誉れ高いその一文を紹介してみよう。
この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より開きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分折々訪ね来たりこの話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加せず感じたるままを書きたり。思うに遠野郷にはこの類の物語なお教百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神(やまのかみ)山人(やまびと)の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広(ちんしょうごこう)のみ。
昨年八月の末自分は遠野郷に遊びたり。花巻より十余里の路上には町場三ヶ所あり。その他はただ青き山と原野なり。人煙の稀少なること北海道石狩の平野よりも甚(はなは)だし。あるいは新道なるがゆえに民居の来たり就ける者少なきか。遠野の城下はすなわち煙花の街なり。馬を駅亭の主人に借りてひとり郊外の村々を巡りたり。その馬は黔(くろ)き海草をもって作りたる厚総(あつぶさ)を掛けたり。虻(あぶ)多きためなり。猿ヶ石の渓谷は土肥えてよく拓けたり。路傍に石塔の多きこと諸国その比を知らず。 高処より展望すれば早稲まさに熟し晩稲は花盛りにて水はことごとく落ちて川にあり。(中略)
思うにこの類の書 の書物は少なくも現代の流行にあらず。いかに印刷が容易なればとてこんな本を出版し自己の狭隘なる趣味をもって他人に強いんとするは無作法の仕業なりという人あらん。されどあえて答う。かかる話を聞きかかる処を見て来て後これを人に語りたがらざる者果たしてありや。そのような沈黙にしてかっ演深き人は少なくも自分の友人の中にはある事なし。(中略)
要するにこの書は現在の事実なり。単にこれのみをもってするも立派なる存在理由ありと信ず。ただ鏡石子は年わずかに二十四五自分もこれに十歳長ずるのみ。今の事業多き時代に生れながら問題の大小をも弁えず、その力を用いるところ当を失えりと言う人あらばいかん。明神の山の木兎のごとくあまりにその耳を尖らしあまりにその眼を丸くし過ぎたりと責むる人あらばいかん。はて是非もなし。この責任のみは自分が負わねばならぬなり。
おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろふ笑ふらんかも
さすが碩学の人の文章であり、確かに読ませる書きっぷりである。喜善には、こうした文章は書けなかったようにも思われる。浅学の私では理解できないところだけでも補足しておく。陳勝呉広とは、ともに兵を挙げて秦の滅亡の端を開いた二人の人物陳勝と呉広のことであり、転じて物事の先駆けを表す言葉だとのこと。そして末尾に添えられた一首の歌意だが、「時代を超えて生きる翁のように、飛びもせず鳴きもしないで遠くの奥深い森に住むフクロウは、(『遠野物語』のようなものをつまらないと)笑うであろうか」ということになる。
この序文には、 佐々木喜善の名が三度出てくる。「すべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり」と「鏡石君は話し上手にはあらざれども誠実なる人」と「鏡石子は年わずかに二十四五」の3カ所である。その意味では、柳田國男はきちんと喜善に礼を尽くしていると言うべきかもしれない。鏡石(きょうせき)とは、喜善のペンネームである。20代の半ばでペンネームなどを持っていたのは何故か。彼は小説家として身を立てたいと思っていたからである。思っていたなどと書いたが、そんな生易しいものではない。熱望し渇望していたのである。文学という魔物に取り憑かれていたとでも言うべきか。鏡石の鏡は、私淑していた泉鏡花の鏡から、石は漱石の石から取られていたとのこと(石巻の石であると書く著作もある)。
私が喜善に興味を持ったのは、先に触れたようなまったく下世話な推測からだが、それがはっきりした輪郭を持つことになったのは、阿刀田高の『続ものがたり風土記』(集英社、2003年)の第一章やそこに登場する長尾宇迦(ながお・うか、1926~2018)の『幽霊記-小説『遠野物語』ー』(新人物往来社、2010年)を読んでからである。まずは阿刀田の本から紹介してみる。そこには次のようなことが書かれていた。柳田國男と佐々木喜善の二人の関係についてまったく知らなかった私は、一読していたく驚いた。引用が大分長くなるが紹介してみよう。
柳田国男は東京帝国大学の法科を卒業後、農商務省のエリート官僚として農政の指導的な実務を担当するかたわら、若い頃から関心を抱いていた詩歌の道を深め、次第に民俗学的な研究に独自の著述を著わすようになる。いわゆる柳田民俗学の誕生であった。明治四十一年、 まさに柳田が民俗学への道をさぐり始めていた頃、文学仲間の作家・水野葉舟(みずの・ようしゅう、1883~1947)を介して岩手の遠野に在住する青年・佐々木喜善(1886~1933)を知る。佐々木は裕福な農家の養子で、医者になることを望まれていたが文学に傾倒し、泉鏡花のような小説を書いて作家となることを熱望していた。筆名は佐々木鏡石、習作のいくつかが活字となり、この道の先輩や仲間たちに認められることもあった。当人はひたすら作家として身を立てることを夢見ていた。
その願望が叶う可能性はどれほどのものであったのか。柳田国男との出会いは宿命的であった。十歳あまり年上の柳田は農商務省のエリートであり、文学への造詣も深く、おそらく独特のオーラを発する、とてつもなく大きな存在として、この文学青年に映ったことだろう。 柳田は佐々木の語る遠野地方の口碑(こうひ、昔からの言い伝えのこと)伝承に強い興味を抱き、定期的にこれを聞いてまとめあげた。(中略)
かくて佐々木喜善は柳田國男の協力者として功能をあげ名を残し、日本民俗学の揺籃期に輝かしい足跡を残すこととなる。この分ではの作をも発表し、終生柳田の愛顧を受けたが、鏡石に不満がないわけではなかった。民俗学の協力者ではなく一己の小説家でありたい、という夢は彼の心の内奥に激しく她え続け、ときには柳田の教えに背く考えを抱き、 誘惑に迷い、しかし柳田の前ではなにもできないというジレンマに苛まれた。
柳田國男の指示は、たとえば書状の中で”自分の見聞より以上余分な想像などを書き給ふべからず、それは世の学者のすべきことなり、蒐集者の任務は全然其外に在り”と端的に表われているように、鏡石に対してただ忠実な報告者であることを望み、文学的な粉飾や想像など絶対に避けよ、と命じているのだ。小説家志望なんかとんでもない。そのうえ”柳田先生は人の仕事を土台にして自分の花を咲かせる”という噂も聞かないでもない。こうした風聞は、とかく下積みの人たちの間で囁(ささや)かれがちのものであり、柳田國男は少なくとも佐々木喜善に対して”不当であった”という誹(そし)りを受けるような非道を犯していないけれど、柳田が大きな存在であればあるほど鏡石の悩みは深かったろう。
以上が阿刀田の指摘しているところだが、こうした叙述の下敷きになり彼の文中にも登場しているのが、彼が遠野を訪ねる前に読んだという先に触れた長尾宇迦の小説『幽霊記-小説『遠野物語』ー』である。物好きな私のことなので、早速入手して読んでみた。表紙には、「不朽の名著の陰で脇役に甘んじた佐々木喜善の報われぬ生涯」と書かれていた。何とも読みたくなるような一文ではないか。私はこうしたコピーにからきし弱い。長尾のこの作品は、第98回の直木賞の候補作ともなっており、喜善の屈折した心の襞を丁寧に描いていて読み応えは十分である。
そこには次のような叙述がある。「それは、採集作業や、その叙述の困難ではない。自分の折角の発見と努力が『うばわれるかもしれない』ということだった。『遠野物語』は、実は喜善自身が書くべきものではなかったか。これまで幾度、臍(ほぞ)を噛んだことか。(中略)柳田が喜善に向きなおる。のぞきこんでくる。この眼に、自分はやられてしまったのではなかったか、と思う。この眼に惑わされて、遠野の『話の蔵』を開けわたしてしまったのだ」。
あるいはまたこんな叙述もある。「柳田が他人の研究成果を自分のものにしてしまう、という悪評は、本山(喜善の友人の民俗学者である文筆家の本山桂川のこと)が言い出したのではなく、かなり世間に広がっていた。喜善は、こうした柳田の門下として、研究を続けている。柳田の手先で終わるかもしれない被害者意識が、胸のなかに暗く淀んでいるのも確かだった」。
そしてきわめつけとも言うべきは、「喜善にとって、名を成すことは、それは民俗学の研究ではなく、文学の仕事であり、創作でなければならないのだ。そして、小説なら柳田に負けないとも思う」であろうか。一流の人に仕えしかも可愛がられていることもあって、なかなかその人から自立できないでいる、そしてまた自負心だけは旺盛な、二流の人の煩悶と悲哀が切々と伝わってくる。