ある本を贈呈されて
明日からは月が変わって9月になる。これまで毎週のように綴ってきたブログも、9月から月2回に減らすことにした。今のところ1日と15日に掲載する予定である。そんなわけで、今回は月2回に変更したブログの初回ということになる。月2回になったからといって、急に内容が変わるわけではない。変えられもしない。今までのように道楽で雑文を綴るのみである。何故回数を減らすことにしたのかといえば、老後の道楽でやっているブログなのに、このところ何となく追われるような感じが強くなってきたからである。苦痛とまでは言わないものの、追われるとどうしても文章を綴る楽しさが減じてしまう。
何故追われるように感ずるのかと言えば、公私ともに様々な野暮用が相次いで生じているからである。たまたま8月だからそうなっているのか、これからの身の処し方にいつまでも惑っているからなのか、それとも年を取ると意外にも野暮用が増えるからなのか、そのあたりのことはよくは分からない。ただ言えることは、道楽であるにもかかわらず追われる感じがするのはどうしても嫌なのである。もっとのんびりと自由に道楽に向き合いたい。この一点につきる。そのためにブログの回数を減らすことにしたのである。余裕ができればいい文章を綴れるというわけでは、勿論ないのだが…。
シリーズ「裸木」の第9号も出来上がって、贈呈分の残りが先日自宅に届いた。終刊号となる第10号が発刊されるのは来年の9月になるが、その中身のほとんどはすでに出来上がっているようなものである。そうなると、これまでのようにブログにたくさんの雑文を綴り続ける必要は少なくなる。私の場合は、冊子を作るためにブログの文章を綴ってきたようなものだが、それがなくなるのであれば減らすのは当然の成り行きなのかもしれない。こうした事情も、ブログの回数を減らすことに繋がっているのであろう。
先月、知り合いの大塚茂樹さんから『日本被団協と出会うー私たちは「継承者」になれるかー』(旬報社、2025年)と題した著作が送られてきた。出来たてほやほやの新著の贈呈である。昨年、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)がノーベル平和賞を受賞したことは、嬉しいビッグ・ニュースとしてマスコミでも大きく報道されたから、そのことについてはブログの読者の方々もよくご存じのことであろう。だが果たして日本被団協がどのような組織であり、どのような歴史を持ち、今どのような課題に直面しているのかを知る人はどれほどいるであろうか。おそらくかなり少ないのではないかと思われる。
実はこの私もそんな一人にすぎなかったので、大塚さんから送られた著作を丹念に読んで実に様々なことを勉強させてもらった。戦後80年の今年は広島・長崎への原爆投下80年の年でもあり、こうした年に読むのに相応しい著作のように思われた。大塚さんとは、時折たまプラーザ駅側の蕎麦屋で昼食を摂った後本屋の中にある喫茶コーナーでコーヒーを飲みながらあれこれと雑談する仲なので、この本が刊行されることは彼から既に聞いていた。私と違って慎み深く謙虚な彼のことなので、中学生にも読める概説書として書いたので大したものではないとの話だった。
しかし、一読して私はまったく違った印象を抱いた。確かに読みやすく書いてはあるが(中学生にとっては少し難しいようにも思われたのだが…)、その内容は想像していた以上に広いし深いので、被爆国日本のすべての人々、とりわけ政治や教育や報道に関わる人々には是非とも手に取ってもらいたいと思った。本書を読めば、被団協のノーベル平和賞の受賞を、一過性の「祝い事」として終わらせないことが大事だとわかるからである。
こんなふうに書くと、著者の知り合いである私が、なれあいで提灯記事を書いているようで、みっともないと思われるかもしれない。そう思いたい人には思わせておくしかないが、そんなことはどうでもいいと思わせるようななかなかの出来映えである。被爆者の長年にわたる苦難の道のりを知れば、そしてまた大塚さんの長年にわたる労苦を知れば、簡単に論評などできなくて当然である。そして、読めば日本被団協がノーベル平和賞を受賞したのは必然のようにも思えてくる。長い間の労苦が実ったとでも言えばいいのか。よくぞここまで頑張り抜いたものである。
この本の著者紹介欄にも書かれているが、「1976年に被爆者と出会い、被爆者像を問いながら、反核運動と被爆者支援運動に参加」してきたとのことである。ほぼ半世紀にも及ぶような実に長い歳月である。同封されていた挨拶文にも、「そもそも東京出身で被爆地との縁もなく、大学生になるまで原爆と被爆者について何も知らずに育ちました。それも半世紀近く前に学びと活動を始める際の動機でした」と書かれていた。知らなかったことが長期に渡る学びと活動の動機となっているとのことだが、そんな人は滅多にいるものではない。知らなくても生きてはいけるからである。
本書の冒頭に、ノーベル平和賞授賞式での日本被団協の田中煕巳(たなか・てるみ)代表委員のスピーチが紹介されている。広島と長崎に原爆が投下された1945年末までに、広島では14万人前後、長崎では7万人前後が死亡し、被爆しけがを負い放射線に被曝し生存していた人々は40万人あまりだというのだが、そうした地獄のような世界の出現と同時に、注目すべきは次に掲げる一節である。「生き残った被爆者たちは被爆後7年間、占領軍に沈黙を強いられました。さらに日本政府からも見放されました。被爆後の10年間、孤独と、病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けざるをえませんでした」。なんと過酷な現実であったことか。
大塚さんは被爆者の直面した偏見と差別について、次のようなことを述べている。「いじめや就職・結婚差別も大きな苦しみでした。いじめは被爆直後から始まります。被爆地の子どもが、被爆を理由にしていじめを受けるとはむごいことです。被爆していない子どももいます。傷や後遺症も、誰もが等しいわけではありません。心が荒んでいて、弱者を虐げる行動に出てしまったのでしょう。避難先では、 火傷などを理由にして大人も疎んじられました。就職・結婚差別も露骨でした。自らは被爆していなくても、被爆県出身という理由で結婚に反対された例もあります。これらの差別については、昔から在日韓国・朝鮮人や被差別部落の住民に対しておこなわれていましたが、原爆被害者も受難に直面しました」と。
被爆者は自らの記憶に焼き付いた被爆体験を語ることはできるが、被爆の全体像を知ることはできない、そんなことも大塚さんは指摘している。だからこそ、彼のような長期に渡って伴走する人が必要なのであろう。その意味では、今回の著作は大塚さんだからこそ書けた、あるいは大塚さんにしか書けなかったものだと言えるのかもしれない。ノーベル平和賞の受賞式に併せてオスロまで出掛けた大塚さんは、後書きで以下のような平易で静かだがとても美しい文章を綴っている。そのときの光景が目に浮かぶようで、一人の読者として胸が熱くなるような文章である。
2024年12月10日、ノーベル平和賞授賞式の終了から数時間後に、オスロでは夕刻から松明パレードがおこなわれました。毎年恒例の行事で、現地市民も厳寒のなかで続々と参加してきました。原水協とピースボートが主宰した日本からのツアー参加者も、このパレードに参加しました。個人旅行者である筆者も、これに加わりました。筆者が日本人だとわかると、オスロ市民の一人からお祝いの言葉をかけられました。下手な英語で必死に対応しました。ノーベル賞記念館からグランドホテル へ松明をかかげて行悪します。その行進者を平和賞受賞者がホテルのバルコニーに立って出迎えるという行事なのです。火をかざす人の顔は、美しく照らし出るれています。ピースポートの渡辺里香さんのリードによって、パレードの先頭は歩き始めました。
「NO MORE HIROSHIMA、NO MORE NAGASAKI、NO MORE HIBAKUSHA NO MORE WAR」被爆二世の大村義則さんがコールを始めると、行進者も声を出していました。 この一節を聞けば、いやおうなく82年の国連軍縮会での山口仙二さんの演説を思い出してしまいます。グランドホテル前に着くと、大村さんが「原爆を許すまじ」を歌い始めました。 私も久しぶりにこの歌を口ずさみました。バルコニーでは、正装した田中煕巳さん、田中重光さん、箕牧敏之(みまき・としゆき)さんの代表委員三人が手を振っています。歓声が沸き起こりました。
彼は、「なぜこんな遠くまで来てしまったのだろう」とパレードの中で考えたと書いているが、それは彼が長い間被爆者運動の伴走者であり続け、その結果として素晴らしい「継承者」となったからに違いあるまい。そこにあるのは、この80年の間に被爆者として亡くなったすべての人々に対する鎮魂の思いであり、そしてまた、被爆者の救済のために先頭に立って走り続けてきたリーダーたちに対する畏敬の思いである。そうした思いは、彼の内に潜む志の気高さと心延えの美しさからもたらされたものに違いない。
唯一の被爆国である日本において、核抑止力論に何のためらいもなく依存したり、核兵器禁止条約の締結に背を向け続ける政治が続く限り、日本被団協の運動はこれからも続く。本書が若い世代の人々にも広く迎えられ、そのなかから大塚さんに続く「継承者」が生まれ出ることを願っている。各ページに配された折り鶴のデザインも素晴らしく、貴重な写真の数々もたいへん見応えがあった。とても丁寧な本作りである。末尾ながら一言触れておきたくなった。
(付 記)
この機会にと思って、中央合唱団の歌う「原爆を許すまじ」(作詞・浅田石二、作曲・木下航二、1954年)を聞いてみた。浅田は当時青年労働者、木下は高校の教師であった。木下は、わたしのような旧い世代の人間にはよく知られた「しあわせの歌」(1955年)も作曲している。この歌は電気産業労働組合(電産)の組合歌であり、作詞者の石原健治は、広島に投下された原爆で母親と姉弟を亡くしていた。
「原爆を許すまじ」の四番は「三度許すまじ原爆を 世界の上に」で終わっているのだが、日本被団協の運動が世界的な視野を持っていたことを暗示しているような最終楽章である。ついでにと言っては何だが、独立プロの映画『ひろしま』(監督・関川秀夫、1953年)も観た。見続けることが苦しくなるような映画であった。だが、被爆した人々のことを思えば目を背けるわけにはいかない。大塚さんから教えられたのはまさにそのことである。
この間、平和祈念式典での広島市長と長崎市長の宣言文、それに、広島県知事の挨拶文を読む機会があった。長崎市長の宣言文は、大塚さんの本にも登場する1982年の国連軍縮会での山口仙二さんの演説にも触れていた。
1982年、国連本部で被爆者として初めて演説した故・山口仙二さんは、 当時の惨状をこう語っています。「私の周りには目の玉が飛び出したり、木ギレやガラス片が突き刺さった人、首が半分切れた赤ん坊を抱きしめ泣き狂っている若いお母さん、右にも左にも石ころのように死体がころがっていました」。そして、演説の最後に、自らの傷をさらけ出しながら、世界に向けて力強く訴えました。「私の顔や手をよく見てください。世界の人々、そしてこれから生まれてくる子供たちに私たち被爆者のような、核兵器による死と苦しみを、例え一人たりとも許してはならないのであります」。「ノーモアヒロシマ 、ノーモアナガサキ、ノーモアウォー、ノーモアヒバクシャ」。この心の底からの叫びは、被爆者の思いの結晶そのものです。
そして、広島県知事の挨拶は次のような文章で締め括られていた。「核兵器廃絶は決して遠くに見上げる北極星ではありません。被爆で崩壊した瓦礫に挟まれ身動きの取れなくなった被爆者が、暗闇の中、一筋の光に向かって一歩ずつ這い進み、最後は抜け出して生を掴んだように、実現しなければ死も意味し得る、現実的・具体的目標です。諦めるな。押し続けろ。進み続けろ。光が見えるだろう。そこに向かって這っていけ。