北東北の旅へ(三)

 いったん収まりかけた暑さだったが、このところすっかり元の暑さに戻っている。蝉の声も弱まり、夜には虫の音も響いているのだが、なかなか残暑の感がしない。こんな時にはどんなふうにやり過ごせばいいのか。涼しい部屋でテレビを観たり、新聞を広げたり、YouTubeの動画を眺めたりするのも一興なのだろうが、この私にはどうも気乗りがしない。世情に対する関心がますます薄らいでいる所為なのかもしれない。

 そんなわけで、今回の北東北の旅で撮った写真の整理をかねて、これまでに撮りためた写真を整理してみることにした。撮ってある写真をいつでもすぐに見ることができるようにしておかなければ、宝の持ち腐れのような気もするからである。時間は掛かるが、作業自身は単純なので暑さを凌ぐにはちょうどいい。パソコンとスマホ内の写真をすべて一カ所に集め、テーマを決めてそのテーマごとに写真を一枚一枚分類していくのである。

 試行錯誤を重ねながらテーマを決めていったが、最終的には19テーマとなった。家族、海、川、山、空、雲、花、木、街、寺、家等々である。私のことだから見境なく何でも撮っているわけだが、見境がないなかにもそれなりの美意識はある。当初は撮影地別に分けようとも思ったが、やってみるとどうも意に沿わない。5W1Hという言葉があるが、「いつ」、「どこで」、「どのように」撮ったのかということに、ほとんど関心がないことがよく分かったからである。「だれ」は私に決まっているので、興味があるのはあとは「なにを」だけなのである。

 上手く撮れなかった写真はすでに削除済みなのだが、それでも一カ所に集まった写真は5,000枚近くに達した。結構な量である。上記のような分類作業の途中でも、気に入らない写真はどんどん削除していったのだが、それでも2,000枚近くが残った。さらに減らさなければならない。このところ、社会科学研究所や人文科学研究所の調査旅行に毎回のように同行させてもらっているので、出掛けるたびに写真の数は増えていく。いい写真を撮るためには、たくさん撮らなければならないと思い始めたからである。

 この間調査旅行先は、秋田、山形、佐渡、富山、若狭、群馬、倉敷、五島、台湾、北海道、出雲、北東北と広がってきた。80歳になるまでは同行させてもらいたいと思っているので、これからも写真は増え続けるに違いない。しかしながら、今回分類方法を確定させることができたので、写真の整理に思い悩むことはなくなった。いかにもすっきりした気分である。ここまでやっておかないと、私が作りたいと思っている写真集などできるわけがない。

 こんなふうにして北東北で撮った写真を整理しながら、旅の想い出に耽った。前回のブログでは、賢治、啄木、喜善、嘉矩、國男の5人に出会った話を書いたが、その続きである。岩手県立美術館では、松本竣介(まつもと・しゅんすけ、1912~1948)と萬鉄五郎(よろず・てつごろう、1885~1927)に出会った。この二人だが、松本は36歳で萬は42歳で世を去っている。

 県立美術館には、先の二人の画家と彫刻家の舟越保武の特別コーナーがある。三人とも花巻の出身だからである。保武の彫刻には静謐で端正な作品が多く、それはそれで悪くはないのだが、私が興味を抱いたのは二人の画家の方である。画家の作品を観るのに出会ったはないだろうと思われるかもしれないが、敢えてそう書いたのは、この美術館に松本と萬の自画像が展示されていたからである。

 「Y市の橋」や「立てる像」で知られる松本の「自画像」(1941年)は、童顔の柔らかな表情の内に静かなる意志を秘めた作品のように思われた。それに対して、「裸体美人」や「水着姿」で知られる萬の自画像は「赤い目の自画像」(1912~13年)と題されており、日本におけるフォービスム(野獣派)の先駆者らしい異様な作品だった。痩せた顔に赤を基調にした原色が激しく叩きつけられており、この自画像を観る者が、赤く鋭い目で凝視されているようにも思われた。

 岩手で出会ったのは上記のような人々だったが、青森に入ってもう一人の人物と出会った。寺山修司(てらやま・しゅうじ、1935~1983)である。彼は弘前市で生まれ、47歳で没している。今回の旅で出会った人々は、柳田を除いて皆若くして亡くなっている。溢れるばかりの才能を一気に開花させてしまった故であろうか。三沢にある寺山修司記念館を訪ねた際に、何とも懐かしい思いが強く感じられのは、彼の生きた時代の雰囲気に私も僅かながら染まっていたからに他ならない。

 彼の記念館で我々を案内してくれた学芸員の方は、きっと熱烈な寺山ファンの一人なのであろう。その饒舌な語り口からそれと忍ばれた。展示もなかなかユニークであった。鬼才としてアヴァンギャルド(前衛)として、そしてまた演劇集団「天井桟敷」の主催者として、時代の最先端を疾走した寺山らしく、記念館自体が彼の作品ででもあるかのようだった。競馬評論家にまで広がった多方面での活躍は、並べられた机の引き出しの多さからも窺われた。配られたパンフレットもユニークであった。そこには以下のような文章が記されていた。

 詩に、短歌に、俳句に、映画に、演劇に、写真に、スポーツに、メルヘンに一。旅立っていった寺山修司の足跡はさまざまなところにさまざまな形でたくさん残されています。みなさんどうぞ「机の引き出し」を開けてみて下さい。消えていった寺山修司を探して下さい。かつて、さまざまな所に寺山修司はいました。寺山修司は多くのものに興味を抱きました。そして、これだけたくさんの足跡を残したのです。これだけ多くの足跡を残した寺山修司は本当に一人だったのでしょうか? 本当に消えていったのでしょうか?いや… 

 よく知られた彼の一首 「マッチ擦るつかの間海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや  」が、何とも鮮やかに思い出された。

 

 

 

 

 

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