北東北の旅へ(中)
前回のブログは旅行から帰って急遽アップしたものなので、大分短い一文となった。今週は元に戻せるだろうと思ったが、今年のお盆休みにはあれこれと用事が重なったこともあり、前回と同じように短いものしか書けなかった。この間、下の娘夫婦が久方ぶりに我が家を訪ねてくれたし、また上の娘や小僧たちと横浜に落語を聞きに出掛けた。そのついでに、初めてランドマークタワーの最上階にある展望ラウンジに上ってみた。なかなか興味深い眺めである。300メートルほどの上空から眺めた都市の景観を、どんなふうに撮ればいいのか考えながら、カメラを向けてみた。
昨日は息子も我が家に顔を出した。せっかく来てくれるのだからと思って、シーフードカレーとサラダを作ってみた。エビ、ホタテ、イカそれにムール貝と具材にもこだわって作ったこともあって、思いの外いい味に仕上がった。子供も家人も美味いと褒めてくれた。自分から作ってみたいなどと思ったところを見ると、盛岡で食した絶品の創作料理に影響されたのかもしれない。美味いものを食べれば、美味いものを作りたくなるのは世の常なのか。
今回の旅では、様々な人物に出会うことになった。勿論ながら全員が既に亡くなっているので、出会ったのはすべて歴史上の人物である。初日に花巻にある宮沢賢治記念館で宮沢賢治(1896~1933)に出会った。彼は37歳で亡くなっている。調べてみると、詩壇の中では彼の作品を高く評価する者もいたようだが、終生文壇の圏外にあって岩手県で教師・農業指導者・技師としての活動を続けていたため、生前はほとんど無名に近い存在であったという。没後、草野心平らの尽力により作品群が広く知られるようになり、世評が急速に高まって国民的作家となったとのこと。今では岩手は賢治一色と言っても言い過ぎではなかろう。至る所で賢治に出会える。
次に遠野では、佐々木喜善(ささき・きぜん、1886~1933)記念館で喜善に出会い、遠野市立博物館で伊能嘉矩(いのう・かのり、1867~1925)に出会い、旧高善旅館で柳田國男(1875~1962)に出会った。佐々木は、民話・伝説・習俗・口承文学の収集家であり、名著として名高い『遠野物語』(1910年)の伝承者として知られている。もともとは小説家になりたかったようだが、その望みは果たせず、郷里遠野での文筆活動に向かったのだという。その心中は果たしてどのようなものであったのだろうか。
同じ遠野出身の伊能嘉矩であるが、彼は明治時代においていち早く人類学を学び、特に台湾原住民の研究では膨大な成果を残している。郷里岩手県遠野地方の歴史・民俗・方言の研究にも取り組み、遠野民俗学の先駆者と言われているのだという。私は彼のことをまったく知らなかったので、遠野に出掛けてきて初めて出会ったわけだが、昨年春に出掛けた台湾と深い関係があることを知って驚いた。思いも掛けない繋がりがあるものである。郷里ではよく知られた人物なのであろうか。台湾で感染したマラリアの後遺症で、59歳で亡くなっている。没後彼の台湾研究は大冊の『台湾文化志』として纏められた。
最後の柳田は、日本の民俗学の父として知られたあまりにも著名な人物なので、ここでわざわざ紹介するまでもないのかもしれない。東京帝国大学を卒業後、農商務省の官僚となり貴族院書記官長にまで昇り詰めた彼は、日本学士院会員、日本芸術院会員、文化功労者であり、文化勲章受章者でもある。「日本人とは何か」という問いの答えを求め、各地を訪ね歩いた。初期は山の生活に着目し、『遠野物語』において「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」とまで述べているが、兵庫出身の彼は遠野の地とは何の関係もない。一度は訪ねたようだが、その後は不明だとのこと。
盛岡の繁華街にある「もりおか啄木・賢治青春館」では、石川啄木にも出会った。彼はわずか26歳で世を去っている。こちらも実によく知られた人物なので、今更の感がある。本来であれば生まれ故郷の渋民村(現在は盛岡市)にも顔を出したいところだったが、行程の都合もあってそれは叶わなかった。故郷には、地元の青年たちの手によって彼の歌碑が建てられており、「やはらかに柳あをめる北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」が刻まれているという。
釧路もそうであったように、盛岡市内のあちこちに彼の歌碑がある。今回私たちが見たのは、盛岡城址公園に建っていたもので、そこには「不来方のお城の草に寝転びて 空に吸われし 十五の心」とあった。不来方(こずかた)とは盛岡の古称である。彼には「石をもて追はれるごとくふるさとを 出しかなしみ 消ゆる時なし」という作品もあるが、その歌碑はどこにあるのだろうか。もしもあるのなら一度眺めてみたいと思った。彼の深い悲しみに触れてみたかったからである。