浅春の山陰紀行(完)-境港、美保関、大山-
「浅春の山陰紀行」もようやく最終回に辿り着いたので、ほっとした気分である。長々と書き継いでいるうちに、今年の8月に実施される人文科学研究所の総合研究調査の案内や、翌9月に実施される社会科学研究所の夏季実態調査の案内が届いた。こうなると、私の関心は新しい企画に吸い寄せられ、次の調査旅行が愉しみになってくる。人文科学研究所は北東北に出掛けるようだし、社会科学研究所は北海道に出掛けるとのこと。参加申込書の提出期限が迫っていたので、あれこれ考えて北東北の調査旅行にのみ参加することにした。
それはともかく、先ずは最終回の文章を書き上げなければならない。今回の調査旅行の最終日も結構盛りだくさんであった。水木しげる記念館を訪ね、水木しげるロードを散策した後向かったのは、海とくらしの史料館であり、境港水産物直売センター市場であり、美保神社であリ、美保関だった。水産物直売センターでは、市場内にあった食堂で昼食を摂った。
先ずは海と暮らしの史料館から。ここは一風変わった場所だった。港の側にあるというのに、生きた魚類は一匹もいない。たしかに水のない水族館だ。あるのは夥しい数の剥製の魚介類である。入口を入ると巨大なマンボウの剥製が宙に浮かんでいた。聞くところによると、日本一の剥製の水族館だとのこと。解説を聞いているのに飽きて、館内を一人で回り外に出てみた。外から史料館を眺めたら、白壁のなかなか趣のある作りだった。旧い酒蔵を改造して史料館にしたらしい。
昼食後しばらく自由行動となったので、一人で港を巡ってみた。岸壁に横付けになった漁船から、獲ってきたイワシが水揚げされていた。かなりの量なので、ホークリフトのようなもので施設内に運ばれていく。魚を狙ってなのか、沢山の鴎が海面に近いところを群れ飛んでいる。今日もぽかぽか陽気で少し暑いほどである。ある。港、海、船、鴎、そして対岸の島根半島の山とくれば、どうしても写真を撮りたくなる。漁港の周りも歩いたが、第静かな港町であった。高い建物もないしクルマも少ない。春の陽を浴びながらのんびりと散策できて幸せな気分であった。
午後に出向いたのは美保神社である。寺院であれば由緒ある旧い寺を名刹(めいさつ)や古刹(こさつ)と言うようだが、神社の場合は大社や古社となる。美保神社はよく知られた古社である。祭神は大国主の妃である三穂津姫(みほつひめ)と大国主の第一子とされる事代主(ことしろぬし)である。事代主と言われても誰のことか知らない人がほとんどだろうが、鯛を手にする福徳円満の神ゑびす様としてならばよく知られていよう。ここ美保神社は、全国各地にあるゑびす社の総本宮だとのこと。
森閑とした神社を眺め終えて社務所の前を通ったら、そこに美保神社の略記を記したリーフレットが売られていた。ブログに旅日記を投稿する際に役に立つかもしれないと思って入手したのだが、後で読んでみたら、そこに小泉八雲が登場していた。「世界的文豪」とはいくらなんでも褒め殺しが過ぎるのではないかと思ったが、小泉八雲の紀行文において取り上げられたことがよほど誇らしかったのかもしれない。
八雲は、『新編日本の面影Ⅱ』に収録されている「美保関にて」で、美保神社に関して次のように書いている。「美保神社は、建築物として見ると、出雲にある神社の中では特別なものとはいえない。また本殿の内部の装飾も、特に詳述する程のものではない。ただ、みかげ石の鳥居をくぐり、大きな唐獅子と石灯籠の間を抜け、本殿まで登ってゆく敷石の参道は、気品に満ちている。神社の境内そのものには、あまり見るべきものはない」。何とも淡々とした筆致である。
確かに敷石の参道は気品に満ちていたし、出雲大社と違って境内に余計な物はなかったのが良かったのだろう。神社の隣に萬来深謝の4文字が一つずつ書かれた4つの提灯が下がった門があった。その門をくぐると青石畳通りとなる。石畳の両側には旧い家々が立ち並び、何とも風情が感じられた。その通りにとてもコーヒーショップとは思えない店があり、そこで旨いコーヒーを飲んだ。通りを抜けると海であり、そこから大山が一望された。伯耆富士あるいは出雲富士と呼ばれるだけあって何とも美しい山容である。
大山と言えば、3日目に足立美術館を見学した後、麓にあった県立大山自然歴史館に寄った。麓とは言え大山登山の入口付近まで来ると、雪はまだ結構残っていた。この歴史館で手にした立派なリーフレットによれば、この大山は「神座(いま)す山『大山』参詣道が繋ぐ物語」と名付けられて、鳥取における四つの日本遺産のうちの一つとなっていた。興味深かったのは、地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市が開かれていたことである。先のリーフレットには、以下のようなことが書かれていた。
大山は、文献(『出雲国風土記』)で確認できる日本最古の神山です。大山中腹の大山寺に祀られている地蔵菩薩は、山頂の池から現れたと伝わります。 この地蔵菩薩は、 生きとし生けるものすべてを救う仏様で、平安時代には牛や馬の安全を大山の地蔵菩薩に願う、という「牛馬信仰」へと繋がっていきました。鎌倉時代以降、この大山寺における地蔵信仰が広く山陰、 山陽諸国に広がると、人々は牛馬を連れて大山を参拝するようになり、やがて牛馬の市が開かれるようになります。この市は、明治時代には年間一万頭以上の牛馬が取引される日本最大の牛馬市に発展していきました。
鉄道の発達などの影響で、 大山の牛馬市は幕を閉じますが、 大山寺から放射状にのびる参詣道(大山道)沿いには、道標としての役割を果たした常夜燈や等間隔に並べられた一町地蔵、 石畳や宿場町の町並み、 農村景観などが今も残り、当時の賑わいを今に伝えてくれています。また、参詣者の携帯食としても親しまれた「大山おこわ」 や、 大山寺が栽培を奨励したと伝わる 「大山そば」は、地域を代表する食文化となっています。今も大山山麓の人々は、五穀豊穣や健やかな子供の成長を祈り、「大山さんのおかげ」 と感謝の気持ちで大山を仰ぎ見る暮らしを営んでいます。
当時の牛馬市の様子は、歴史館での映像や写真で見るしかなくなっているが、そんな歴史があったことをここに出掛けて来て初めて知った。夏に来て大山寺まで行けば、神山を間近に感ずることができるに違いない。われわれは美保神社から美保関に廻り、そこからの眺めを堪能した。目を凝らせば隠岐も見えるとのことだったが、足腰だけではなく目も弱った私には無理だった。それよりも、関から眺めた神山大山が何とも眉目秀麗で、その美しさにしばし見とれた。旅の終わりに相応しい浅春の一景であった。