浅春の山陰紀行(七)-二つの美術館を訪ねて-

 

 今回の調査旅行では二つの美術館を訪ねた。一つは2日目の夕刻に出掛けた松江にある島根県立美術館であり、もう一つは3日目の午前中に訪ねた安来(やすき)市にある足立美術館である。前者については、そこがどんなところか何も知らずに顔を出したのだが、その所為なのか名画との思いもかけぬ出逢いがあり、地方の美術館もなかなかのものだと思わされた。そう言えば、盛岡でも富山でも甲府でもそしてまた郷里の福島でも、かずかずの素晴らしい作品と遭遇した。

 それに対して足立美術館の方だが、ここはその庭園が毎年日本一の評価を得るような著名な美術館である。山陰旅行のガイドブックにも、「年間60万人が訪れる日本屈指の美術館」として紹介されている。そこを訪ねることになったので、事前に庭園の写真集を買って眺め、ついでにこうした美術館を創設した地元出身の実業家である足立全康(あだち・ぜんこう)の自伝にも一通り目を通してみた。
 
 元々狷介な私は、観光客が押し寄せるこの美術館に、二つの危惧の念を抱いていた。一つは、全康が横山大観の心酔者で、生涯を掛けて収集した彼のコレクションが、大々的に展示されていたことである。私は日本画よりも洋画の方に興味がある人間なので、もともと日本画に対する関心は薄いのだが、とりわけ大観は好きではない。戦前に霊峰富士と昇天する旭日と国花である桜を数多く描き、神州日本の国威の発揚に一役も二役も買っていたはずの彼が、そしてまた、日本美術報国会の会長まで務めた彼が、戦後になって画家の戦争責任が話題となった際に、たんなる風景画家ででもあったかのように振る舞っていることを知ったからである(神坂次郎他著『画家たちの「戦争」』(新潮社、2010年)、北村小夜『画家たちの戦争責任』(梨の木舎、2019年))。

 もう一つの危惧は庭園に関するものである。立派な写真集が出版されているので、予備知識を得るために一冊購入して眺めておいたのだが、これが余計なことであったように思われたことである。当然のことながら、写真集に収められた庭園の写真は、年間を通した四季折々のもっとも素晴らしい景観を直接写し撮ったものである。だから見応えは十分であった。しかしながら、現実に美術館の中からガラス越しに目にしているものは、それとは違う。既視感ばかりがあって、本物の方がどうしても劣って見えてしまうのである。予備知識などなしに眺めた方がよかったのかもしれない。

 他にも気になったことはあった。館内に全康の全身像が建っているのも余計だったし、そこにある意味がよく分からぬ童画なども飾られていた。庭園には静謐や気品や端正を感じたが、館内はそうでもないようだった。庭園以外では、北大路魯山人のコレクションが目を引いた。このようにたくさんの魯山人の作品をまとめて眺めたのは初めてだった。帰りに売店に寄って土産になりそうなものを探していたら、彼のエッセイ集である『魯山人の神髄』(河出文庫、2015年)が目にとまった。陶芸や料理だけではなく皮肉屋の文筆家としても知られている魯山人は、そこに「大観の画業」というタイトルで次のような一文を書いている。戦前の昭和14年のことである。

 大観の画というもの、一言でいえば品格ただ一つで覧られている絵である。品格といってもすばらしい上品さをもつ格というのではないが、なに分にも他はあまりにも俗調になるといわなければならないほど卑俗な低調をたどるばかりであるところから、図らず大観が儲け役をしているというのである。 大観はその絵で見ても分るようにスゲールが大きいというのではないが、これもまた他にこれぞというほどの者のないためになんとなく一種の大者らしく大儲けしているというのが当たりどころであろう。上品さでは靫彦(ゆきひこ)におよばず、強さでは古径にはかなわない、軽妙は彼の好むと好まざるにかかわらず栖鳳(せいほう)の足下にもおよばない。ものに対する真剣味においても古径、土牛の敵ではない。

 これを古くに求むるとしてももとより春草の巧緻にはおよばず芳崖、雅邦の練達に至らず、しかも今日東方の大御所をもって立つゆえんのものは、幸いにもただ一つの好条件を具えているからなのである。これは彼の仕事がお能であるからなのである。いくら下手でもお能はお能であって、下手ながらにも品調において観ていられるからである。 

 魯山人は、大観には「秘しきれない商売気」があるために、「いかにも芸のなさ過ぎる下手なお能」でも「儲けどころ」となっているとまで書いて大観を腐(くさ)しているのだが、そんな二人のコレクションが同じ美術館に同居しているのも何だか笑えた。創設者の全康は、著名な日本画家、著名な陶芸家の作品を収集することで満足していたのかもしれない。足立美術館では、隅々にまで手入れの行き届いた庭園を、お茶でも飲みながらゆっくりと眺めるだけでいいのだろう。

 もう一つの島根県立美術館の方はどうだったのか。ここに出向くことになったのは、そこに収蔵されていた作品に触れると言うよりも、美術館から眺める宍道湖の夕陽が素晴らしいとの評判だったからであろう。私も靄に霞む美しい夕日を目にしたが、それよりも素晴らしかったのは、広々とした空間に展示されていた名品の数々である。クールベ、モネ、コロー、デュフィー、松本峻介、香月泰男らの作品に加えて、木村守衛や高村光太郎それにマイヨールの彫刻などもあった。美術の教科書に登場するような作品を目の前にして、絵画に造詣の深い研究所長の田中さんと一緒に、二人で興奮してしまった。

 この常設館の一角には、写真家の作品を展示したコーナーもあり、植田正治、奈良原一高(ならはら・いっこう)、森山大道(もりやま・だいどう)らの作品も展示されていた。そこには、この三人のプロフィールを紹介した三冊の立派なパンフレットが置かれていた。それぞれのパンフレットの文章は、美術館の主任学芸員である蔦谷典子(つたや・のりこ)という方が書いている。ここでは、島根県立美術館において紹介するのにもっとも相応しい写真家、植田正治に触れた一文を参考にして彼のプロフィールをごく簡単に紹介してみる。「抒情とモダニズム」に溢れた砂丘の上の家族写真によって、植田を知る人は多かろう。できることなら、植田正治写真美術館にも顔を出してみたかった。

 山陰に生まれ、生涯山陰に暮らし、山陰を舞台に写真を撮り続け、日本を代表する写真家として第一線で活躍し続けた写真家・植田正治(1913~2000)。その国際的な評価はますます高まっている。「UEDA-CHO (植田調)」と称されるその独特のスタイルによって、時代も国も超えて、植田の写真は愛されている。何にも束縛されることのない自由な自己表現を獲得するという意味で、植田は「アマチュア精神」を生涯誇りとして高らかに掲げ続けたのであり、少年のように尽きることない好奇心をもった、人間としての魅力に溢れた人物であった。山陰を愛し、身近な人々を愛し、純粋に写真することを楽しみ、世界のUEDAとなった写真家・植田正治。2000年7月4日、植田を愛する多くの人々に惜しまれ、85歳の生涯を閉じた。