移りゆく季節のなかで(三)-二人の知人の死-

 今回は、二人の知人の死にまつわる話を書いてみたい。一人は同じ団地に住んでいて、亡くなる直前まで身近に接していた宮内淳吉さん、享年88歳であり、もう一人は北海道の札幌在住だった手島繁一さん、享年76歳である。宮内さんが亡くなったのは今年の9月21日のことだから、ごくごく最近の出来事である。それに対して、手島さんが亡くなったのは昨年の12月2日だから、ほぼ1年が経過したことになる。

 まずは宮内さんの死から触れてみる。宮内さんはフレスコ壁画やモザイク壁画の世界ではよく知られた方のようであったが、門外漢のこの私は、7~8年前に別の知人に紹介されるまで彼のことをまったく知らないでいた。そのころ団地内ではてんやわんや、すったもんだの大騒動があり、そのことが切っ掛けで宮内さんとは急速に親しくなった。もっとも私の方が一回り近くも下なのだから、親しくさせてもらったと書くべきところだろう。しかしながら、宮内さんはそんな世間常識にはほとんど無頓着な方だった。少なくとも私にはそう見えた。

 この私は、宮内さんの取り組んでいる仕事にも、そしてまた芸術の世界に生きる宮内さん自身にも興味が沸いたこともあって、二度ほど家を訪ねて作品や仕事場を見せてもらったことがある。直接壁に描かれたり貼り付けられた作品は、その場に出向いて観るか写真で観るしかないが、モザイク画の小品は居間のあちこちにおかれていたので、直接手に取って眺めさせてもらった。タイルにはタイル独特の質感があり、その質感は具象ではなく抽象の世界によくあっているように思われた。

 せっかく宮内さんのような方と知り合いになれたのだから、彼の作品を購入して仕事部屋に飾ろうと考え、値段を聞いてみた。そうしたら、私でも手が出せるような値段だったので、一つ購入することにした。青のタイルを用いて水の流れや波の動きを表現した、50センチ四方の作品である。代金を支払って作品を受け取りに出向いたところ、優しい彼は値引きしてくれた。受け取った作品はずっしりと重く、得も言われぬ存在感があった。だが、宮内さん自身は無理に存在感を示そうとするような人ではなかった。あえて示そうとはしなかったようにも思われる。自意識過剰の品のない振る舞いが、根っから嫌いだったのであろう。何だかとても粋だったのである。

 私が冊子を贈呈するたびに必ずお礼の電話をくれた。それだけではなく、読んだことが分かるような話をぽつりと語ってくれたことも何度かあった。我が団地には『ポポラーレ』という名の団地新聞がある。先の大騒動の後、団地内の人間関係の亀裂を修復できればとの思いで、発行された新聞だった。名付け親は宮内さんである。英語で言うポピュラーを意味するイタリア語だとのこと。宮内さんは団地でもよく知られた人だったので、発行責任者にもなってもらった。

 彼と懇意になったこともあって、私も編集の仕事を手伝ったり毎号のように原稿を書いてきた。編集長のYさんを始め『ポポラーレ』に原稿を書いてくれたり寄付金を寄せてくれた人たちは、皆が皆宮内さんが好きだったに違いあるまい。そんな人たちが集まって集会所や小針さんの家で時折飲み会が開かれた。宮内さんは皆勤だったし毎回最後までおられた。居心地がよかったからであろう。小針さんも亡くなったが、その彼も含めて団地内の雑木林で飲み食いしたことがあった。緑が滴るような初夏の頃だった。あの時の楽しさが今でも鮮やかに蘇ってくる。

 今年6月に開かれた飲み会にも宮内さんは顔を出された。この日は体調がよくなかったこともあってか、飲み食いも抑え気味だった。そして、身体の状態が深刻なことをさらりと口にされた。目の前に迫ってきた死を覚悟した一言だったように思われた。9月3日にあざみ野アートフォーラムでモザイク展が開かれ、宮内さんは最後となった作品を出品された。観に出掛けた私はそこで宮内さんと挨拶を交わした。身を削り力を振り絞った作品のはずなのに、そのタイトルは「鳥と虫」というあまりにも優しいものだった。

 作品を完成させて力尽きたのか、しばらくして宮内さんは自宅で倒れ、入院しそして亡くなった。彼はクリスチャンだったようで、11月8日に四谷駅の側にある聖イグナチオ教会の中聖堂で追悼ミサが行われた。そこのモザイク壁画も彼の作品だった。賛美歌を初めて歌ったが、歌えたのは「星の世界」としてよく知られている「いつくしみふかき」だけである。団地の知り合いも何人か列席していたが、私は一人隅に座り昇天した宮内さんの死を悼んだ。メッセージに書いたのは、以下のような一文である。

 宮内さんは、高齢にもかかわらず何時もすっきりした姿勢だったので、とても若々しく見えた。そしておしゃれであった。口数は少なく人の話をよく聞いていたし、物腰は柔らかで偉ぶったり奇を衒うこともまったくなかった。しかしながら、ただ優しくてもの静かなだけではなかった。飲み会の折などに寸鉄人を刺すような言葉を口にされたこともあった。それを聞くのが私の密かな愉しみだった。そんなわけで、私にとっては、高齢者はかくありたいと思わせるような人だったのである。高齢者の生き方を教えてもらった宮内さんが亡くなられたとは…。これからは夜空の星を見上げて偲ぶしかない。宮内さん、さようなら。

 続いて、もう一人の手島繁一さんの死にふれてみよう。ネットで検索してみると、彼の略歴や多彩な業績がわかるだけではなく、今年の6月に催された偲ぶ会の様子も詳しく知ることができる。略歴だけを紹介してみると、「1966年北大入学。北大教育学部卒。大学『紛争』時の北大学連委員長。元全学連委員長。法政大学大原社会問題研究所研究員および法政大学社会学部講師・協同総合研究所研究員などを務めた。北海道にユーターン後、北大イールズ闘争や白鳥事件の歴史的分析につとめ、戦後の社会運動における学生運動史などを新しい視点で解明」したとあったその界隈ではとても有名な人物だったのである。

 しかしながら、この私は彼と日頃懇意にしていたわけではない。昔若い頃に何度か顔を合わせてはいるが、特段じっくりと話し込んだ記憶もない。元全学連委員長だったことも、大分時が経ってから人伝てに聞いて知ったぐらいである。そんな淡泊な付き合いなのだから、わざわざブログで取り上げなくてもいいはずである。それなのに何故取り上げるのか。それはきっと、学生運動のリーダーとして活躍し、研究者となり、北海道に戻り、最愛の妻を亡くし、最後はたった一人で突然亡くなった彼の人生が、どうにももの悲しく感じられて仕方がなかったからであろう。

 だが、それは私の勝手な思い込みだったかもしれない。偲ぶ会の様子を知ったり、友人の方々が綴られた思い出話を読むにつけ、目映いばかりの青春時代があまりにもリアルに蘇ってくるようで、ひとりでに頬が緩んだ。こんなにも多くの友人に恵まれたからこそ、偲ぶ会がもたれたり、追悼文集を作成する話が持ち上がったのであろう。手島さんのもって生まれた優しい人柄と、さまざまな運動で培われた包容力がもたらしたものに違いない。追悼文集に何か書いてくれと頼まれたので、以下のような一文を送った。

 私は2018年3月に手島繁一さん宛に次のような手紙を書いた。彼とはかなり前からの知り合いだが、付き合い方はとても淡泊だったので、彼の人となりについて私が語るべきことはほとんどない。彼と遣り取りしたのは、年賀状を除けばたった一通のこの手紙のみである。

 昨年末に、手島さんから奥様とお母さまを亡くされたとの喪中の知らせを受け取りました。「つらい新年を迎える」ことになるとありましたが、その一言に込められた手島さんのお気持ちを察して、慰めの言葉も見つかりませんでした。たいへん遅ればせながらではありますが、今あらためて心からのお悔やみを申し上げます。
 喪中の知らせを受け取ったものの、いったいどのように対応したらいいのか迷ってしまい、その挙句、今はそっとしておくのがいいのだろうと考えて、これまで何もしないでおりました。埋めようもない喪失感のなか、深い悲しみの日々を過ごしてこられたであろう手島さんのことを思うと、月並みの慰めの言葉など何の役にも立たないはずだと想像できたからです。奥様はきっと優しい方で、これまでずっと手島さんの人生を支えてこられたのでしょう。ようやく落ち着いた暮らしとなり、水入らずの生活が始まったという時に、最愛の伴侶を亡くされたのですから、その悲しみがそう簡単に癒されるはずもありません。
 あれこれと型通りの慰めの言葉を綴ることはできなくもありませんが、そんなものはまったく無意味なはずです。私のような単純な人間が言えることは、ただ一つしかありません。きっと奥様は、手島さんが早く立ち直って元気になってくれることを願っている、それだけです。奥様のためにも、どうか少しづつでも元気を出してもらいたいものです。いつにもまして寒さの厳しい冬です。くれぐれもお身体ご自愛くださいますように。

 その後彼は少しずつ元気を回復してきたようで、新たな仕事に力を傾注するようになり、仕事がまとまるたびに著作を贈呈してもらった。それを手にするたびに、彼らしいあるいは彼にしか出来ない仕事のようにも思えたし、そしてまた、彼が元気になってきた印のようにも感じられて、とても嬉しかった。しかしながら、もしかしたら彼の内心は空洞のままだったのかもしれない。懸案の仕事を終えたこともあって、きっと先に亡くなられた奥様に逢いに行きたくなったに違いなかろう。私に出来ることと言えば、時折彼のことを思い出すぐらいである。それでも彼のことだから、あのこぼれるような笑みでにっこりと笑ってくれるに違いない。手島さん、さようなら。