移りゆく季節のなかで(一)-これからのこと-
晩秋の候も半ばを過ぎて、涼しさが増してきた。朝晩は寒さを感じるほどである。今日などは、昼日中でも13度までしか上がらないとの予想であり、冬の到来ももうすぐである。今から振り返ると、あの夏の暑さが何だか嘘のようにも思われる。12月に入れば、クリスマスソングがあちこちに流れ始めるだろうから、そうなると2025年の暮れも近い。この一年は、身辺にあれこれと大きな出来事が生じたから、時間の経つのが速いのか遅いのかあまりはっきりしない。どちらとも言えそうなので、とても光陰矢の如しと書くわけにはいかなかろう。あれこれの出来事については、この後ゆっくりと触れるつもりである。
「盛暑の北東北紀行」と題した『月報』の原稿の校正作業もすべて終えたので、ようやく追われる仕事は何もなくなった。何ともすっきりした気分である。仕事部屋を整理・整頓しただけではなく、丁寧に掃除してみたり、後で触れるような事情もあって家事にも精を出してみた。そんな時に、コーヒーでも飲みながらこれからのことにあれこれと考えを巡らすのもなかなか愉しいものである。来年の第10号をシリーズ「裸木」の終刊号とする予定なので、その先のことについても考えておかなければならない。
何人かの知り合いからは、まだ止めなくてもいいのではないかと言われたりもしたが、例えわずかでもそんなことを言われているうちに止めるのが、きっといいのだろう。老後の道楽でやっているにすぎないのだから、有終の美を飾ろうなどといった気はさらさらない。身綺麗にしてさっぱりとした気分で終わりを迎えることは、何事に関しても大事なことなのではあるまいか。いつの間にか終わるのではなく、きちんとけじめをつけるのがどうも性に合っているような気がする。
そこで、まずは、終刊号のタイトルについて考えてみた。前から『何処から、そして何処へ』にするというアイディアは浮かんでいたが、他にいいタイトルが見当たらなかったので、これを採用することにした。「何処」は「どこ」とも「いずこ」とも読めるので、どちらでもいいのかもしれないが、「いずこ」と読んでもらいたい気持ちが強いので、あえて漢字表記にすることにした。このタイトルであれば、何となく終刊号らしい気がしないでもない。
終刊号のことも大事だが、より大きな問題となるのは、シリーズ「裸木」を終えた後どうするかということである。そのことについてもおおよその結論は出た。シリーズ「裸木」の続編として、シリーズ「晩景」と銘打って写真半分文章半分の写文集のようなものを作ってみることにしたのである。写真半分と書いたがメインは写真である。そんなわけで「晩景」としてみたのだが、この言葉もなかなか気に入っている。
シリーズ「裸木」のページ数は、はしがき、あとがき、目次をすべて込みにすると毎号170ページ程度になるので、この半分ぐらいの厚さの冊子にするつもりである。これまでの印刷部数は200~250部ほどだったが、これを100部ぐらいに押さえることにすれば、費用の面でも何とかなりそうである。ブログの掲載頻度は落としているが、止めるわけではないので文章の方はなんとかなる。問題なのは写真の方だろう。
この間撮りためた写真をパソコン上で一カ所に纏め、分類し、整理し直したことは、既にブログでも紹介済みである。なかなか大変だったこの作業を済ませたので、ホッと一息ついたわけだが、その後も写真を次々と撮り続けるので写真はどうしても増える。どこかに出掛ける時はいつもカメラを鞄に放り込んでおり、気が向けばどこでも撮っているので、増えるのはやむを得ない。こうなると、その都度分類して整理する必要が生まれる。放うっておくとかえってかえって余分な手間がかかることになるので、撮影後あまり間を置かずに整理することにした。これで一安心である。
シリーズ「裸木」は老後の道楽だと繰り返し公言してきたが、ではシリーズ「晩景」はどうなのだろう。道楽の「道」までもが取れて、ただの「楽」になると言えば言えなくもない。「楽」すなわち「遊び」であり「戯(たわむ)れ」である。年寄りの戯れと言ってみるのも悪くはなかろう。かの『梁塵秘抄』には「遊びをせんとや生まれけむ 戯(たわむ)れせんとや生まれけむ 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」とある。現代語に訳してみると、「(子どもは)遊ぶために生まれて来たのだろうか。戯れるために生まれて来たのだろうか。遊んでいる子供の声を聴いていると、私の身体さえも動いてしまう」となる。
その含意を勝手に掘り下げてみるならば、人生にはいろいろと苦労も多いが、できることなら子どもが遊ぶように夢中になって生きたいものである、といったことになのかもしれない。後白河上皇は、当時の流行歌謡である今様(いまよう)を遊女などから学んで『梁塵秘抄(りようじんひしょう)』を編んだということだが、私がシリーズ「晩景」でやろうとしていることなども、そんな類いのものなのではあるまいか。
高齢者がエッセイ集を作ってみたり、カメラを趣味にすることなど珍しくもなんともない。どこにでもあることだとまでは言わないが、よくあることなのであろう。まさに今様である。究極の自己満足であるが、夢中になれるものがあればそれに越したことはない。こんなことを書いているうちに、昔幼い頃に模型飛行機作りや魚すくいに夢中になっていたことを思い出した。この年まで生きてくれば、当時のように無我夢中になれることなどもはやなさそうな気もするが、夢の中と書く夢中もまたなんとも懐かしい言葉であり、そしてまた美しい言葉ではないか。

