盛暑の岩手・青森紀行(完)-下北半島の夏(下)-

 当初は前回の投稿で終わりにするつもりだったが、今回の分まで載せるとあまりに長文になってしまう。ただでさえ長くなりがちなブログの文章がさらに長くなっては、読者も迷惑するに違いない。そんなわけで、もう一回分増やすことにした。最後に取り上げるのは、斗南藩の悲劇の物語である。斗南藩に関わる史跡は他にもあるようだが、我々が巡ったのは、斗南藩士の下北半島への上陸地、斗南藩の史跡地である円通寺、それに斗南藩の開発の拠点となった斗南が丘である。いずれも大湊からさほど離れていないところにある。 戊辰戦争で「朝敵」の汚名を着せられて敗北した会津藩が、斗南藩として再興を許されたのが1869(明治2)年11月。その際に与えられた領地が、下北半島にあった元南部領の飛び地であった寒冷の痩せた荒地である。

 その際、これまでの23万石の大藩は3万石にまで減封らされるのだが、実態は7,000石ほどであったと言われる。1870年春に斗南藩の藩士とその家族約17,000名が、会津や東京、越後高田から陸路や海路を経て新たな藩領に辿り着いたのである。海路で辿り着いた際の跡を記した、しっかりした石の記念碑があった。側には東屋もあり、清掃に来られた地元の方々が休んでいた。予想以上に立派な場所だったので、何だか少し嬉しかった。

 われわれは夏の最中に眺めたので、海も山も美しく感じただけだったが、当時下北の僻地に上陸した人々はどんな思いであったのだろう。藩の再興に力を尽くそうと思っただけではなく、望郷の念に駆られたに違いない。上陸地の側には釜臥(かまふせ)山が見えたが、ガイドの方の説明によると、彼らは釜臥山を磐梯山に、海を猪苗代湖に見立てて故郷を懐かしんだという。記念碑も会津の方角に向けて建てられたようだ。

 続いて廻ったのは、「斗南藩史跡地 円通寺」と書かれたの木彫りの板が掲げられていた円通寺である。ここは先に触れた恐山菩提寺の本寺である。寺は新しく建て替えられていて、もはや昔の面影を偲ぶ縁は見当たらなかったが、寺の門前には史跡地であることを示す案内板と招魂碑があった。案内板には次のようなことが書かれていた。

 明治維新は会津藩にとって、まさに動乱の時代でした。朝敵の汚名を着せられたまま廃藩となった会津藩は、明治二年九月、全国唯一の移封処分を受け最花の地へ挙藩流罪となったのです。ここ円通寺は、明治四年二月十八日数え年三歳の松平容大(かたはる)公を藩主に迎え、斗南藩の仮館として藩庁が置かれた場所で、容保(かたもり)公、容大公が起居をともにされました。現在容大公愛玩の布袋像などが保存されています。また、同時に田名部迎町大黒屋文左衛門方に開設中の藩校日新館もここに移されました。境内にはこの地に残った会津人の手により、明治三十三年八月容大公揮ごうによる会津藩士の招魂碑建てられました。碑文は会津藩士族南摩綱紀博士の撰によります。

 読んでいて「最花」は最北の間違いではないかと一瞬思ったが、調べてみると、むつ市内の地名でさいばなと読む。ここに登場する南摩綱紀(なんま・つなのり)という人物についても初めて知った。戊辰戦争後、漢学者として名声があった南摩は明治政府に招聘され、太政官に出仕し次いで東京大学教授、東京高等師範学校教授などを歴任したという。招魂碑の裏面には南摩の一文が刻まれている。漢文なので、私などにはとても読めないが、調べてみると原文だけではなく読み下し文も紹介されていた。紹介してみる。

 明治戊辰の乱、会津藩士各地に奮戦す。死者数千人、その忠勇節烈は凛乎(毅然として)として風霜を凌ぐ。乱平ぐに及び生者は皆、一視同仁(差別をつけず全ての人を同じように愛する事)の澤(恩恵)に浴す。而して死者の幽魂は独り寒煙(物寂しい)たる野草の間を彷徨(さまよい)し、その所を得ず。ああ哀しいかな、今茲(ことし)庚子(カノエネ)(明治三十三年の干支)はその三十三年忌辰(命日)なり。是に於いて旧藩士の南部下北郡に居する者、碑を圓通寺に建て、招魂の祭りをあい謀る。この寺は即ち旧藩主容大公の斗南に封せらる時の館なる所也。

 最後に訪れたのは斗南ヶ丘である。ここは斗南藩が開発の拠点として位置付け、新たな町作りを目論んだところである。この地のいわれを記したいくつかの案内板や記念碑などがあったが、周りは夏草が茂るばかりで、もはやこうしたところにまで足を運ぶ人はほとんどいないのではないかとさえ思われた。ここ南ヶ丘は、まさに「兵どもが夢の跡」とでも言うしかない場所であった。

 移住した藩士たちが夢を託したこの場所も、明治4年7月の廃藩置県によって斗南藩は県となり、9月には斗南県を含む五県が弘前県に併合。翌年には政府の援助も打ち切られたために、多くの藩士は斗南の地を去り散り散りばらばらになっていくのである。会津に戻る者、東京に向かう者、北海道に渡る者もいたが、斗南に残った者もいた。彼らの藩再興の努力は水泡に帰すことになるのだが、他面では皮肉なことに、この廃藩置県によって救われたとも言われる。餓死の恐怖に怯えなければならないような斗南の地に縛られなくて済むようになったからである。また、ここには「秩父宮両殿下御成記念碑」などといったものもあり、案内板には以下のようなことが記されていた。

 この碑は昭和十一年十月に皇弟秩父宮雍仁親王殿下・同妃勢津子殿下(旧斗南藩主松平容大の令姪)が下北郡下を巡遊され、斗南ヶ丘に立ち寄られたことを記念して昭和十八年七月に会津相携会(現在の斗南会津会)が中心となり建立されました。昭和三年九月の秩父宮殿下と松平節子姫(御婚礼後勢津子と改名)との御婚儀は、戊辰戦争以降、朝敵という汚名に押しつぶされながら生き続けてきた会津人にとって、再び天皇家と強い絆を結ぶことができるようになった大きな出来事でした。やはり会津は逆賊ではなかったいうことが天下万民に知らしめられ、さらに最果てのこの地まで両殿下に足を運んでいただいたという感激が、斗南藩が農業授産を夢見て建設した斗南の地に建つこの石碑に込められています。

 朝敵といった謂われなき屈辱に耐えてきたが故の会津人の思いであり、記念碑なのであろう。戦前であればその思いが殊の外強かったはずであり、私にも理解できないわけではなかったが、昭和天皇の戦争責任に今でも拘りを感じている人間からすれば、何とも倒錯した心理のようにも思われた。会津を朝敵に仕立て上げて暴虐の限りを尽くした薩長は勿論のこと、徳川家も天皇家もそして国民も、勝った「官軍」になびいて「賊軍」会津を見捨て見殺しにしたのである。今更天皇家などにすがって何が得られるというのであろうか。もっと重要なことは、歴史の彼方に消え去ろうとしている斗南における苦難の実相を、虚飾を抜きにありのままに知ることであろう。

 この間、斗南藩のことを知りたいと思ってあれこれの著作を手にした。まずは、私の地元福島に住み歴史物を数多く描いた作家星亮一のものを読んでみた。会津藩に関する彼の著作は数多いので、斜め読みしたのは『会津落城 戊辰戦争最大の悲劇』(中公新書、2003年)、『斗南藩-「朝敵」会津藩士たちの苦難の歴史』(中公新書、2018年)、『偽りの明治維新 会津戊辰戦争の真実』(だいわ文庫、2008年)の3冊である。それぞれに興味深い史実が盛り込まれており、この一文のあちこちで参考にさせてもらった。しかしながら、最も印象深かった著作は何かと問われれば、即座に上げたいのは石光真人編著の『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書改版』(中公新書、1971年、改版は2017年)である。

 何故かといえば、少年の日に会津戦争を体験し、東京に護送された後斗南藩に移封され、廃藩後給仕や下僕の身となりながら陸軍幼年学校に入り、軍人の道を歩んで陸軍大将にまでなった柴五郎という人物の遺書の形を取った回想記だからである。遺書の冒頭には次のような一文がある。あまりにも壮絶な体験であり、これに何事かを加えようとは思わない。「そのころすでに自宅にて自害し果てたる祖母、母、姉妹のもとに馳せ行かんとせるも能わず、余は路傍に身を投げ、地を叩き、草をむしりて泣きさけびしこと、 昨日のごとく想わる。落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥なく、耕すに鍬なく、まこと乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆(むしろ)を張りて生きながらえし辛酸の年月、いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれとなれり。悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文を献ずるは血を吐く思いなり」。 

 こうした体験を持つ柴五郎と会って遺書を整理し書き写した著者は、その時の様子を次のように書き留めている。「このとき翁は八十四歳、白髯(はくぜん)を垂れて、木綿の粗末なモンベ姿で応対された。原稿について説明をお聞きしていくうち、思い出すままぼつぼつと語られ、ときおり言葉がとだえてしまう。気がつくと翁はひそかに腰の手拭を手にして両眼をおおわれていた。その心境が少年時代をただなつかしむ懐旧の情だけではないことを、本書をお読みになった方にはおわかりいただけると思う。白髯の垂れた老顔を流れ伝う涙は、岩清水に似て清らかであり、北辺の海に打ち上げられた流木ともいうべき会津の歴史を、無情に濡らす霙(みぞれ)のようにも思われて、私自身言葉に窮することが、しばしばであった。飢え果てて藁小屋から這い出て来る会津藩士一党の口情し涙でもあったかと思う」。この文章に続いて次のような大事な一文がある。引用続きとなるのだが、ご容赦願いたい。

 本書の中に、薩長両藩ならびに、その出身者にたいして、激しい口調の言葉が沢山みられるが、これはそのままとした。一部の心なき「軽る者(かるもの)」が権力の座につき専横、浪費に明け春れた激動の時代であった。折り目正しい会津の教育を受けた少年の眼に映じた時代の相はそのまま伝えるべきであると思ったからである。このことを翁みずから少年の純情に由来するもの、と記しているが、このような薩長出身者の藩閥新政府のもとにおける専横、浪費は「軽る者」の軽挙として書かれているが、「軽る者」に限らず 維新の功労者と称する人々に褒賞として与えられた旧藩邸や、巨額の俸給を知れば、旧幕時代の勤倹節約など忘れ去られたかのようであった。卒直にいえば、世の変革期に現われがちな、いわゆる成り上りの風潮であろう。ことに、革命とかクーデターとかいうものが、いつの世 いつの世においても、どこの国においても、だいたい同じように、行動力のある中・下武士のエの手によって指導される例が多いので、彼等が権勢の座についてからは、太平の世に馴れて遊惰に過したかつての指導者層を威圧するためにも自らを飾り立てる必要があったのでたのであろう。やがて彼等は政商と結ばれ、財閥・華族とともに貴族趣味に走っていった。

 何と鋭い指摘であることか。明治維新と言われるものの正体、ひいては日本の近代化の裏面を垣間見るかの如くである。会津藩のさらには斗南藩の悲劇の歴史を知ることは、現代を生きる我々にも大きな示唆を与えてくれる。「勝てば官軍、負ければ賊軍」などでは断じてないということである。「維新」などという言葉を気軽に使う人々は今もいるが、そうした人々はもしかしたら「軽る者」なのかもしれない。今回の調査旅行では、たくさんの死者と遭遇した。佐々木喜善、宮沢賢治、石川啄木、松本竣介、寺山修司、そして柴五郎。書き終えてみると、すべての人物があまりにも身近な存在となってしまい、ひどく懐かしく思われた。一番の供養は「死者を思い出す」ことだと恐山の僧は言ったが、その通りなのだとあらためて感じた次第である。