盛暑の岩手・青森紀行(四)-柳田國男と佐々木喜善(後)-

  柳田國男は、後に日本学士院会員、日本芸術院会員、文化功労者となり、文化勲章まで受章している。佐々木喜善は遠野村の村会議員や村長にまでなったが、彼我の差は比べようもない。柳田は1962年に没しており87歳まで生きたが、喜善は1933年に48歳でこの世を去っている。喜善とも親交のあった宮沢賢治の死から8日後のことである。喜善は小説家になることを強く願っていたが、志半ばで失意のうちになくなった。彼の文芸作品で生前に出版された単行本は一冊もなかったという。

 こんなふうにして佐々木喜善のことを調べているうちに、彼に関する評伝の類いが他にもあることを知った。岩手の作家や文筆家が、関心を払いたくなるような人物だったからであろう。遠野には伊能嘉矩(いのう・かのり)という台湾研究で知られた著名な人物もいるのだが、彼の生涯を描く評伝のようなものは見当たらない。彼は学者であったから残された著作がすべてであり、生身の人間を描くことの意味を見いだすことが難しいからであろうか。

 折角だから、伊能嘉矩についてもここで一言触れておこう。遠野市立博物館で入手した『伊能嘉矩~台湾研究と郷土研究の生涯~』と題したパンフレットによれば、彼は10年ほど台湾に滞在した後遠野に帰郷するのだが、その後柳田國男やネフスキー、中道等(なかみち・ひとし)などの民俗学者との交流も広がり、書簡や学会誌掲載論文等を通して多くの研究者に影響を及ぼしたという。「遠野物語」 出版の前年に遠野を訪れて伊能と面会した柳田國男は、後に「かかる山間の一盆地に我伊能氏の如き、 希有の篤学者を産するに至ったかといふことは、実は不審と名付けてもよい程の内心の驚愕であった」(『台湾文化志』の序文)と記したほど、人類学・歴史学・民俗学の先駆者というべき伊能を敬慕し、 終生交流が続いたと記されていた。

 佐々木喜善の生涯をたどった著作でもっとも興味深く読んだのは、先に触れた長尾宇迦の『幽霊記-小説『遠野物語』ー』であるが、探してみるとそれ以外にも二冊あった。一つは山田野理夫の『遠野物語の人ーわが佐々木喜善伝ー』(椿書院、1974年)であり、もう一つは三好京三の『遠野夢詩人ー佐々木喜善と柳田國男ー』(PHP文庫、1991年)である。長尾宇迦は岩手県立高校の教員を経て文筆業に転じ、 山田野理夫は仙台の出身で『南部牛追唄』で第6回農民文学賞を受賞し、三好京三は岩手の胆沢郡前沢町の出で、長らく県下の小学校で教員を勤め『子育てごっこ』で第76回の直木賞を受賞している。この三人もまた、佐々木喜善と同じように文学に魅入られていった人たちなのであろう。だからこそ、喜善という人物に深い関心を抱いたに違いない。

 山田野理夫の『遠野物語の人ーわが佐々木喜善伝ー』は、いささか不思議な本である。丹念に喜善の人生を掘り起こしてはいるのだが、著者が何故この著作を纏めたのか、そのわけが何処にも触れられていないからである。それらしきことは、あとがきに「私が佐々木喜善のことを書いたはじめは昭和二十九年の、『仙台風俗志』(潮文社版南部牛追歌に併録)に点景人物として登場さしたことからである。いま『遠野物語の人』を脱稿して前記のことが頭に浮かんだ。私はそれ以来佐々木喜善の世界とその人につよく惹かれてきた。無論いまも変わりはない」とあるだけである。しかも、本文には章も見出しも見当たらない。だから目次もない。あるのは、桑原武夫の序辞と中折れ表紙にある木下順二の推薦文である。これもまた珍しいのではなかろうか。桑原の序辞は次のようなものである。

 仙台時代の旧知、山田野理夫氏が突然来訪され、本書の校正刷を示された。佐々木喜善とは、日本民俗学の最初の記念碑的作品『遠野物語』の冒頭に、柳田国男が「此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり」としるした、鏡石その人である。その功の大なること言うまでもないが、その名は必ずしも不朽ではない。泉鏡花に私淑し、その鏡の字と郷里に近い釜石の石の字とを合せて雅号とした佐々木は、つとに文学的野心をいだいており、単なる資料提供者たるに甘んずることをいさぎよしとしなかった。しかし学歴をもたぬ東北農村の出身者が中央で名をなすためには、啄木以上の才能を不可欠としたであろう。彼は生来蒲柳(ほりゅう)の質で、しかも世間で成功するのに必要な何ものかが彼のパーソナリティには欠けていたように見える。彼はさまざまに転戦して挫折を余儀なくされるが、異郷に死ぬまで不屈の戦いを放棄しようとしないのである。 山田氏は、このロマン主義者に同情をいだきつつ、しかし客観的に、新資料を発掘しつつ、その生涯を辿り、一つの興味ふかいヒューマン・ドキュメントをつくり上げている。

 あわせて、木下順二の推薦文も紹介しておこう。「佐々木喜善は、『聴耳草紙』その他の仕事によって、もとより独立した一つの峯である。だが同時に佐々木喜善は、 主として『遠野物語』の縁において、柳田国男という図抜けて巨きな山の山裾の、貴重な一部分でもある。この書の著者は、佐々木喜善に対する特別な親愛感の上に立って、今まで広く知られることのなかったその人の生涯を、今まで誰も知ることのなかった深さにおいて描いている。一つの峯の姿を探りつつ、期せずして巨嶽の全体像を更に明らかにする仕事をも果している」というものである。

 著者の山田は、桑原武夫や木下順二といった著名な文筆家に寄稿してもらったことがよほど嬉しかったようで、「生涯の記念」とまで書いている。何やら佐々木喜善に似た振る舞いのようにも見える。もしかすると、佐々木喜善に関心を持ち彼の人生を辿ろうとするよう人は、自分の胸の奥に喜善と似た思いがあることをよく知っている人なのかもしれない。文学に魅入られたからだけではない、桑原が言うところの「成功するのに必要な何もの」かが欠けているのかもしれないという不安である。

 もう一冊の三好京三の『遠野夢詩人ー佐々木喜善と柳田國男ー』はどうだろうか。こちらは、残された喜善の日記を丹念に読み込んで新事実を発掘しており、実に興味深い作品に仕上がっている。裏表紙を見るとわかるが、三好の意図は以下の文に明らかである。「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。――日本民俗学の名著「遠野物語」はこの一文から始まる。民話の宝庫・遠野に生まれ、自ら作家を志した佐々木鏡石こと喜善。しかし柳田国男との出会いが彼の運命を大きく狂わせていく。作家であることを夢みながら、『語り部』にしかなれなかった男。本書はその死の前日までの日記ほか、膨大な資料をもとに書きおこされた渾身の評伝小説。幻想と詩情あふれる北国に夢破れて散った一人の人間の生涯を描く」。

 明治37年から死の前日の昭和8年9月28日に至る佐々木喜善日記は、子息の佐々木広吉がノートや日記帳から筆写したものであり、原稿用紙にして2762枚あったと書かれていた。筆写した広吉は、「喜善を書かれるなら、日記を読んでからになさってください」と言ったらしい。その日記には、身内としては触れられたくないであろう喜善の秘事までもがふんだんに盛られていたようだ。三好はそれを読み、「喜善の真摯な生き方に感動して、幾度涙をぬぐったかしれない」と書く。可愛がっていた子供の若子も死に、新聞の連載は途中で打ち切られ、借金をしようにもすべて断られ、柳田に頼ってもすげなくされ、何とも言いようのない貧苦に苛まれていたからである。そう言えば、この一文を書いている今日9月29日は、奇しくも喜善の命日である。

 そうしたこともあって、三好は「この日記がなかったら、どれだけ喜善の人間像に迫り得たかと空恐ろしい気持ちさえする。これまで、喜善の女性関係については、故意にか、あるいは真実不明のためか、ほとんどあきらかにされていなかった。それが実に生々しく日記には書き記されていた。これは彼の文筆生活とも密接にかかわっているので、その一部を小説に組み入れた。日記のほかに婚約者にあてた手紙の下書きも発見され、執筆のさなかに広吉さんからお貸しいただいた。まことにありがたいことであった」と深謝するとともに、自身の直木賞受賞作である『子育てごっこ』を超えた作品だとまで書いている。

 上記のようなことを知れば、『遠野夢詩人ー佐々木喜善と柳田國男ー』を超えるような作品が、これからもう書かれることはなかろう。佐々木喜善を描く評伝は、この本が最後となるようにも思われた。そして以下に触れておきたいのは、長尾宇迦の『幽霊記-小説『遠野物語』ー』のほとんど終末の部分である。かなり驚くようなことが書かれていた。長くなるが紹介してみる。

 葉舟(水野葉舟のこと)は、半年前の便りに、千葉毎日新聞に短篇の創作を寄稿したといってきた。 小地方紙でしか、相手にされなくなった彼を、憐れむ気持になったものだった。 それが、(このたび、東京の修文社なる文芸本出版社から、自選集を出すことになった。ついては、往時の文学仲間の写真を巻頭に飾ることとした。が、手元をさがしても、震災や移転のためか紛失してしまったようだ。北原白秋、三木露風両君にも頼んだが、見当らないという。貴君は、蒐集物の整理などで几帳面な性格ゆえ、ぜひ、よい返報をいただきたい。修文社と因縁ができれば、貴君の創作集も進言するし、この際、一花咲かせようではないか)と力強く認(したた)めてあった。

 葉舟は口先だけの人間ではない。よし、もう一度だけ、小説に立ち向ってみる。たとえ、眼が不自由であっても、マツノに口述する方法もある。にわかに息苦しくなった。俺も、文学の幽霊だな、としみじみ思う。喜善は、明治43年の夏に、水野邸で撮った仲間の写真を大切に保存していた。 あのころは、葉舟が師匠格で、ひとりで抜き手をきっていたものだ。そして現在は、北原白秋も三木露風も、前田夕暮も、それぞれが詩歌の大家としてもてはやされている。よし、俺も葉舟にくっついて泳がなければならない。離れてなるものか、と肩をいからせた。秋の涼風が、肌に心地よい日だった。

 東京、神田神保町の修文社から、葉舟にもとめられて貸した写真が、送り返されてきた。見本刷も同封されている。喜善は、かつての日の写真が印刷になっているのを、眼を見張るようにして見た。写真の下に名前が付されてある。(左より 三木露風 水野葉舟 一人おいて  北原白秋  前田夕暮)喜善は、うめき声をあげていた。「一人おいて」とは、ひとりの人間の抹殺ではないか。この写真を葉舟に送る時、喜善は競争者としての再起に燃えていた。その抹殺された自分を、葉舟は、どうして創作集に推挙できるというのか。

 あまりにも残酷な結末である。「抹殺」されたことを知った時の喜善の怒り、嘆き、悲しみは、いったいどれほどのものであったことか。私のような凡人の想像の域をはるかに超えている。私も、「一人おいて」と書かれているような写真を、文学全集などでこれまでに何度も見たことがある。そうなるのは、例え一緒に写真に写っていたとしても、世に名を知られることのなかった無名の人だと判断されたからであろう。何と悲しい話であろうか。正直に吐露すれば、この私は「一人おいて」と書かれた人物の胸中など、これまでに一度たりとも想像してみたことがなかった。

 遠野に出掛けたことが切っ掛けで、「一人おいて」の人とされてしまった佐々木喜善のことを知ったが、それ故か、遠野がたまらなく懐かしい場所となってしまった。写真家の田中一郎が撮影した『遠野 日本のふるさと』(求龍堂、2011年)と題した写真集がある。広げるとたくさんの郷愁を誘う写真が目に飛び込んでくる。そんな懐かし雲美しい景色のなかを、喜善の夢は静かに流れて去っていったに違いあるまい。そして、喜善に魅入られたはずの長尾も山田も三好もすべて亡くなった。